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日本の古典 木霊音譜~

長唄 白拍子

長唄 白拍子「長唄の会」トーク 2015.08.08

平安時代の終わりごろ、白拍子と呼ばれる新しい芸能が生まれました。水干(すいかん)に烏帽子、白鞘巻の男装をした女性が、ことほぎの歌や当時流行した今様という歌を歌い舞って、神や人をなぐさめるものです。

島の千歳は、『平家物語』にその元祖と伝えられる女性の名前です。後鳥羽院の亀菊、清盛の祇王・祇女、義経の静。

白拍子には遊女としての側面もあり、権力者たちはこぞって好みの白拍子を寵愛しました。男舞の凛々しさと女性の持つたおやかさの不思議なバランス。

そして、権力の趨勢とともに、歴史の流れに翻弄されたはかなさ。白拍子は、江戸時代の遊女の華やかなイメージとはまた違う、神秘的な存在として人々を魅了しました。
囃子方・望月太左衛門の襲名披露曲の題材に島の千歳が選ばれたのは、白拍子の舞の伴奏に鼓を用いた縁によります。

一見すると大変難解な歌詞ですが、実は「水のすぐれておぼゆるは……」以降の歌詞は「水の宴曲(水の白拍子)」という中世歌謡の歌詞を引用したものです。

作詞の大槻如電は、祖父は『解体新書』を著した蘭学者・大槻玄沢、父は儒学者の大槻盤渓という学問一家の出で、自身も古今東西の学問に通じた才人でした。

中古・中世の歌謡にも精通していた如電だからこそ、当時白拍子が実際に歌い舞った曲を長唄の一節に利用することを思いついたのでしょう。

予備知識がなくては、どんなに丁寧に一語一語を読んでも本曲の描く世界をなかなかつかめません。

逆に、白拍子が鼓とゆかりが深いこと、中世歌謡を利用していることさえ頭に入れておけば、細かい語句の意味が分からなくとも曲の世界に親しめるのではないでしょうか。

本曲は、言葉を尽くして説明するよりもずっと効果的に、中世の幽玄的な舞姫の姿を再現しています。

如電に限らず、明治の文人と呼ばれた人々の博識さと表現力には驚かされるばかりです。

朝日照らす大海原のはるか、蓬莱山にあそぶ丹頂の鶴と緑毛の亀がたおやかな姿を見せた。

その鶴亀のように美しい島の千歳が、遠い昔にうたったという今様のはやり歌。

いつの世も君の御宝である民が、腹鼓を叩いて笑いあう泰平の今日、鼓の音もまた時を超えて響く。

波は穏やかに立っては返し、返しては立ち、立烏帽子の女は舞い、そして袖がひるがえる。

「水の中でもすぐれて趣深く思われるものは、西天竺の白鷺池(はくろうち)、お釈迦様がいらしたところ。
悟りの道のように澄み渡るのは昆明池の水の色、唐土長安のお城のとなりで、永遠に濁ることはないと言います。
俗な世間にとらわれない賢い人が釣りをしたのは、厳陵瀬の河の水。秋の夜、月の姿が流れていったというのは、山田の筧の水と聞きました。芦の下葉をそっと眠らせたのは、三島江の冷たい氷水。そして季節はめぐって、立春の今日の若水は、清らかな命を宿すもの、汲んでも汲んでも尽きることはないでしょう」

【今様と白拍子】〈中世の流行歌 今様〉今様とは、本来「今の世、当世」また「(今の世の)はやり、当世風」の意である。その時代に流行した歌のことも言う語であったが、特に平安時代中期以降に起こった新しい様式の流行歌謡を指して、催馬楽や神楽歌などの古い歌謡に対するものとして「今様(今様歌)」と呼ぶ。

今様の歌い手となったのは、歌い女(うたいめ)と呼ばれる専業的芸能者や白拍子などの遊女であった。貴族も今様を愛好し、特に後白河法皇とその周辺の貴族は、今様を鑑賞するだけでなく、自らも芸の体得に努めたことが伝わっている。

