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戯曲『マクベス』と芥川

「ドライブ・マイ・カー」がアカデミー賞にノミネートされた話題作として、それがチェーホフの「ワーニャ叔父さん」を知らないとむずかしい、という書評がありました。
原作が村上春樹さん、ですからさもありなん。

ご承知のように村上さんは団塊世代(1949年1月12日 ≪年齢 73歳≫)ですから、とうぜん団塊世代代表であり、ビートルズ世代(ノルウェイの森)と換言できるでしよう。

この世にも不思議な「団塊世代」というカテゴリーは、何?、ということになりますが、アバウトに云うと、戦後生まれの「一塊り世代層1947~1949の三年限定」世代を指していいます。ほかに理由はありません。
そうした世代が何かにつけて話題で「諸悪の根源」みたいな比喩でよくつかわれます。

その嫌われ理由の一つが「ネット」ができない(やることもあるが希少)歳で、部下(若い女子事務員名指し)にコピーを取らせる、ことなど嫌われる理由の一つです。といってもすでに定年退職しているので、その残滓世代が生き残っているので、後数年かかるでしよう。

今ではそのジュニア世代(アラフォー)が主流で、キャリアとして社会を席捲していると訊きます。これを書く前に、そのネットネタを見ていたら、そんな団塊記事があったので、要点をメモしておきました。

その「ドライブ・マイ・カー」、ですが、観ていないので、なんとも言い難いのですが「万引き家族」とは違う。
映画ですから、このnoteリテラシーとは違って「視覚」に訴える要素が強い。だから語りよりカメラアングルが重要で、監督とカメラマンは、阿吽の呼吸が必須条件だと思います。

昔の映画には、優れた作品が多く作られたものがありますが、とくに秀逸と思ったのは「飢餓海峡」でした。
原作「水上勉」作で、刑事もの推理小説仕立てになっていましたが、実話をモチーフにした筋書きは見事でした。
■昭和22年。青函連絡船沈没事故と北海道岩内での大規模火災が同時に起きる。火災は、質屋の店主を殺害し金品を奪った犯人による放火と判明。そして、転覆した連絡船からは質屋に押し入った3人組の強盗のうちの2人の死体が見つかった。函館警察の弓坂刑事は、事件の夜に姿を消した犬飼多吉という男を追って下北半島に赴く。
公開日: 1965年1月15日 (日本)
監督: 内田 吐夢
原作者: 水上勉
映画脚本: 鈴木尚之
撮影: 仲沢半次郎
製作: 大川博
キャスト 高倉健 三國 連太郎  左 幸子
杉戸 八重 伴 淳三郎 
キャスティング ヒロイン・杉戸八重役には岡田が佐久間良子を推し、内田も了解した。しかし、岡田が京撮に戻ると内田が左幸子に変更した。岡田は三國連太郎を嫌っていたため、三國の主役なら撮らせたくないと内田に伝えたが、内田が「これは三國以外にやれる人間はいないから、三國でなければ俺が降りる」と押し切った。また、高倉健の起用も内田の意向という。ウイキペディア

一口でいうとそれはエンターテイメント映画でハリウッド的な作品でした。それと比べると「ドライブ・マイ・カー」はギリシア神話的な匂いのする観念小説で「ノルウェイの森」同様、アカデミックな映画ではないかと思いました。(観てないので違うかもしれない)

その「飢餓海峡」のほか、お気に入りでは「羅生門」や「蜘蛛巣城」、「雨月物語」などがあります。 

『蜘蛛巣城』(くものすじょう)は、1957年に公開された日本映画。監督は黒澤明、主演は三船敏郎と山田五十鈴。シェイクスピアの戯曲『マクベス』を日本の戦国時代に置き換えた作品で、原作の世界観に能の様式美を取り入れた。ラストに三船の演じる主人公が無数の矢を浴びるシーンで知られるが、このシーンは実際に三船やその周囲めがけて本物の矢を射って撮影した。海外ではシェイクスピアの映画化作品で優れた作品の1つとして評価されている。

