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“パンドラの箱”開いてしまった中は何んだったのか?

その答えを知るには「パルテノン宮殿」のペディメント(切り妻型屋根の破風部)を知る必要があった。二世紀の旅行者パウサニアスは、アクロポリスを訪れた際に見たパルテノス神殿について、女神の金と象牙の像を書きつつ、ペディメント(切り妻型屋根の破風部)の短い記録も残した。

「ペディメント」の製作は紀元前438年から紀元前432年わたって行われた。これらパルテノン神殿の彫刻はギリシア古典芸術の傑作であり、剥き出しの、または薄いキトンを通してなお明瞭に体躯を感じ取らせつつ、脈々と表現された筋肉によって描き出された活力みなぎる肉体の自然な動きを表現している。神々と人間の区別は、理想主義と自然主義のふたつを概念的に相互作用させる中でぼやかされつつ、彫刻家の手によって石に刻み込まれた。しかし、このペディメントは現在に伝わっていない。

その建築は日本木造建築にも影響を及ぼし円柱柱の僅かな曲線カーブ、エンタシスが用いられた。
■「エンタシス」の語はローマの建築史家ウィトルウィウスが用いたのが最初であり、「引っ張る」「きつく伸ばす」などの意味を持つギリシャ語「εντείνω (enteino)」に由来する。古代ギリシャの神殿建築で用いられたものが有名だが、東アジアの伝統建築でも似たようなテクニックが用いられており、日本語では「胴張り」と呼ばれる。中国北宋時代の建築書『営造法式』にも記載されており、上に向かって細くなるものや、柱の下から1/3の所が最も太くなるものなどがある。エンタシス(entasis)は、建築において円柱下部もしくは中間部から、上部にかけて徐々に細くした形状の柱。中央部が一番太い場合もある。直径の違いによるテーパー形状は緩やかにふくらみがある場合が多い。エンタシスを施した柱を下から見上げると、真っ直ぐな円柱よりも安定して見える錯覚を生むため巨大建築物の柱に用いられ、現代の建築でも使用されている構法である。ウイキペディア

その「パンドラ」その中身については、前項で説明したように、かつての列強帝国による植民地化の一環として、その地にあった民族遺産を、ことごとく略奪して保管していたものを、あるタイミング(マクロン)によって返還するという、逆コペルニクス的、大変革がおきたことであり、まさに「パンドラ」に収まっていた民族宝飾品が、びっくり玉手箱のように、一斉に踊り出した、という顛末にいたったことだった。

そしていよいよ、その本題「天空」にそびえるタワマンは、誰のために、そして何のために天空を目指したか、という結論を結ぶ必要があった。

世界の歴史をひもとけば、どの地においても、文明文化が、芽生えるには、その狭い場所に、人が大勢集まる、という不文律がある。
一番判りやすい例としてあるのが、「ゴールドラッシュ」であり、まさに一攫千金に群がる人の欲の塊が、そこに一大集落を形成するという基本型だった。
もちろん、こそこに採掘金が枯渇したり、衣食のための「水」が消えたら、そこに人は住めなくなる。そうして幾多の栄枯盛衰があって、世界中に、多くの遺跡と文化遺産が作られた。

先史、ヨーロッパの歴史を知ることによって、そうした集落は巨大化し、経済活動が活性化することによって、それを賄う労働者人口も増えていく。そこには、ヨーロッパ大陸という地勢が絡んで、労働者を確保するため人身売買の奴隷制が発展して、さらには戦争による敗者などの奴隷によって支配層の二極化が顕著化した。

「パンドラの箱」開封というのは、まさにその時、ため込んだ宝飾の数々で、さすがに、この時代に至って、その窃盗品はもとに返そうというのは、時代の流れかもしれない。

古代文明のメソポタミア、ぺルシア、レバノン、インダス、中国など、その遺跡後には、数えきれないほどの遺構がのこされている。

そして超近代国家「東京」にそびえたつ高層ビル(タワマン、ヒルズ)の一つをサンプリングして、上から透明円筒の真空筒を覆いかぶせ、そこに水を注入し、「巨大水族館」を再現する。
大都会という高密度化の土地では必然的に、上に上に段差で上がるしかなく、面積当たりの高密度は、損得勘定からしてもそうしないと利益にならないという資本経済の掟があった。その現象は、水が重力に逆らって天空を目指す現象によく似ていた。
そこに針の一穴を穿ってみれば、「タワーリングインフェルノ」ごときの、大量放水が一斉に流れ出す。