歌の演奏には扇拍子のほか、鼓が伴奏楽器として多く用いられ、鼓は当時の遊女必携の品であった。院政期に流行の最盛を迎え、その後は白拍子舞や僧徒の延年舞、宮廷歌謡に取り込まれて残ったが、愛唱歌としてはすたれ、近世期にはほぼ廃絶した。
歌の内容は、無常観や極楽思想、仏への賛美を唄った仏教思想に基づく歌が過半を占めるが、他に神の霊験を唄った神歌、漢詩和訳や和歌の本歌取り、庶民の生活に根付いた風俗歌など多岐にわたる。

今様は寺院での法会、貴族の宴席で歌われたほか、庶民が日常のうちに愛唱するものでもあった。後白河法皇編纂の今様集成である『梁塵秘抄』は、『徒然草』等の中世随筆によりその書名は知られながらも、本編は散逸したと考えられていた。明治に入って本編の一部が発見され、次のような歌が知られるようになった。
 
・春の初めの歌枕 霞たなびく吉野山 うぐひす佐保姫翁草 花を見すてて帰る雁(13) ・仏はさまざまにいませども まことは一仏なりとかや 薬師も弥陀も釈迦弥勒も
  さながら大日とこそ聞け(19) ・われを頼めて来ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎まれよ 霜雪霰降る水田の鳥に
  なれさて足冷たかれ 池の浮き草となりねかし と揺りかう揺り揺られ歩け(339) ・遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声きけば   わが身さへこそゆるがるれ(359)
歌の形式の面では、従来「七五調・四句」の定型と考えられていたが、『梁塵秘抄』には八五調(四四五音)、五句・六句、短歌形式の歌も多く収録されており、現在では一律に定型を論じえないとする向きが一般的となった。この意味でも、『梁塵秘抄』の発見は中古・中世歌謡研究において画期的であったといえる。今様はその他中世の歌謡集成のほか、説話・軍記物語・歌書などに散見し、近世期にいたって伴信友『中古雑唱集』などこれらを網羅した書物が編まれた。

〈白拍子〉1.雅楽の拍子の名。笏拍子だけで歌うもの。2.平安時代末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞。またそれを歌い舞う遊女のこと。本稿で取り上げるのは2で、普通「白拍子」と言うときには、その担い手となった遊女を指すことが多く、江戸時代には遊女を俗に言う語にもなった。白拍子は、多く今様を歌いながら舞う芸能を事とする女性芸能者であり、芸能をもって神に仕えるとともに、権力者の寵愛を受ける遊女としての側面も持っていた。
『平家物語』巻第一「祇王」には、白拍子の起こりが以下のように記されている。 そもそも我が朝に、白拍子のはじまりける事は、むかし鳥羽院の御宇に、島の千歳、和歌の前とて、これら二人が舞ひいだしたりけるなり。
 はじめは水干に、立烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ、男舞とぞ申しける。しかるを中比より、烏帽子、刀をのけられて、水干ばかりを用いたり。さてこそ白拍子とは名付けけれ。
(『平家物語』巻第一「祇王」)

(※水干は、男子の平安装束の一つ。名称は糊を付けず水をつけて張った簡素な生地を用いるからとも、晴雨両用に便利なためともいうが、いずれにせよ簡素な服飾であることからの命名のようである。 狩衣に似て盤領の一つ身仕立てである。ただし襟は蜻蛉で止めず、襟の背中心にあたる部分と襟の上前の端につけられた紐で結んで止める。 ウィキペディア )


ウイキペディア



『平家物語』では、白拍子と言う名の由来を「装束に余計なものを省いたため」と説明しているが、他にも声明における拍子の名称によるという説、伴奏を伴わない拍子のみの意とする説などがある。芸能の実態についても不明な点が多いが、白拍子が舞うことを「かぞふ」と表現し、その舞が「足を踏み倒す」と形容されていることから、拍子舞であろうと考えられている。院政期頃から流行し、後鳥羽上皇・平清盛らの権力者に愛好されて鎌倉時代初頭に流行の最盛をみた。

長唄(ながうた)は、近世邦楽の一ジャンル、三味線音楽の一ジャンル、江戸の音曲の一つであり、正式名称は江戸長唄(えど ながうた)という。またこれとは別に、地歌の一分類として上方長歌(かみがた ながうた)がある。
江戸長唄は義太夫節など語りを中心とした「語り物」とは異なり、唄を中心とした「歌い物」、「うたもの」である。演奏は基本的に複数人の唄と三味線で成り立っているが、曲目によっては小鼓、大鼓、太鼓、笛などで構成される「お囃子」が付くこともある。また、通常の三味線パートのほかに「上調子」と呼ばれる三味線パートを持つ曲も存在する。