そして「羅生門」金沢の証言
最後に巫女が呼ばれ、金沢の霊を呼び出して証言を得る。金沢の霊曰く、真砂は多襄丸に辱められた後、彼に情を移し、一緒に行く代わりに自分の夫を殺すように求めた。しかし、その浅ましい態度に流石の多襄丸も呆れ果て、女を生かすか殺すか夫のお前が決めて良いと金沢に申し出た。それを聞いた真砂は逃亡し、多襄丸も姿を消し、一人残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害した。そして自分が死んだ後に何者かが現れ、短刀を引き抜いたが、それは誰かわからないと答える。

その二つの映画が、よく似ていて、ともに幻覚と呪術シーンを使って異次元を演出する黒沢監督は、やはり別格監督だと思ったのです。

昨日はweb3.0をネタに記事を書きましたが、あまり評判はよくなかった。やはり判りにくさ、というのがあったのでしょう。まして、それを知ってどうする、という書き手と読み手のギャップがあります。(選挙と同じ)

最近のニュースを見聞してみても「マスク」Twitterとか、アメリカ選挙(トランプ)候補記事とか、国内については平和なので、これといって(国内政治ネタは飽和状態)で、書いてアップするほどの記事がないですね。

だから自分でそれを探して、それを大衆受け、するような記事に書き直す必要があります。これが一番難しい。

note内を見回しても、皆さんそれに腐心しており、「だったら私が教えま」記事が、最近多いように見受けられます。
後、自分のnoteページ枠には、関連記事が張られますが、それがいかにも、関連記事っぽくて、「いや、そんなの読まないよ」、という嫌悪がありますので、noteさま、どうぞご一考を。

いま世界を展望しているとハイテンション状態の一触即発のように、見て取れますが、日本の歴史においても激動の時代があり、大きな時代の転換期がありました。

それを単なる歴史資料として語ってしまうと、冒頭の映画仕立てになってしまって、映画アングルに化けてしまうのですが、その一つ一つを丹念に読み解くと、現在の流動している世界観とまったく遜色ないことが判ります。

その歴史話とは、「明治維新」直前の徳川政権が、これから巨体が崩れ落ち、新しい時代(大混乱)がやってくるという前兆の歴史でした。
そんなことを調べるのに検索ウイキペディアは必須アイテムですが、さらにそれを面白くするには、当然、創意工夫が必要です。

そんな時代考証をこれから~語ってみたいと思います。

続編### 

1970年代、のテレビ画像は何を放送していたのか

昨日、テレビの伝えるべき使命、としてSNSなどではしばしば「マスゴミ」に対する激しい批判が見られる 機能を持つマスメディアは、少なくとも日本では、ある程度信頼されている 「テレビっぽいもの」があればテレビ局は必要ないのか…なぜ"マスゴミ"と呼ばれてしまうのかを考える、などの問題提起のようなものを書いてみたが、本日は、その実際に「何」を伝えたか、を書こうと思う。

その記事は、「天地真理」回顧ストーリーを書いたもので、PV閲覧10を超えました、というnote 通知でした。
やはりというべきか、歌手芸能系は知名度もあるし、説明を必要としない点で書くのも楽だったし、ネタ集めも楽でした。といっても、芸能ゴシップは、殆ど記事にしないのが私の鉄則で、これは異例中の異例でした。

その訳は、往年の「オーラ」がすっかり消え失せ、今では独居老人ホーム暮らし、という無残な生活を、こともなげに晒すという、その落差と勇気に、感心したからでした。一般的に、輝かしい過去は、そのままにして封印するものですが、そんなことは微塵も見せなかった「天地真理」は、やはり常人ではないとおもいました。
 

「明治維新」というネット更新線引きは存在しない

東京品川高輪駅周辺「柘榴坂」

『このあたりは旧高輪南町で、「東京府志科」の同町の条に「明治二年仲町を合せ五年又もと鹿児島久留米其他三四藩の邸地を併す」とあり、この坂道については無名坂としている。

坂の北側はむかしの鹿児島(薩摩)藩下屋敷で当時は薩摩藩の高輪屋敷とよばれていた。明治維新後は官収され宮内省の用地となり、北白川宮、竹田宮、東久邇宮の三宮の御殿がつくられた。戦後、北白川宮邸宅は衆院議員宿舎、竹田宮邸は高輪プリンスホテルとなり、さらに東久邇宮邸跡は阪急系の高層ホテル「ホテルパシフィック」が建っている。』とのこと。

