翻案として半分巧み〜『アナスタシア』

2020年3月20日、東急シアターオーブに『アナスタシア』を見てきた。
新型コロナウィルス感染症対策として開幕延期のあと、約一週間設けられた休演。わたしが見たのは再開初日だった。劇場ホワイエ(...をどこまで指すかが謎な構造なのだが)入り口ではアルコールスプレーの噴射と体温検知が行われていた。

この記事を書いている2020年3月24日現在、演劇を始めとしたあらゆる種類の「興行」の今後がどうなるかは分からない。政府による補償の保証はない、はぐらかされ自粛の要請でお茶を濁されている。さりとてホットスポットと化すことは避けたいというジレンマを抱えない興行主、俳優、スタッフはいないだろう。
休演や延期の決断も、続演の決断も、わたしは尊重したい。そして一刻も早く経済的補償を政府は確約してほしい。商品券?聞こえないなぁ。

そんなわけで、わたしに出来ることは見た作品について記録を残すことなので、今回も張り切って書きます。『アナスタシア』です。
東京公演は3月28日まで、大阪公演は4月6日から18日まで予定されているので、ネタバレが気になる方はブラウザバックしてください。


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『アナスタシア』は、1997年に公開された同名アニメーション・ミュージカルに基づいた作品である。
アニメーション版から引き続き、テレンス・マクナリーが脚本を、ステファン・フラハティ&リン・アレンスが作詞作曲を手がけている。

タイトルの通り、ロシア革命時に殺されたはずの皇女アナスタシアが実は生き延びていた...?という伝説がベースとなっている。
パリに逃れた皇太后マリアがアナスタシア発見に懸賞金を賭けた。詐欺師ディミトリとヴラドは、記憶喪失の女性アーニャをアナスタシアへと仕立ててパリに向かう。一方、アナスタシア暗殺の命をうけたボリシェビキの将官グレヴはアーニャらを追う。
わたしが見た回では、アーニャは葵わかな、ディミトリは内海啓貴、ヴラドは大澄賢也、グレヴは山本耕史、リリー(マリア皇太后の侍女)は堀内敬子だった。

元のアニメーション版を知っている身からすると、大きな変更が施されていて驚きだった。
アニメーション版にグレヴは存在しない。
アニメーション版の敵役は魔術師のラスプーチンであり、相棒には白いコウモリのバルトークが控えている。ディズニーの『アラジン』に出てくるジャファーとイアーゴのような雰囲気である。

変更に驚きはしたものの、納得はした。
というのも、ロマノフ王朝の滅亡はラスプーチンの陰謀によるもので、アーニャ=アナスタシアの命を狙うのもラスプーチン、というように、アニメーション版では「ソ連」が完全に透明化されていたからである。
あと、道化的な白いコウモリの扱いは多分困る。
ついでに、アニメーション版にはアーニャの親友として犬も出てくる。これも多分、舞台版では扱いに困る。
ここで思い出したのは、『パリのアメリカ人』舞台版である。あれは、元の映画版で欠けていた「戦時下」「戦後」という空気をより濃密にしていく方向へ翻案していた。
もしかしたら、翻案時に史実への踏み込みを強めるのは、2010年代後半以降のブロードウェイ全体の風潮なのかもしれない。

では、魔術師や喋る白いコウモリやマスコット的な犬がいなくなり、代わりにボリシェビキの将官が敵役と据えられることで『アナスタシア』という作品はどうなったか。
「どの物語を生きるか」「その物語に対してどのように責任をとれるか」というテーマが明確に浮かび上がったように感じた。

皇太后マリアは「アナスタシアは生きている」という物語にしがみついている。
サンクトペテルブルク(レニングラード)の市民たちも「アナスタシアは生きている」という物語に生活のハリを見出している。
アーニャは「アナスタシアかもしれないし、そうでないかもしれない」という宙づりの状態から「アナスタシアである」という自身の物語を生きることとなる。
ディミトリも「アーニャがアナスタシアである」という物語に身を投じていく。
そして、ロマノフ王家処刑人の息子グレヴは、ソビエト連邦が国家をかけて紡ぐ物語で以ってアナスタシア生存の物語を潰そうとする。