また、元禄期に上方歌舞伎の劇中で演出として歌われた芝居歌が源流となり、享保以降に短めの長唄として江戸歌舞伎に伝わりメリヤスと呼ばれた。しんみりとした寂しい内容と節調であり、下座の中で一人、または二人で歌われた。宝暦期以降の歌舞伎の舞台演出で流行となり、新曲がいくつも作曲された。
代表的な作詞者・作曲者には、金井三笑、初代冨士田吉次、二代目冨士田吉次、初代櫻田治助、初代杵屋正次郎、三代目杵屋正次郎、九代目杵屋六左衛門、十代目杵屋六左衛門、三代目杵屋勘五郎、初代杵屋六翁、二代目杵屋勝三郎、二代目稀音家浄観、杵屋佐吉、吉住慈恭などが挙げられる。

上方長歌上方長歌(上方長唄とも)は、地歌の楽式、曲種の一つ。江戸時代中期以降に上方を中心に行われている長編の三味線を伴奏とする三味線歌曲。地歌と箏曲や胡弓との不可分な結びつきにより、三曲合奏編成により演じられることも多い。地歌のみならず三味線音楽のもっとも古い形式である三味線組歌に次ぐものとして、長い歴史を有している。
もともと元禄の頃に江戸の浅利検校、佐山検校らによって作られ始めた。 組歌は、基本的に互いに脈絡のないいくつかの短い歌の組み合わせによって成り立っている。それに対し、長歌は終始一貫して筋を通した内容であり、それを最大の特徴とする。また、曲の途中で三味線の調弦を変えること、かなりまとまった間の手を持つことなどが特徴であるが、長歌の範疇に含められる曲は各流派、地域により多少違いがある。
その内容はさまざまだが、名所や器物、植物などの名を連ねた「尽し」や、劇的な内容を持つものもあり、詞章は雅文調ではあるが、部分的にくだけた文句が挿入されている曲も多い。

本来、地歌は盲人音楽家による純音楽で、劇場や舞踊とは比較的関係の薄いものであるが、虎沢検校が浄瑠璃を始めたこともあるように、決して関係がないわけではなく、地歌の長歌曲でも、元禄年間に活躍した京都の岸野次朗三は晴眼者で京阪の歌舞伎の三味線方として活躍した人物であり、彼の作品の多くは歌舞伎舞踊の伴奏用に作られたものである。
このような長歌から、舞台音楽の「江戸長唄」が分かれたと考えられている。

こののち、野川流の祖である大阪の野川検校の作品がおおいにもてはやされ、藤永検校や小野村検校らも長歌物の作曲を行い、さらに京流手事物の作曲で有名な、京都の松浦検校、菊岡検校らによっても長歌曲が作られている。
また長歌からは、歌よりも手事に重きを置く楽曲形式である「手事物」が生まれ、現在の地歌の主要な演目となっている。また手事物はのちに長唄にも影響を与え、「越後獅子」「秋色種」「吾妻八景」などの曲が生まれている。

琉球舞踊 琉球、沖縄県内で継承されている舞踊の総称。歌舞伎舞踊や上方舞、京舞と並び、琉球舞踊は2009年9月2日に重要無形文化財に指定されている。
俗に琉舞とも通称される。琉球舞踊は、三線(さんしん)、箏(こと)、笛、太鼓、胡弓(こきゅう)で構成される地謡によって演奏される琉球古典音楽に合わせて踊られる。琉球舞踊の分類としては古典舞踊、雑踊り(ぞうおどり)、創作舞踊に大別される。

琉球王朝時代は男性官吏やその子弟のみによって踊られたが、琉球王国の崩壊した明治以降、特に戦後は多くの名だたる女流舞踊家が誕生し、今日の琉球舞踊は確固とした地位が確立された。
近年では沖縄県立芸術大学や国立劇場おきなわの若手実演家育成により多数の舞踊家が誕生している。


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