江戸時代には北側が薩摩藩島津家下屋敷、南側が久留米藩有馬家下屋敷と両側を広大な屋敷に挟まれていた。坂下南側には「高山稲荷」に通じる二百数段の石段が伸びていたが、同社は境内縮小により現在柘榴坂とは接していない。

別 名:新坂(しんざか)所在地:港区高輪三丁目と四丁目の間
柘榴ざくろ坂 (別名 新坂) 東京都港区高輪3丁目と4丁目の間

江戸時代の柘榴坂
『江戸町づくし』(註1)に「柘榴坂 奥平殿御下やしきより南高輪へ下る」とあり、『江戸町独案内』(文政四年・1821)に「柘榴坂 奥平やしきわき」と記されている。遅くとも江戸末期の文政年間(1818‐1830)には柘榴坂と呼ばれていたが、いつ頃からそう呼ばれるようになったか定かでない。

『江戸町づくし』に載る「柘榴坂」→道そのものは古くからあったようで『新板江戸外絵図』(寛文年間・1661-73)や『江戸方角安見図』(延宝八年・1680)(地図②)には、尾張屋板『芝三田二本榎高輪辺図』(地図①)と変わらない道筋が記されている。(坂記号IIIが記されているが坂名は記されていない。)
 坂周辺の様子を詳しく見てみる。『新板江戸外絵図』や『江戸方角安見図』(地図②)が刊行された時代から尾張屋板『芝三田二本榎高輪辺図』が出版された頃(地図①)まで柘榴坂は、変わらず松平薩摩下屋敷(薩摩藩・地図①-A)、奥平家下屋敷(豊前中津藩・地図①‐C)および有馬家下屋敷(筑後久留米藩・地図②-B)の間を東から西へと上る坂であった。

 坂の途中でいったん北に折れ、再び西へ上って行くのが特徴である(現在の柘榴坂は真直ぐな坂で江戸の坂の形とは異なるがこの事は後述する)。坂下は旧東海道(現在は第一京浜)で、その目の前に海が広がっていた。波が打ち寄せる音が聞え、潮の香もただよってくるそんな坂であったと思われる。
 地図には描かれていないが、薩摩藩下屋敷の敷地内に石神社があったことから柘榴坂の道筋は「おしゃもじ横町」と呼ばれた。(『江戸名所図会』)。

「石神(しゃくじん)横町」が転訛したものと伝わる。東海道へ出る手前には有馬家下屋敷に接して高山稲荷社が祭られていた。稲荷社は柘榴坂南側の高台に祀られており急な石段を上って参詣した。
「当時高輪の地形は小高い丘陵で社殿は二百数十段の石段の山峰に位置し山上の神社故高山神社と称されたと伝えられております。」(高山稲荷神社由緒)と云う。両神社とも『江戸名所図会』に図版が載っている。

 柘榴坂の名前の由来は伝わっていない。

 江戸時代の坂名は坂の特徴をとらえて坂の名前としていることはよく知られている。富士山が見える坂は富士見坂、海が見える坂は潮見坂、稲荷社があれば稲荷坂、屋敷の名前やそこに住んだ人名、坂の形状など、坂の特徴をとらえて坂名にした。(浅間が付くと富士の見える場) 樹木の名前をつけた坂名も多い。
 榎坂、梨木坂、さいかち坂、もちの木坂、一本松坂、紅梅坂などの名前が伝わっている。坂のどこかにあった樹木の名前を借りた坂名であった。柘榴坂の名前も、坂付近にざくろの木がありその名を坂名としたのであろう。
(※地名字名とは、そんな安易な理由でつけていない 筆者)
ウイキペディア出典

映画「柘榴坂の仇討」は浅田次郎原作を映画にしたものですが、「日本歴史」でも有名な「桜田門外の変」井伊直弼暗殺事件をモチーフにしたものです。その内容は政治的話は、ほどほどにして、近江彦根藩の主君警護役「志村金吾」が、その仇討ちのため水戸藩浪士「佐橋十兵衛」を、ひたすら追って、仇を晴らす、という「勧善懲悪」の筋典型に仕立てたものでした。
その甲乙人物設定は、原作者の創作ですが、シナリオは寸分たがわぬ時代背景によくマッチしていたように思います。

