見出し画像

4.1 エイプリルフール

人生において、こんな日が来るとは思っていなかった。
七年付き合っている彼女に目の前で婚姻届を破り捨てられ、泣きながら張り手を食らわされ、春の雨にぬかるんだ冷たい地面に突っ伏すことになろうとは。

「…え?」
私は倒れたままもうパニックで頭が回らずに、土の味か血の味か判別のつかない鉄臭い唾液の味だけリアルに感じていた。
「こんなことして、酷いよ!私の気持ち全然分かってない!」
そう言って彼女は、付き合って二年目から徐々に高さが減っていったヒールの今ではもはやぺたんこに近い走りやすそうな靴で、涙を拭きながら泥を飛ばして走り去っていった。
それはまるで、悲劇のヒロインのように。

「いや、どう考えても俺の方が悲劇じゃない?携帯にかけても出ないし、訳が分からないよ」
這々の体で家に帰り着くと、玄関の時点で母親に見つかり泥だらけの顔と服を指差して爆笑されたので風呂上がりに経緯を説明する羽目になった。
どうせなら見つからずに全てを済ませてしまいたかったのだが、母親は母基準の面白センサーが敏感なのだ。
一通り説明を終えると母が言った。
「あんたの動機が不純だったからじゃないの。元号変わらないと結婚に踏み切れない情け無い男だって愛想尽かされたのかもよ。どうすんのあんた」
母親は悪びれもせずに、私がまとめて買ってきておいたお気に入りのチョコレートアイスを勝手に出して齧りながら言った。
「いや、だってさ。知らなかったんだよ。新元号前に結婚しないと昭和生まれの人間は平成ジャンプとか呼ばれるってこと。あいつそういうの気にしそうじゃん」
夕方の情報番組で駆け込み婚の理由についてそんなことが特集されていたのを見て青ざめた。結婚を急ぐ彼女に別れを切り出されてしまうかもしれない。
いよいよ俺も覚悟を決める時が来たと腹を括って、一応通勤鞄の深くに忍ばせておいた婚姻届をいそいそと取り出したのだった。
これまでの流れを反芻すると、風呂で体は温まったが濡れた頭を乾かす元気はなく体が勝手にソファに沈んだ。
「あらやだ!ソファ濡れるからやめてよもー」
母親は行儀悪く溶けかけのアイスをくわえながら洗面所に行き、戻ってくると私の顔めがけて全力でフェイスタオルを投げつけた。
「痛い!」
「あんたはほんとバカ。七年もあって何してたのよこのバカ息子。大体平成が三十年ちょっとだったんだから多少しょうがないでしょうが。昭和なんて倍以上あったのよ?ジャンプしたら明らかに還暦すぎてるっつーの。あんたの気持ちが固まらないなら平成くらい軽やかにジャンプしなさいよバカ」
正論なのか何なのかよく分からないことを言いながら、私の話に興味が無くなったのか母はテレビのザッピングを始めた。それにしても実の息子にバカを連発しすぎである。
「いや、万が一そうだとしてもだよ?その、俺の気持ち云々が気に入らなかったとして、普通婚姻届破り捨てて彼氏を地面にひれ伏すまではっ倒すかね?」
「女はいざとなればキングコングより強いの。いつもは男の顔を立てて優しくしてやってんの」
確かに年とともに突き出た腹を無造作に掻いている母はゴリラに見えなくもなかったが、そんなことを言ったら確実に捻り潰されるので黙っておく。
「車の後部座席にゼクシィ置かれたり、マンションのチラシ見せられたり、絶対結婚匂わされてたのに何が気にくわないんだ…」
涙でタオルを濡らす真似をする私を、母は思い切り鼻で笑った。
「はっ。そういう、結婚したかったんだろ?仕方ねえからしてやるよ、みたいなとこじゃないの?滲み出てんのよ全身から。ほんとバカ」
とりあえず今夜は私の心の傷も癒えないため、彼女には明日会いに行くことにする。
母はアイスの無くなった棒をいつまでも卑しく舐めながら、本当に可哀想なものを見るような目で私のことを眺めていた。

実際のところ、彼女はこの日の一大イベントと化していた新元号発表よりも、例年通りのエイプリルフールに気を取られていた少数派の国民であることを知るまで、この時であと二十時間。


4.1 エイプリルフール

#小説 #エイプリルフール #新元号 #平成ジャンプ #母 #日めくりノベル #JAM365

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?