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7.29 福神漬けの日

カレーの横に添えてある福神漬けが、まさかこんな事態を引き起こすとは思っていなかった。
東海林は気まずい空気の中で、己の軽薄な思いつきによる愚行を実行したことを激しく後悔していた。

「三木くん、機嫌直してくれない?」

猿のように短い頭を金髪に染めている三木くんは、背中を丸めて不機嫌なオーラを放っている。
二人の間にある、リサイクルショップで買った角の剥げたちゃぶ台の上には、昼飯で食べ終えたばかりのカレー皿が二つ。
このままでは皿に付いたルーが乾いて落ちにくくなってしまう。
皿洗い担当の東海林は気が気ではなかったが、今余計な動きをしたら、この不機嫌が長続きするであろうことは目に見えているので、ただ太い眉をハの字に下げているしかなかった。

「ごめんね、そんなに怒ると思わなくて」

東海林が土下座をすると、三木くんの肩がぴくりと反応を示した。

「…怒るとは思わなくて?福神漬けくらいで怒ってる俺が悪いって言うのかよ」

大変なことになった。
どうやら地雷を踏んだらしい。
三木くんは東海林の方を向かずにまくし立てる。

「俺はさ、カレーが大っ好きなわけよ。カレーを美味く食べるためにカレー禁とかまでしちゃうわけ。分かる?それで、最高のタイミングで福神漬けを口にしたいのよ。最高潮に高まったとこで、カレー初心者のお前が福神漬け横取りとかマジあり得ないから」
「だから、冷蔵庫にある福神漬け追加するって言ったのに」
「ばーかーか?さっき俺が食べたかったのは急に冷蔵庫から出した冷え冷えの福神漬けじゃねえんだよ。ちょうどよく室温に戻ったかルーで温められたくらいのやつの想定でこっちは食べてんだ 察しろバカ」

罵られすぎた東海林は、涙目で頭を抱えた。
カレーが好きなのは知っていたが、まさか福神漬けにまでこだわっているとは、五年居候されていても気づかなかった。
機嫌が直ることはなさそうなので、仕方なく東海林は皿を重ねて台所へと立った。
鍋の中にあるカレーも冷蔵庫に移さないと、いくら冷房をかけているからといって悪くなってしまうだろう。

美味しく出来た、いつものカレー。
三木くんは夏野菜のカレーやキノコのカレーなどアレンジをすると嫌がる傾向にある。
文句は言わないが食いつきが悪いので好まないのがすぐ分かる。

「夜までには、機嫌直るといいんだけど」

ため息を吐きながら、程よく冷めたジャガイモと人参と玉ねぎと豚肉のカレーをタッパーに詰めた。
冷蔵庫を開けると、福神漬けの袋が悲しげにひしゃげている。
しかし、ピンチの後にはチャンスあり。
扉を閉める際に東海林の目に留まったものが東海林にひらめきを与えた。

不貞腐れているうちに寝てしまった三木くんが、夕方に目を覚ました。

「あっ、おはよう。もうすぐ夕飯にするけど、食べられる?」
「…カレーなら」

三木くんは本当にカレーが好きなのだ。
寝ぼけ眼で居間の電気をつけたのを合図に、東海林は台所に立った。

「うん。カレーだよ」

東海林は冷蔵庫から卵を二つ取り出して、にっこりと微笑んだが、その姿は三木くんからは見えていない。
丁度日が暮れた頃、夜用のカレーが出来上がった。

「はい、どうぞ」

出したのは、なんの変哲もない昼間と同じカレーだ。
ただ、三木くんの分だけは福神漬けを山盛りにしてある。

「いただきます」

まだ不機嫌の残る小さな声で、三木くんが言った。
喧嘩をしていてもこういう挨拶を忘れないところが、三木くんのいいところだと東海林は思っている。

「あ、待って!夜はスペシャルサービスです」

怪訝な顔をする三木くんの目の前に、東海林がうやうやしく卵を出した。

「え、これって、もしかして」
「そう。時間がかかるから普段はあんまりやらないけど、理系の知恵と己の勘を使いに使って作った究極の温玉です」

三木くんはまだ温かさの残る温玉を掴むと、ちゃぶ台の端っこで殻を割った。
ほかほかのカレーの真ん中に、三木くんの手から完璧な温玉が落ちた。

「お、おお…」

三木くんは目を輝かせながら、殻持っていた手をスプーンに持ち替えて慎重に黄身を崩す。
橙色に染まった黄身が、溢れるように流れたのを見て東海林は胸を撫で下ろした。

「サンキュー!東海林!ほんとに究極の温玉だわ!いただきまーす!」

急に元気を取り戻した三木くんは、すぐさまカレーを掬って食べ始めた。
どうやらミッションは成功したらしい。
三木くんは、戯れに作ったこの東海林の温玉乗せカレーが何よりも好きだという。
東海林も温玉を割って自分のカレーに落とすと、静かにスプーンを取った。

「誰も取らないから、ゆっくり食べなよ」

あまりにがっつく三木くんにそう注意すると、眉間に皺を寄せてお前が言うなと睨んできたので、東海林はもう二度と三木くんの福神漬けに手を出さないことを固く心に誓いながら、黙ってその日二度目のカレーを口に運んだ。


7.29 福神漬けの日
#小説 #福神漬けの日 #カレー #JAM365 #日めくりノベル

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