そしてその「柘榴坂」仇討ちの場、ですが、映画トピックでも、他の記事でも、柘榴坂の謂れ、については触れていない。そもそも「柘榴坂」が品川駅周辺に、現在において、あるのかないのかも示していない。(駅に一部ある)
おそらく周辺の大小様々な開発行為で、もともとあったものが、何らかの事情で、撤去されたか抹消されてしまったか、その理由は定かではありませんが、その形跡がない。かろうじて、昔あった『社』跡が、その片鱗を示していたようです。

なぜ、それに拘るかといったら私の住む一宮町は、古代古文書゛延喜式゛にも書かれている由緒のある街で、また近代においても「高級軍人」別荘地として有名で「東の大磯」と別称されていたくらいです。
中でも「斎藤実」(歴代首相 後に2.26事件 1936年暗殺)の別荘があった土地で、そこには、石碑が建立されていて当時の歴史を想起させます。

そんな観点からしてみると、謂れの地、というのは昔からの理由があって伝承された土地であり、その座標軸というのは消すに消せないものがある。
その品川駅から北にあった「柘榴坂」は、小さな社があって、そこに「柘榴」が植えてあった、という推定です。
その昔「柘榴」は、境内のほとんどにえ植えられていた木で、そのルーツはギリシアにある。

原作者の作家浅田氏は、それを知っていて「柘榴坂の仇討」と決めたと思われますが、本人はそれについて触れていない(前作者 吉村氏が知っていたか?)。

ということで、映画ストーリーの仇討ち部分は歴史上では実在しません。

(芸能トピ蔵 http://geinou-topic.com/452/)参考(記事引用)

「桜田門外の変」とは?


『桜田門外の変』は、1860年に『江戸城桜田門』の近くで起きた、元水戸藩士17名と薩摩藩士1名による、江戸幕府大老(将軍の補佐)・井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺事件のことです。
日本の歴史のなかでも有名な事件で、2010年には吉村昭さんの小説を基に『桜田門外ノ変』のタイトルで映画化されています。
また、教科書にも歴史上重要な事件として書かれていることが多いですが、事件の詳しい内容まではあまり知らないという人も多いのではないでしょうか。
この記事では中心人物となった井伊直弼の人物像から、事件のきっかけや経緯をわかりやすく紹介していきます。
桜田門外の変で襲撃された井伊直弼とはどんな人物?
まず、桜田門外の変で襲撃された井伊直弼とは一体どんな人物なのでしょうか。
自分の反対派を次々と抑え込むなど独断的で、どちらかというと悪いイメージを持っている人も多いかもしれません。
ここでは、その生い立ちや功績などを順を追って紹介していきます。
生い立ち
井伊直弼は1815年(文化12年)、近江彦根藩主の家に14男として生まれます。幼いころから、和歌、居合術、禅などをたしなむ賢い子どもでした。
ただ、彦根藩は名門ですが、藩主となる長男以外は他藩の養子になることがほとんどでした。しかし、直弼には兄弟が多く、ほかの大名の養子にはなれませんでした。そのため17歳から32歳まで15年ものあいだ、彦根城の堀のそばでひっそりと、藩主の家の子としては恵まれない生活をしていたそうです。
しかし、跡継ぎとなるはずだった兄が亡くなったことで、運命は一変。井伊家に残っていた直弼に後継者の地位が回ってきます。そして、35歳のとき、藩主の死去を受けて彦根藩の藩主となったのです。

功績
井伊直弼は日米修好通商条約の締結や、藩の改革などさまざまな功績を残したとされています。
彦根藩主として政治をおさめた際には、吉田松陰も絶賛するほどの良い政治を行ったそうです。責任感が強く、積極的に状況の改善などに取り組んだという功績があり、今も名君と謳われています。
桜田門外の変が起きるきっかけとなった出来事3選
桜田門外の変が起きた背景には、さまざまな事情や出来事がありました。事件の名前は知っていても、詳しく内容がわからない人もいるでしょう。
ここでは、それを大きく3つに分けて紹介します。
桜田門外の変が起きるきっかけ1:将軍の跡継ぎ問題
まずは、将軍の跡継ぎ問題です。
身体の弱かった13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)の後継者として、井伊直弼ら将軍側近からの支持で、徳川慶福(とくがわよしとみ、のちに家茂(いえもち)に改名)に決定しました。
これの何が問題かというと、12代将軍の徳川家慶(いえよし)をはじめ、鹿児島藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)などの各地方の有名な藩士たちは一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ、のちの徳川慶喜)を推していたのです。
つまり、井伊直弼は半ば強引に跡継ぎを決めてしまったのです。
桜田門外の変が起きるきっかけ2:日米修好通商条約
2つめは日米修好通商条約です。
アメリカのペリー率いる黒船が日本に来航した翌年(1854年)に、再び訪れたペリーとの間に日米和親条約が結ばれました。この時点では貿易は行われず、燃料や食料の補給が主な内容でした。

