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親切とおとなになることのはなし。

人に席をゆずるとか困ってそうな人を助けるとかいう親切のポイント集めをよくする。

ポイント集めるってなんか戦略的なかんじだし偽善っぽいかんじがするんだけどわたしがしてる親切は完全にポイント集めでしかなくて。いわゆる小学生の頃に習う道徳みたいな「いい人になりましょう」をただ実践しているだけで。

大人になると親切とは少し違う角度の「気遣い」というものを心得なくてはならないと思っている。それを社会の仕組みの中で身につけていったり考えることによって見につけたりするものなのだと思っているのだけれど、いかんせん私にはその能力が致命的に低い。それを自覚しているがそれをどうにか高めようとしてもそう簡単に高めれるわけではない。


このあいだ、道を歩いていて階段が工事中で、端に仮設の階段が設置してあったんですね。その仮設の階段は幅が狭くてふたりがすれ違うのにはすこし狭いかなぁというくらいしか無くて。わたしはその階段を降りようとしていた所で下からおじさん(おじいさんと呼ぶにはすこし早いかな、というくらいの男性)が階段を上ろうとしてたんです。わたしは咄嗟に先に道を譲るべきだ、と思って譲って階段の上で待ってたんです。
で、そのおじさん急いで階段を上ったんです。わたしを待たせているから。
そのとき、あぁ、やってしまった。と。
この状況は若くて体力のあるわたしが階段を急いで降りてすみません、と言ってあとでゆっくり階段をのぼってもらうべきだった。
親切で譲ろうと思ったのが皮肉の結果に。気遣いが足りなかった結果だった。

親切って基本的に定型があるんだけど、気遣いには定型が無い。
その場の判断力が必要になってくる。それが出来るのがおとなだと思っているし、残念ながらわたしには全然備わっていない。

たまに気遣いの塊みたいなそういうのを全ての状況に応じてスッとできる人がいるんだけど、そういう人を見ると自分はなんて無能の人間なんだ…っておちこむ。だから正直あまり一緒にいたくない。笑

"気遣いのできる大人"になるにはまだかなり遠そう。

だからせめて親切のポイント集めくらいはしようかなぁとわたしは今日も定型の"親切"をする。

#コラム #生活 #思考

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