「アナスタシア生存」の物語を巡って縺れるものの、最終的にはアーニャとディミトリを「ロシアからパリへ亡命してきた恋人たち」という物語へと送り出すことで、各々が投じた物語とそれぞれうまく折り合いをつけることが叶う。皇太后は恋しい孫の旅立ちを祝福することで昇華し、グレヴは「夢物語」として落とし前をつけ、うまく立ち回る。
アニメーション版では前景化されていなかったテーマを新たに打ち出して、一貫して描き進めていくことが出来ている点で、『アナスタシア』の翻案はかなり巧みな方なのではないかと感じた。さすがテレンス・マクナリー。

物語を生きること、信じさせること、けれど物語を語り・聞き・受け入れ・信じる者には相応の責任が生じるという『アナスタシア』のテーマは、アメリカ大衆文化で脈々と語り継がれてきた。(アンドレア・モストという研究者が著した"Theatrical Liberalism"がそのあたり詳しいので、興味ある方はぜひ。)
もちろんミュージカルでも「物語を語ることとその責任」の問題を大なり小なり扱った作品は沢山あるし、個人的には、この問題はミュージカルという表現形式と非常に相性が良いと感じている。

だからこそ、『アナスタシア』の歌やダンスの使われ方は凡庸で惜しい、という感じが否めなかった。
むしろ、歌の使われ方はアニメーション版の方が上手な部分もあった。

アーニャがアイデンティティを再構築していく際に鍵となるのは、皇太后マリアから贈られたオルゴールである。
舞台版では、「壊れている」とディミトリから手渡されたオルゴールをアーニャが簡単に操作しメロディを流して歌い出す。アーニャとアナスタシアの結びつきがほぼ確定される重要な場面である。
だが、ここでオルゴールから音楽をディエジェティックに流してしまって良かったのだろうか。ここで流してしまうことで、終盤にパリで皇太后マリアとアーニャが共に歌う場面のカタルシスが減ってしまったのではないかと感じられてならない。

ちなみに、アニメーション版だとアナスタシアに贈られるのはオルゴール機能付きのロケットで、ロケットを開く鍵はマリアが所持している。なので、マリアの下に行かなければアーニャはロケットを開けられず、音楽を流せない。それでもアーニャにはオルゴールから流れてくる音楽が耳から離れないという設定である。
皇女としてのアイデンティティと音楽が密接に結びつくという演出ならば、アニメーション版に準拠していても良かったんじゃないか?ロケットが小さいというなら、オルゴール(手のひらサイズで観客席からバッチリ見える)の鍵が紛失しているとかでも良かったんじゃないか?と感じられてならない。

このように肝心なところで音楽の効果を引き出しきっていないので、キャラクターの感情表出ソロ・ナンバーとか、音楽流さないと飽きられるタイミングで折良く流れるビッグなダンス・ナンバーの楽しみや魅力が霞んでしまうように思われた。メロディアスで勢いがあって耳に残る素敵な曲が多いのに...。
ということで、先ほど『アナスタシア』は翻案としてかなり巧みな方なのではないか、と書いたが、正確に言えば、ミュージカル的には、半分巧みといったところである。

最後に、俳優について。
アーニャ役の葵わかなの歌声の丸さが嬉しい驚きだった。『CHESS The Musical』のサマンサ・バークスを彷彿とさせる。ただ、曲のリズムにあわせて体がゆったりと左右に揺れる癖は気になった。「アーニャの揺れ」でなく「葵わかなの揺れ」に見えてしまった。キャラクターがいかに音楽のリズムの中に生きているように見せるか、というのは結構技術がいるのである。
また、ヴラド役大澄賢也とリリー役堀内敬子が二人でいる時の落ち着きと浮つきのバランスは良かった。魔術師と白いコウモリと犬がいないため、舞台版はアニメーション版に比べてどこかスロースタートに感じていたのだが、第二幕でリリーが登場して以降は途端にスピード感と活気が出てきて見やすかった。

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