1856年に総領事として着任したハリスが貿易の開始を要求し、その条約が有名な日米修好通商条約です。

この内容は、関税自主権(国が輸入品に対して自主的に関税を決められる権利)を日本が持たない、アメリカの治外法権(ある国の領土にいながら、その国の法律・統治権の支配を受けない特権)を認めるなど、要はアメリカ側にとって都合の良い内容でした。
しかし井伊直弼は、当然として起こった反発を強くおさえ込み、朝廷の許可を得ないまま認めてしまったのです。
桜田門外の変が起きるきっかけ3:安政の大獄
3つめは安政の大獄です。
朝廷の許可を得ることなく条約を結んだことで、井伊直弼の政治の行い方に多くの批判があがりました。同時に将軍の跡継ぎを勝手に決めたことに強い反発がおこります。

すると井伊直弼は、幕政に反対する人を次々と処罰していきます。

特に水戸藩が反対の中心だったので強く抑え込みますが、水戸藩に限らず幕政に対して批判的な人たちも対象となり、そのなかには『松下村塾』(しょうかそんじゅく)の吉田松陰(よしだしょういん)も含まれていました。
桜田門外の変の二面性
見方を変えればこの事件には、違う一面が見えてくるでしょう。
強引に、日本にとって大切な人材まで処罰した井伊直弼のやり方に、現在も批判や疑問を投げかける人もいます。しかし、混乱の時代の中で、徳川幕府の権威と秩序を保って安定的な国の運営を行うためには、将軍後継問題や通商条約に反発する人の処罰することもやむを得なかった。実際、責任を一手に引き受けて亡くなった井伊直弼がいたからこそ大きな内乱や戦争を避けられたという見方もあります。

このように、独りよがりで非道な処置とされる物事も、違う見方をすれば仕方ない判断だったと評価されることがあります。物事には、絶対に正しいことはないのだということを忘れずに、なるべく客観的に判断することが大切だといえるでしょう。

桜田門外の変のその後
1860年3月3日の朝、舞い散る雪のなか、井伊直弼が彦根藩(滋賀県彦根市)邸を出発し『江戸城』へ向かう登城中、『桜田門外』に差しかかったところで井伊直弼は殺され、その首を奪われてしまいました。
この事件の後、幕府の権威は低下していき、朝廷の力が強くなっていきます。
桜田門外の変からの学べること
この桜田門外の変から学べることは「伝えようとすることの大切さ」ではないでしょうか。これは日常の生活でも大切なことです。
井伊直弼のように何かと何かの間で悩んだ末の決断だったとしても、それは本人にしかわからないことで、周りの人たちにはそのいきさつまでは伝わりません。そして、それが結果として悪い方向へ進んでしまうこともあるのです。

生きていくうえで何かを選択・決断するときに独りよがりにならず、まず周囲に伝えよう、理解してもらおうとする姿勢が大切なのではないでしょうか。

桜田門外の変について理解しましょう
桜田門外の変で暗殺されてしまった井伊直弼は、さまざまな功績を残したとされています。日本にとって大切な人材まで処罰した井伊直弼のやり方は、良い評判だけでなく悪い評判も多く存在します。
しかし、この事件からも学べることは多いでしょう。桜田門外の変について理解し、誰かに伝えようとすることの大切さを考えてみましょう。
「桜田門外の変」が起きた「外桜田門」へ行ってみましょう
吉村昭(よしむらあきら)の歴史小説を原作とした映画である、『桜田門外ノ変』として取り上げられる場所があります。それは、『外桜田門』と言われる場所で、東京都の千代田区にあります。
『江戸城』(現在の皇居)の内堀に造られた門の一つで、人気の観光スポットです。
http://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/1_intro/his_02.html※情報は変更されている場合があります。
監修者プロフィール門川 良平(かどかわ りょうへい)
教育コンテンツ開発者。教材編集者・小学校教員・学習事業のプロデューサーを経て、現在は、すなばコーポレーション株式会社代表としてゲーム型ワークショップや学習漫画、オンライン授業などの開発を行う。オリジナル開発したSDGs学習ゲームなどの教育コンテンツを軸に日本各地の自治体と連携を進めている。

