『旅立ち』

 新卒で勤め始めて10年。そろそろ潮時だと思った。会社の業績は低迷し、身売りの噂もまことしやかに囁かれている。社内の雰囲気もギスギスしており、以前のようには仕事が楽しくないと思う日々だった。

 私は見切りをつけて辞めた。ここに居ても自分が駄目になるのが目に見えている。今なら退職金も多く出るというのと、走り続けてきたからここらで小休止してみたかった。

 退職金に加えて今までの貯えが十分にあったため、すぐに次を探すことはせず、一年ぐらいは好きなアジアをブラブラしてみることにした。

 その前に、断捨離をすることにした。忙しさにかまけて片付けてこなかった部屋には、よく見ると要らない物で溢れかえっていた。本、洋服、食器、お土産、引き出物など、とにかく片っ端から処分した。物がなくなっていくにつれて心も軽くなっていった。

 お風呂上りに鏡を見ると、伸び放題の髪の毛があった。それに全身ムダ毛も目立つ。彼氏と別れてから2年、体のケアをしていなかった。女性として当たり前のことに気が向かないほど、仕事で忙殺されていたのを思い知らされた。

 こんなことではだめだと、全身脱毛の店に行ってみた。腋毛から背中、足とムダ毛を処理してもらう間、私の現状を話した。とにかく誰かに聞いてもらいたかった。

 久しぶりの感触。気持ち良さに身をゆだねていた。全てが終わり、すっきりした気持ちで話した。
「この際髪もバッサリ切っちゃおうかと思っているんですよ。」
「バッサリですか、いいですね。ショートにでもするのですか?」
「そうですね、ひとまずショートにしてみようかなって。」

 少しの沈黙があってから、彼女が口を開いた。
「これからアジアを周られるんでしたよね?」
「ええ、そうですけど。」
「髪、思い切って剃られてみたらどうですか?」
「え!?今なんて…?」
「丸坊主、いやスキンヘッドにしてみてはいかがでしょう。女一人でアジアを周るのは何かと危険が付きまといますし、この際髪も断捨離してみてもいいのかな、なんて思います。私も実は昔、いろいろあって剃ったことがあるんですよ。」
「剃るって…ツルツルにしたのですか?」
「ええ。」
「その時は長かったのですか?」
「あなたぐらいでしたよ。床屋さんで一気にやっちゃいました。バリカンでガーッと!」
 手を前髪に当ててバリカンのゼスチャーをする。笑っている彼女が、何だか眩しく見えた。
「その後ついでだからと剃っちゃったんですよ。剃刀でゾリゾリって。何だか尼さんみたいになりました。うふふ。」
「凄いですね…私にはとてもそんな勇気はありません…。丸坊主にした上、尼さんみたいに剃っちゃうなんて…。後悔しませんでした?」
「髪を切る前はいろいろ考えましたが、人生で一度ぐらいいいやって思って、やってみたんですよ。案外やっちゃうと快適で、その後何度か剃りましたよ。後悔は…特になかったですね。スキンヘッドになった自分を鏡で見た時はグッときちゃいましたが、そりよりも新しい自分になれた、殻を破れた嬉しさの方が大きかったですね。まぁしばらくは彼氏が出来ませんでしたが(笑)」
「バリカンって痛くないのですか?」
「全然平気でしたよ。それに剃刀も大丈夫でした。腋毛を剃るのと大して変わらなかったですよ。」
「すごい…私にはとても出来ないです…。」
「それが普通ですよ。気になさらないで下さいね。」

 最後にそう言われたが、凄く気になった。女性がスキンヘッドなんて…信じられない。私には出来ない。でもとりあえずはバッサリ切ろう。どれぐらい切ろうかな…。

 翌日。予約していた美容室へ行った。

 少し早く着いたので順番を待っていると、美容師さんの驚いた声が聞こえてきた。
「あの…本当にいいのですか?」
「はい。やると決めてきましたから。」
「一度やっちゃうと、しばらくは今の長さには戻りませんよ。それでもいいんですね?」
「はい。」
「長さはどうしますか?初めてでしょうから長めにしておきますか?」
「いいえ、一番短いのでお願いします!」

 私より少し若い、とても可愛らしい彼女。背中まで届く見事なロングヘアだ。どれだけ切るのだろう?一番短いってなんのことだろう?