その水とは、毛細現象で上昇した水であり、換言すれば、古代国家「アクロポリス」の創世であり、そうやって文明が形成されたことである。

それから約三千年が経過したいま、世界的人口減少(国、地域によって増加)、少子高齢化がいたるところで始まり、近代国家だったはずの都市の一歩、外れた脇道を歩経遊歩してみれば、そこにはまるで昔の「アンコールワット」のような草木に覆い尽くされた民家が散在するという、ゴーストタウン化は、だれが何と言おうと、とめることができない。

それが昔あった映画「猿の惑星」とか「日本沈没」の透視図だと断言するまでもないが、外にこれといった形容がないという点で、不気味なリアル感がある。

そんななか、「そうだ、田舎古民家暮らしを、しようよ」、と国家お題目を唱えたところで、焼け石に水、はわっかっているので、その『頂門の一針』は最後の切り札として隠蔽しておくという、これまたお役所仕事の一環として末永く温存されることだろう。

世界四大文明
メソポタミア文明は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。
世界最古の文明が発祥した地であり、メソポタミアに生まれた文明を古代メソポタミア文明と呼ぶ。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。シュメールの後も、アッカド、バビロニア、アッシリアなどに代表される国々が興亡を繰り返した。やがて周辺勢力の伸張とともに独立勢力としてのメソポタミアの地位は低下していき、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってヘレニズムの世界の一部となった。

楔形文字でギルガメシュ叙事詩の一部が刻まれた粘土板。アッカド語
紀元前8000年紀から西アジア一帯で簿記のためのしるしとして使われていたトークンと呼ばれる道具が印章へと変化し、さらにその印を手で書いて絵文字化することで、紀元前3200年頃にウルク市において最古の文字とされるウルク古拙文字が誕生した。
この文字は象形文字・表語文字であったが、紀元前2500年頃にはこれを発展させた楔形文字が誕生した。楔形文字は周辺諸民族にも表音文字として借用され、紀元後1世紀頃まで西アジア諸国のさまざまな言語を表すのに利用された。記録媒体は粘土板が用いられた。楔形文字によって書かれたものとしてはハンムラビ法典がよく知られている。

初期メソポタミアでは、南部のシュメール人たちは言語系統不明のシュメール語を、北部のアッカド人たちはセム語族のアッカド語を使用していた。シュメール語はウル第三王朝期までは日常語として使用されていたものの、アッカド語や新たに侵入したアモリ人の言語の中に埋没し、イシン・ラルサ時代には口語としては死語となっていた。
ただし法律言語や典礼言語としてはその後もシュメール語は使用され続け、新バビロニア時代まではその使用が確認されている。アッカド語はその後も広く使用され、さらにオリエント諸国における外交用語として用いられ、エジプト第18王朝の外交文書(アマルナ文書)に、その言葉で書き記されたものが残っている。
各都市には学校が設立され、文書を扱うための書記が養成されたが、識字能力は彼らの特殊技能であり、一般市民のほとんどは文字の読み書きができなかった。これは王侯貴族においても同様であり、稀に識字能力を持った王が現れた場合、その王の記録にはそのことが高らかに謳われることがあった。