江戸160年前の真実
「篤姫」制作中、幕府の大老井伊直弼(なおすけ)が暗殺された桜田門外の変(1860年)の発生時に門は開いていたか、閉まっていたかと聞かれ絶句した。

「事件の歴史的意義や背景は研究されているけど、そのようなことは研究者の誰も疑問に思ってこなかった。多くの専門家に聞きましたが、やはり分からなかった」。某時代劇では放送後、動物プロダクションから派遣されたネコが江戸期の日本にはいなかった種類だと指摘され、視聴者の肥えた目を実感したこともある。
時代考証 大石学 アイ・イーシー

260年の長きに渡り平和と繁栄を築いた徳川幕藩体制。しかし、世は武力に頼る武士の時代から、貨幣経済を中心とする町人の時代へと大きく移行した時代でもありました。また、度重なる飢饉や天災による困難も、武士や庶民の生活を苦しめることとなりました。
そのような時代にあって、幕府財政、藩財政を建て直し、新たな産業の振興、グローバルな貿易などの大胆な改革を断行した先人七人(徳川家光、徳川吉宗、上杉鷹山、蔦屋重三郎、伊能忠敬、篤姫、三井高利)の変革マネジメントにスポットライトを当て、混迷の今を変革し未来を切り開くための知恵、『徳川幕藩体制 7人の変革マネジメント』。

 NHK 大河ドラマ『新選組! 』『篤姫』『龍馬伝』『八重の桜』の時代考証を担当されている歴史学者・大石学さんに、江戸社会と現代社会との接点や、講座で取り上げた7人の人物などについてうかがいました。

―最近は、江戸時代がちょっとしたブームになっています。歴史小説、時代小説、それに先生が時代考証されている大河ドラマといったコンテンツモノはもちろんのこと、江戸の古地図を持って東京の街を散策する、というのも流行っていたりします。こういったいわゆる「江戸モノブーム」が訪れていることについて、先生はどうお考えですか?

 「江戸ブーム」は、これまでにも何度かありました。ただ、今回の江戸ブームは、これまでの懐古趣味とは異なり、江戸時代からつづく制度・システム・価値観の先に、日本の未来を考えていくという点で特徴的です。文明開化以降、西洋の文化や価値観を積極的に取り入れることを是とする時代が長く続きました。ただ、現代社会が先行き不明になっていく中で、本当にこれでいいのか? という、私たち自身の反省があります。改めて、日本型の成長があってもいいのではないか、むしろ西洋型の未来よりも大切なのではないかと思い始めたと言えます。明治以降の「発展」が行き詰った現在、江戸の「発展」の先は、どんな世界になっていたのか、そんな意味合いも含みながら、「パラダイム・チェンジ」の一つの可能性を追求する意義が、今日の江戸ブームがあるのではないかと、私は考えています。

― 文明開化以降、日本から江戸的なものが失われたということでしょうか?

 実は現代社会にも江戸的なことはたくさん残っているんです。例えば、日本の学校や役所、企業などの年度は、4月に始まり3月に終わることがほとんどですが、これはとても江戸的です。先ごろ、東京大学がグローバル・スタンダードに合わせて、秋入学を導入しようとして、結局は見送られました。
しかし、これはある意味で当然で、4月はじまりという文化は、江戸時代の参勤交代から続く日本人の感覚なのです。というのも、江戸において3月、4月は、参勤交代で藩主が国元と江戸を異動する時期にあたります。参勤交代で藩主は4月に江戸に行き、国元は藩主がいないまま1年を過ごす、翌年4月に帰ってきて次の1年がスタートする。これを265年繰り返していたわけで、社会に染みついているのです。

