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8.21 献血の日・パーフェクトの日

手先が凍えるように冷たい。肘で顔を拭うと、薄汚れたぼろ布になってしまった戦闘服のあちこちに黒い染みがついている。落とそうといくら擦っても洗っても呪いのようにべったりと落ちないので、放っておいたらもはや布の柄と化してしまった。身なりに気を使う余裕があるのは、平和と幸福の象徴だと今なら分かる。
錆びてへこんだ扉の隙間から外を覗くと、強い風に小雪が飛んでいる。すきま風に吹かれながら、出来るだけ息を潜める。白い息が外に漏れたら、奴らに居場所を知らせることになるだろう。
こんなに寒いのに、首筋にじわりと汗が滲んだ。これは、呪いだ。不安という名の、実態のない呪い。

この街に辿り着いたのはいつだっただろうか。前の街から半月はかかったように思う。
生まれ故郷の街は、“死者”が現れる時期が早く、対応策も分からないままに、両親も、隣人も、その息子も、先生も、野菜売りのあの子も、次々と襲われて結局壊滅状態にされてしまった。友人の一部や兄妹は、散り散りになって今や行方が分からない。
最初はただの病気だと思われていたこの異常事態は、ひと月もすると冗談でも笑えない事態になった。
五日に一人ずつ襲われて“死者”が増えるという鼠算式の増殖の方法で、街にやってくる“死者”の最初の一体は、月のない新月の夜に土の中から現れるとも、満月の晩に別の街から歩いてくるとも言われている。
何故かその最初の一体を見た者はなく、というのも見た者が皆襲われて“死者”になっているからだ。

強くなる風と雪に、少し胸を撫でおろす。奴らは極度の寒さには弱いから、きっとこの場所には気づかないだろう。
念のためドアの扉の金具に鈴を結んだ糸を張る。奴らにはこれを避けて通る理性はない。
明かりもない、埃っぽい廊下をくすんで割れた窓から入る外光を頼りに奥へと進む。
床に汚れがないことから、この建物に奴らの進入はないと判断した。途中にある部屋は中を少し覗くだけで大抵は素通りする。ほとんどの部屋が古いベッドの土台だけが整然と並んでいたり、棚にカルテや薬瓶が並んでいたり、紋切り型の医療施設そのものである。薬も調達したいところだが、今は先を急ぐ。

ここに来たのは、前の街で出会った生き残りの商人からある話を聞いたからだ。
彼はたまたま私が“死者”を追い払う場面を見たことから、私を死者退治の英雄だと思い込み、金も取らずに情報を寄越してきた。
しかし、私が死者退治の英雄などというのはまったくの見当違いで、姑息に長く逃げ回るうちに“死者”のあるトリックを見つけ、人より僅かに“死者”への免疫が出来ただけだ。これは本当に幸運としか言いようがない。
そもそも私は“死者”と闘いたくなんてない。怖くて足がすくむし、銃の照準は大げさに震える腕で合うわけがない。人が襲われ血が流れて溜まっていくのを、助けもせずに音を立てずに早足で離れたことだってある。その代わり、生きているせいでいつでも怖くて不安なのだ。

商人に教えられた通りの順路を辿ると、目印となる女神のレリーフを見つけた。吹き抜けの壁にかかるそれは、見る者を失い伏し目がちに現況を嘆いているように見えた。
女神の左足の先に地下に降りる階段がある。商人の話が本当であれば、その下にお目当のものが待っているはずだ。
誰もいないと分かっていながら、つい後ろを振り返り、待合所のベンチが静かに並んでいるだけなのを見て安心し、最初の一歩を踏み出した。

地下にある巨大な銀色の箱の中には、信じられない光景が広がっていた。
重い扉を開けると同時に噴き出してきた白い冷気を顔に浴びながら、開いた口がふさがらない。鮮烈な赤に目が眩みそうだ。
几帳面に血液型毎に分けられた献血パックが、銀のポールに無数に吊り下げられている。その数はゆうに百を越えているだろう。一つを手に取ってみると、ひやりとした重みに涙がにじんだ。保存方法も完全で、使用期限までもまだ間がある。

「やったぞ、これだけの量があれば、当たりがあるはずだ…俺は、生き残れる」

私は自分の血液型と合うパックから勘でひとつを選び、近くの別の引き出しから見つけたチューブと針を繋いだ。そして、壁のS字フックにぶら下げて、針の先端を雑に消毒した自分の腕に繋ぐ。
誰か知らないそこのあなた、ありがとう。心の中で呟き、体内を巡る他人の血を思う。昔々の誰かの善意が、私の命を救うかもしれない。
満たされていく感覚に頭がぼんやりする。口元が自然に笑っていることに気づいて、自分も末期かなと思う。
冷たい壁に寄りかかって、赤いパックを見上げると、その先に天窓が見えた。積もった雪の隙間から見える空が明るい。どうやら雪はやんでしまったようだ。

私が“死者”を一時的に追い払える力を見つけたのはたまたまであった。逃げる際に大怪我をして、輸血をした。その時は命が助かったとしか思わなかったが、次に襲われた際、私の血に触った“死者”が震えて崩れ落ちた。どうやら私に輸血された血が、奴らを追い払ったのだ。
それから私は実験的に自分の血を使って罠を作った。“死者”たちは面白いほどに引っかかり、すぐに屍の山が出来た。

しかし、半年もすると効果が薄れてきた。輸血した血がどんどん私の血に変わっていったからだ。
このままでは、また恐怖に逃げ回る生活が始まる。それからはいつこの血の効能が無くなってしまうのか怯えながら旅を続けた。壊滅した町の医療機関をまわっても、大抵はウイルスの感染を恐れて火を放たれていた。取り分が減ることを恐れて、このことは誰にも話していない。
だからこそ、今回のことは奇跡としか思えなかった。
ありがとう。ありがとう。奇跡の血の人。
そこに何が含まれているのか、その持ち主は生きているのかいないのか。分からないまま、ただ私は、今現在で一番生き残る可能性がある方法を探っている。

血が体内を巡ると、眠くなってきた。この血が奇跡の血であるといい。そうではなくても、これだけあればどれか一つは当たるかもしれない。
ありがとう。ありがとう。

ゆっくりとまぶたが落ちていく。手先が熱を持って温かい。
ふいに天窓の雪が落ちる音がして、部屋が月明かりに満たされた気配がした。

821・献血の日、パーフェクトの日

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