 美容師さんは彼女の後ろに立つと、ブロッキングもせずに首筋でザックリと切った。あっと思っていると次々に切って行き、すぐにボブになった。さらにハサミを頭全体に入れていく。ショートにでもするのかな?と思ったら、一度ハサミを置き、ワゴンから見慣れない物体を取り出した。

 あれは…バリカンだ…刈り上げにでもするのだろうか。だから長さを聞いていたのかな?と思っていると、美容師さんは彼女の前に立った。
「ではやっていきますが、本当にいいんですね?」
「はい。バッサリ…お願いします…。」

 まさかと思っていたら、美容師さんは前髪にバリカンを入れた。ウッという彼女の呻き声が聞こえた。あっと言う間に前髪が全て刈られ、坊主になっていた。彼女…坊主にするんだ…その後もバリカンは止まらず、横、後ろと刈っていく。

 バリカンなんて襟足を整えたり、せいぜい刈り上げの時ぐらいしか見たことがない。自分には縁がないと思っていた。それが今、目の前で豪快に坊主にされていっている。しかも女の子が…信じられない光景が繰り広げられている。

 バリカンが通った跡は、凄く短い坊主頭が現れた。そうか、一番短いってこのことを言っていたのか…女性なのに坊主って、一体どんな事情があるのだろう。

 何度もバリカンを動かし、髪という髪を刈り上げ、美容師さんがバリカンを置く。彼女は野球部の子よりも短いぐらいの坊主頭になっていた。さっきまで背中を覆っていた髪が、床に大量に落ちていた。

 恥ずかしそうな、泣きそうな顔をしてした。「終わりましたよ」と言われると、大粒の涙をこぼしてした。帽子を被り、そそくさとお店を出て行った…。

 茫然としていたが、私の名前が呼ばれハッと我に返った。そうだ、私髪を切りに来たんだっけ。

「こんにちは。今日はカットですね。どのようにされますか?」
「ちょっとヘアカタログを見せてもらえますか?」特に決めてこなかったので、直感で決めることにした。選んだのは耳掛けのショート。襟足もスッキリしていて気に入った。

「こんな風にしてもらいたいのですが…。」
「いいですね。お客様なら似合いますよ。でもこんなに伸ばしているのに、切っちゃってもいいんですか?」
「いいです。気分をサッパリさせたいので。」

 早速カットが始まった。ブロッキングをされバッサリ切られる。こうしてバッサリ切るのはいつ以来だろう。いつの間にかこんなに伸びていたなんて。切られていくうちに、この10年間溜まった垢が削ぎ落されていくような感覚を覚えた。バッサリ切るのがこんなに気持ちいいなんて!だがそれと同時に、さっき見た光景がどうしてもちらついた。
「あの、さっき丸坊主にした女性ですが、何かあったのですか?」
「私も気になって聞いてみたのですが、理由は話してくれませんでした。何か深い事情があるみたいで。一応止めたのですが、どうしてもって言われるのでやったんですよ。」
「そうですか…初めて女性が坊主にするところを見て、衝撃を受けて…。」
「私も女性を坊主にしたのは初めてですよ。さすがに緊張しました。」

 そうこうしているうちにすっかりショートになっていた。そして襟足を整える時に、バリカンが当てられた。ジョリジョリと襟足の毛が削られていく。いつもロングだってので、久しぶりの感触だった。

 さっきの彼女はこのバリカンで坊主にされた。もし私も坊主にしたらどうなるだろう。このままバリカンで上まで刈られたら…。そもそもバリカンで坊主にするってどんな感じなのだろう。脱毛の店の人は痛くないって言っていたけれど、実際はどうなのだろう。どんな気持ちになるのかな…。

「はい、出来ましたよ。似合っていますね。」
 すごく私に似合っていた。思わず笑みがこぼれる。重かった髪がなくなり、心も軽くなったような気がした。

 夜、布団に入ってから今日一日のことを思い出していた。全身剃毛をして髪もバッサリと切った。すごい変身だった。だがどうしても、坊主にした彼女のことがちらつく。そして剃毛した時に言われた「髪も剃ってみたら?」という言葉を思いだしていた。