― そう考えていくと、色々と私たちの知らない「江戸的」なことが、現代の日本にも色々とありそうですね。

 江戸の「株仲間」です。本来、もっと自由競争をしてもいいわけです。自分たちの仲間は自分たちで決めるというわけです。
こうした江戸型組織は、相撲界、歌舞伎界、落語界など、伝統社会にも広く見られます。これは良い悪いではなくて、日本的な、伝統的なシステムなのです。今でも、お風呂屋さんにしても床屋さんにしても、同業者組合があって、業界の約束事の中でお互い商売しています。
護送船団方式と言われた銀行も同じです。そのように考えていくと、日本社会というのは、今でも江戸的な考え方やシステムが多く残っているのです。
例えば、江戸的な「横並び主義」「前例主義」は、今までは「自立性がない」「個性がない」など批判的に捉えられていました。
 しかし、競争原理とは異なる「互助精神」「平等主義」は、「プラス」の部分もあるのです。江戸の格差のない、助け合い社会は、むしろ今の時代だからこそ、再評価してもと思います。

中略

― 話は少し変わりまして、江戸時代は265年間という長きに渡ったのですが、あまり詳しくない人から見ると、関ヶ原から幕末まで、そんなに変わらないように見えると思うのです。ただ、そんなことはないはずで、もし江戸時代をいくつかに分けて捉えるとしたら、どのようになりますか?

 学説では、江戸時代のターニング・ポイントについては大きく二説あります。一つは、5代将軍綱吉の元禄時代ぐらいから幕府が解体し始めるという考え方。もう一つは、18世紀後半の田沼意次の時代から解体し始めるという考え方です。ただ、私はどちらでもなくて、8代将軍吉宗の時代が、江戸を二分する時代なのではないかと考えています。
 この時代、様々な社会の変化が見られますが、大きいのは、官僚制が整備されてくるということです。公文書や法なども整備されます。日本で最初に人口調査をするのが吉宗で、3200 万人という数字を叩き出します。それから、日本の資源についてもデータ化します。吉宗は初めて「列島」という形で日本を見渡したわけです。教科書を定めて、教育面を充実させ、国民をボトムアップしたのも、吉宗です。国民の知的水準が高くなれば、武力や力による解決は少なくなります。そういう意味では、日本社会が大人になる、成熟するのが、吉宗の時代です。吉宗以前以後で、日本社会の体質は、大きく変わったといえます。
 そしてその吉宗樹に整備された官僚制が、明治、さらには現代まで続いているわけです。
― 先生のお話を伺っていると、吉宗の時代に行った改革と明治維新では、吉宗の方が、インパクトがあるようにも感じてきます。

 それは言えるかもしれません。吉宗が育ててきた官僚システムがそのまま明治へ流れこむわけです。明治維新により、幕府の人間は全て追放されたと思われがちですが、幕臣は一掃されてなどいないのです。
 というのも、幕臣たちの全国統治のノウハウを明治政府は必要としていたのです。
 ですから、明治政府の最大派閥は、実は幕臣でした。勝海舟も榎本武揚も大鳥圭介も、みな新政府で働きます。日本型の近代化はソフトなのです。
 アメリカの南北戦争なんて、62万人の死傷者が出ていますが、一方の戊辰戦争の死者は、官軍が約5千、幕軍が約8千~9千なんです。もちろん、一人ひとりの命は尊いので、多い少ないで語るべきではないかもしれませんが、少なくとも明治維新は非常に省エネ、省ロス、低リスクな近代化だったんです。版籍奉還や廃藩置県もスムーズに行われました。こうした明治維新を達成したのが、吉宗の時代以降整備された幕府や藩の官僚たちだったのです。

 まず、3代将軍の徳川家光(1604 ~1651)。一つは、鎖国という国家の外交体制を作ります。他方、参勤交代で社会の均質性と江戸の首都機能を一気に高めました。すなわち、外交と内政において、国家の枠組みを作ったのです。
 次に、上杉鷹山(1751 ~ 1822)は、官僚とタイアップした江戸後期の名君の典型です。
 一筋縄ではいかない出羽米沢藩内部の状況をうまくさばきながら、リーダーシップを発揮して藩の財政を立て直しました。傾いた組織を立て直す手法をこの人で見よう、ということで取り上げました。
 蔦屋重三郎(1750 ~ 1797)は、文化・情報の発信人・仕掛け人です。写楽や歌麿、北斎などといった個性の強い画家や、大田南畝、山東京伝、曲亭馬琴らの才能豊かな文人などをデビューさせるという、プロデューサーともいうべき存在でした。文化で社会を変えた人です。
 一方、商売で社会を変えたのが、三井高利(1622 ~ 94)です。庶民をターゲットにした新商法、「現金掛け値なし」という、今の私たちと同じ商法をこの人が始めて大儲けをしました。
 世の中に生まれた剰余を利益とするべくシフト・チェンジする、まさに流通革命をおこなったのがこの人なのです。