経済
メソポタミアの土地は肥沃であり、経済の基盤は農業に置かれていた。降水量が少ないため天水農耕は不可能であり、このためメソポタミアへの入植は灌漑技術の獲得後のこととなったが、その豊かな収穫は多くの人口の扶養を可能とし、文明を成立させる基礎となった。灌漑用水の確保のために運河やため池が整備され、家畜による犂耕や条播器による播種が行われた。
主穀は大麦で、その反収は高く、紀元前24世紀頃の大麦の収量倍率は約76倍と推定されている。ただし農地に多量の塩分が含まれていたため塩に弱い小麦の栽培はできず、さらに時代を下るにつれて土地の塩化が進行したため大麦の反収も減少していった。大麦は主食となるほか、この地域で大変好まれたビールの原料ともなった。農作物としてはナツメヤシも重要で、食糧・甘味料・酒造原料・救荒作物・保存食など食用としての用途の他、樹木の少ないメソポタミアにおいて建材などにも使用された。菜園ではタマネギなどの野菜が栽培されたほか、家畜としては羊やヤギ、牛やブタなどが飼育され、また魚も広く食用とされた。
メソポタミアには資源が非常に少なく、金属資源や木材・石材といった基本的な資源さえ不足していたため、周辺地域との交易によって資源を確保することは不可欠であった。貿易の交易範囲は広大で、エジプト文明やインダス文明とも交易を行っている。交通の大動脈はチグリス・ユーフラテスの両河であり、また河口からペルシャ湾を通ってディルムン(現在のバーレーン)などにも交易船を送り込んでいる。貨幣としては古代を通じて銀が基本であり、初期王朝時代から秤量貨幣として使用されたが、他に銅などの金属も貨幣として使用されることがあり、物々交換も盛んに行われた。シュメールやバビロニアでは食物を始めとする必需品を貯蔵して宮殿や都市の門において分配し、バザールで手工業品の販売を行なった。タムカルムと呼ばれる身分型の交易者が存在し、仲買人、代理人、競売人、保管人、銀行家、仲裁人、旅商人、奴隷取締官、徴税吏などを担当した。また、ハンムラビ法典には、損害賠償、負債取り消し、報酬、等価概念についての記述がある。

都市
ウルのジッグラト(ウル第三王朝)
メソポタミアにおける都市の発達は非常に古く、エリドゥのようにウバイド期から集住がはじまった集落さえある。紀元前3500年ごろからのウルク期に入ると集住はさらに進み、紀元前3300年頃にはウルクが完全に都市としての実体を備えるに至った。その後都市は周辺各地に成立し、紀元前2900年頃からは各地に都市国家が分立して抗争を繰り返すようになった[33]。この時期にはシュメール人の大部分が都市に居住しており、彼らは都市に住むことを文明人のあかしと見なしていた。

これらの都市には環濠が張り巡らされ、日干しレンガによる高い城壁で他都市からの防御をおこなっていた。また都市の中心には神殿が建設され、基本的に移転することはなく都市の建設から消滅まで同じ位置に存在していた。神殿は基壇上に建てられており、その都市のランドマークとして機能していた。さらにウル第三王朝期に入ると、基壇は多層化して巨大化し、上に神殿を載せたジッグラトと呼ばれる聖塔となった。

このころの有力都市としては、北からキシュ、ニップル、シュルッパク、ウンマ、ラガシュ、ウルク、ウルなどが挙げられる。このうちニップル市がシュメールの北限にあたり、キシュ市はアッカド地方に属していた。やがてウル第三王朝が滅亡すると中部のイシン市と南部のラルサ市が強大となるが、北のアッカド地方ではバビロン市が、北メソポタミアではアッシュール市が、西方ではマリ市が強大となった。紀元前18世紀に入るとバビロンを首都とするバビロン第1王朝が強大化し、ハンムラビ王の下でメソポタミアを統一した。以後、バビロンはメソポタミアを代表する都市となり、メソポタミア南部地域そのものがバビロニアと呼ばれるようになった。その繁栄はセレウコス朝の建国まで続いた。

セレウコス朝期に入るとバビロンの北にセレウキア市が建設され、バビロンに代わるメソポタミアの中心としてヘレニズム期の大都市となった。
パルティア期に入るとセレウキアの対岸にクテシフォン市が建設され、パルティア及びサーサーン朝の首都が置かれた。正統カリフ時代に入ると中部のクーファが重要性を増していき、第4代カリフのアリー時代には一時首都が置かれ、またアッバース朝建国時にも再度首都が置かれたものの、762年にはマンスールによってティグリス河畔に新都バグダードが造営され、以後ここがメソポタミア(アクロポリス)の中心都市となった。 資料ウイキペディア

 
画像 楔形文字でギルガメシュ叙事詩の一部が刻まれた粘土板。アッカド語

ウイキペディア



■毛細管現象(もうさいかんげんしょう、英: capillary action)とは、細い管状物体(毛細管)の内側の液体が、外部からエネルギーを与えられることなく管の中を移動する物理現象である。毛管現象とも呼ばれる。地球上での重力に逆らえるほど上昇(場合によっては下降)することもある。主に静電気力が影響している。

画像 ウルのジッグラト(ウル第三王朝)


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