 彼女はスキンヘッドにしたと言っていた。そんな怖いこと私には出来ない。こうしてショートにするのが精一杯だ。あの女の子みたいに坊主にするのも出来ないし、ましてや剃刀で頭を剃られるなんて、全く想像出来ない。そう思って眠りについた。

 怖い夢を見た。床屋さんで体を縛られ、バリカンで坊主にされる夢だった。泣き叫ぶ私を無視して、髪が容赦なく刈られていく。自分の叫び声で飛び起きて頭を触ると髪はあった。汗をぐっしょりかいていた。

 大晦日。いつもより遅く起きた。昨晩の夢が蘇る。どうしてあんな夢を…きっと彼女がバリカンで坊主にされるのを見たから?それとも私、もしかしたら坊主にしたいのかな…。まさかそんなね…。

 だが気づくと動画サイトを見ていた。それも女の人が坊主にされる動画を。こんな動画が世の中にあるのかと思ったが、食い入るように見てしまい、気づくとお昼を過ぎていた。遅い食事をし、じっくり考えてみた。

 そういえば、脱毛のお店の人は『女の一人旅は危ないから髪を剃った』と言っていたっけ。確かにそうだ。一応護身術に心得はあったが、万一集団で襲ってこられたら太刀打ちできない。そんな危険な所には行かない予定だが、海外は何があるか分からない。それならばいっそのこと…この髪を剃ってみようか…。

 でも怖い…バリカンなんかで刈られたことはないし、ましてや剃刀で剃られるなんて…。そこまでしなくてもいいのではないか…。あの彼女だって泣いていたし。

 『髪は女の命』なんて古臭い表現だが、確かにそうだとも思う。女は髪型一つで雰囲気が変わるし、バッサリ切るのは大ごとだ。私も何度か短く切ったし、失恋して切ったこともあった。その時々の気持ちは今でも忘れていない。

 中学時代、一度だけ刈り上げにしたことがあった。バスケ部で大敗して、気合を入れるとかなんとかで切った。あの時は若さの勢いがあった。バリカンで襟足を刈り上げられた時も、みんな一緒だからと我慢出来た。でも家に帰って鏡を合わせてみると、短く刈られた襟足を見て悲しくなったのを覚えている。

 あのバリカンで今度は坊主に…考えただけでもゾッとする。だが、今は何もかもを変えてみたかった。バッサリショートにしたぐらいじゃただのイメチェンだ。全身剃毛までしたのだから、この際髪も剃っていいのではないか。

 鏡の前で髪をかき上げてみる。この髪を剃ったらどうなるんだろう。似合うかな?頭の形は悪くないかな?そもそも女性が坊主にするなんて断られないだろうか?

 髪を剃る、剃らない…鏡の前で考え込んだ。そして結論が出た。

 剃ってみよう。こんなこと、今を逃したら一生チャンスはないだろう。それに今日は大晦日。年を越したくない。今年中にやってしまおう!

 急いで床屋さんを検索した。出来れば女性の理容師さんにやってもらいたい。だが家から行ける範囲では、どこも予約が一杯で断られた。大晦日だし、みんな同じことを考えているのだろう。仕方がないので駅前のお店へ行くことにした。

 入った瞬間、しまったと思った。年末のためか混んでいる。私が最後の客ならばいいが、そんなことはあり得ない。私の後にも次々に客が入ってくる。この人たちに私が坊主にするところを見られるのか…もう少し早く決めていれば良かった…。

 床屋だから、当然バリカンが頻繁に登場する。刈り上げ、中には坊主にする客もいる。目を離すことが出来なかった。

 私の番が来てしまった。
「顔剃りですか?」と聞かれたので、思い切って口に出した。
「あの、カットをお願いします…。」
「カットですか?今の髪型もお似合いですが…。」
「ま、丸坊主にして…剃って…もらえますか?」
「え!?剃るって…スキンヘッドにするのですか?」
「はい。決めてきました…。」
「本当にするのですか?後で文句は言わないで下さいね。」
「ご迷惑をかけるようなことはしません…覚悟を決めてきましたから…。」
 決意が揺らがないうちに、早くやってもらいたかった。

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