160年前の愛宕山

桜田門外の変は、安政7年3月3日・旧暦(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が「彦根藩」の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺したという事件。この襲撃者らを「桜田十八烈士」と呼ぶ。安政7年3月3日(1860年3月24日)の早朝、水戸浪士の一行は東海道品川宿の旅籠を出発した。

一行は東海道(現在の国道15号)に沿って進み、愛宕神社(港区愛宕)で待ち合わせた上で「桜田門」外へ向かった。この日は明け方から季節外れの雪模様でもあり、一時は大きな牡丹雪が盛んに降り、辺りは真っ白になった。しかし、斬り合いの時刻には雨混じりの小雪で、やがて薄日が射した。 

※一行は東海道(現在の国道15号)に沿って進み愛宕神社(港区)で待ち合わせ~・

この港区「愛宕神社」は、もとNHK放送局の小高い山の上で今は放送博物館となっている。その当初、電波発信に最適な場所として、東京から電波を全国発信するのに都合のいい場所だったのだろう。そんな地形だから、田舎から参集した「桜田十八烈士」は、そこを目印に集結したというのは、判りすぎるほどの説得力がある。

何故それが判るかといえば、私が7~8歳のころ叔母が、その参道階段前に住んでいて、夏休みなど、その階段を上がり愛宕神社で遊んだ記憶があったからです。
いまの「NHK放送博物館」とは、多少位置がずれている。そこから皇居「桜田門」までは歩いていける場所だ。なにしろそこが「桜田十八烈士」が決起すべき場所だった。
そこから彦根藩邸まで600メートルしかなく、地理的位置関係として徳川政権を守護していたことがわかる。そして愛宕神社から直線距離で約2キロメートル。早朝に旅籠を出た、とあるから私がいつも自宅散歩に出かける時刻だろう。
それは日の出直前だから、「1860年3月24日」(北緯35度40分39.6秒 東経139度45分9.6秒)で計算すると「5時55分」と、我がパソコンは瞬時に計算した。その日は朝から「雪」が降っていたと、多くの資料が書いているので間違いないだろう。雪の降っている早朝の官庁宿街永田町は、さぞ寒々しい風が吹いていたことだろう。(別資料 暗殺事件 午前8時、登城を告げる太皷が江戸城中から響き、それを合図に諸侯が行列をなし桜田門をくぐって行った。尾張藩の行列が見物客らの目の前を過ぎた午前9時頃、彦根藩邸上屋敷の門が開き、直弼の行列は門を出た。 ウイキペディア)

おそらく18烈士全員震えていたに違いない。武者震いなんて生やさしいものじゃなく、「死ぬ」という恐怖心だ。浅田次郎著の「柘榴坂の仇討」を読むと、それが直に伝わってくる。ここまでは、伝記物語の大筋だ。それにしても良く書けている。一字一句、その現場の臨場感がこちら伝わってくる。それがあまりにリアルだと、余計嘘っぽい。

骨董屋で手にした品の年代物を見つけると、それをまったく3000年前のものだと信じてしまう。それで騙される。著名な骨董発掘遺品の「フェイク」贋作は、本物より本物らしくできているからである。

その中で唯一、確証のあるものは、愛宕神社より北約10度東、そこから約2キロメートル方向に徳川政権当事の「桜田門」が今もある、という事実だ。時代考証の「大石学」は、それを職業としてNHKの大河ドラマの多くを考証したという実績がある。 

大石学 東京都生まれ。1976 年東京学芸大学社会科卒業、同大学院修士課程修了。竹内誠に師事。1982 年筑波大学大学院博士課程単位取得満期退学、1997 年東京学芸大学助教授、のち教授。元禄・享保時代が専門だが、NHK 大河ドラマ『新選組!』『篤姫』『龍馬伝』『八重の桜』等の時代考証を担当。2009 年、時代考証学会を設立、同会会長。

画像 ウイキペディア


資料参考



(編集構成#つしま昇) 


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