見出し画像

【書評】皇国史観(片山 杜秀 著 文春新書)

 11代伝蔵 書評100本勝負29本目
 久しぶりに読み応えのある本だったというのが読後の最初の感想です。
講義録形式で書いていますから、語りかけるような読みやすい文体で内容がスッと入ってきます。論の構成も順序立て説明されているので、たとえ興味がなくても「何が書いてあるかさっぱり分からん」ということはなかろうと思います。ただ見かけの文体は易しくても内容は骨太です。要するに天皇を巡る問題ですから、この1冊だけで全てが解決するわけではもちろんなく、むしろとっかかりの本として僕のような素人には最適な一冊だと思いました。
 筆者はまず書名となっている「皇国史観」を広辞苑で調べ、引用します。
<国家神道に基づき、日本歴史を万世一系の現人神である天皇が永遠に君臨する万邦無比の神国の歴史として描く歴史観。近世の国学を基礎として、十五年戦争期に正統的歴史観として支配的地位を占め、国民の統合・動員に大きな役割を演じた>
 筆者はこの定義を否定はしていませんが、<近世の国学などを基礎として云々>が<ずいぶん派手に飛んでいる>とします。そこで筆者は<近世の国学などを基礎にして>から記述を始めます。つまり<視界を「十五年戦争期」からもっと広げて、前提が整えられてゆく江戸期のことも確認しながら、明治以来、近代日本の大きな枠組みを作り上げているものとして「皇国史観」を考え>ようというわけです。
  筆者によれば<江戸時代にルーツが求められるとはいえ、あくまで近代の産物だ>と言います。これはおそらく我々のイメージと合致するもので、明治以降昭和二十年までは天皇を中心とした国家でした。そしてそれを思想として理論づける役割が筆者が取り上げる「皇国史観」だとします。
 
 僕はしっかりと認識していませんでしたが、「皇国史観」のルーツは江戸期で、徳川御三家の一つ、水戸家から出たものです。「皇国史観」はいろんな定義が可能ですが、要るするに「天皇が一番偉い」という思想ですから、その思想が御三家の一つ水戸家が主張したことは重要です。なぜなら将軍家の一員でありながら、将軍の権威を否定しかねないからです。水戸家の主張する「皇国史観」の内容は次第に過激化し、藩内の主流派になり得ず、幕末期に主導的な地位に立つことはありませんでした。しかしながらその思想は長州藩に引き継がれ、日本の近代化のベースとなりました。ただ、その具体的な考え方は為政者や時代によって異なります。僕の解釈は天皇の主権を緩やかにみるのか絶対的とみるかの違いです。明治以降濃淡はあれ、特に戦時(日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、十五年戦争)には「天皇の絶対性」が強かったでしょう。最終的には昭和天皇の戦争責任は問われなかったので、前者の考え方が底流にあったと考えるべきでしょう。つまり憲法などでいくら規定しようとも天皇の存在は曖昧にならざるを得ないし、それがまた「皇国史観」の一つと特徴であると言えるのかもしれません。だからこそ「皇国史観」は毒にも薬にもなるのでしょう。その一例として筆者は上皇陛下の退位問題を取り上げます。恥ずかしながら、六年前この問題が最初に発議されたとき、ことの重大さに全く気がついていませんでした。ご存知のように(僕はあんまりご存知なかったのですけど苦笑)憲法の規定により天皇は自ら退位を発議することができません。それにもかからず、天皇が会見をし、政府を動かしました。結局特別立法が成立し、退位が実現しました。天皇の発言に批判もあったようですが、先の天皇皇后両陛下の人徳により国民の大きな支持が背景にありました。僕もまた退位を支持するものですが、自ら退位を発議するのは政治利用され兼ねません。退位関する明確なルールを制定することなく先送りをした印象があります。日本人にとって天皇の問題は国民一人一人が考えるべき問題であると本書を読んで痛感しました。皇位継承を含め、頭の片隅に常に置くべきだと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?