見出し画像

2つのハ長調交響曲~シューベルトの「ザ・グレイト」とシューマンの2番

 ロマン派の交響曲で、ハ長調である2つのクセになる交響曲について書きます。ひとつは、シューベルトの9番(日本では、8(9)番と書くことが多いですが、ヨーロッパでははっきり9番と書くことが多いようです)「ザ・グレイト」と、シューマンの交響曲第2番です。

 シューベルトの「ザ・グレイト」(以下、グレイトと書かせていただきます)は、シューベルトにはハ長調の交響曲がもうひとつあるため(6番)、区別するために「ザ・グレイト」と言っているのだと思いますが(オーストリアの作曲家なのに、なぜ英語で言うのかはわかりません)、しかし、「グレイト」という言い方が定着するにふさわしいグレイトな(すごい)曲です。演奏に1時間かかる曲で、かんたんにひとにすすめられませんが、クセになる名曲です。シューベルトの特徴として、その独創的な和声進行が挙げられると思うのですが(私は、耳にした音楽は、メロディ、コード、ベースライン、すべて聴き取れているという特技がありますが、そのせいで、とくに、シューベルトの独創性にはいつも圧倒されています)、この曲も、全編にわたって、独創的かつ斬新かつ魅力的な和声進行にあふれており、その長さを感じさせない音楽です。この曲を、ブルックナーの交響曲と比較して論じる人もいますが、わからなくはない。しかし、シューベルトはあくまでシューベルトなので、ブルックナーとは違うと言うべきだと思います。もちろん、ドヴォルザークとも違う。

 「グレイト」を、シューベルトらしくない、と評する人もいます。いまだに「天国的な長さ」(シューマンが「グレイト」を評して言った言葉)と言う人もいます。シューベルトの、短い曲ばかり評価されていた時代には、そのように思われたのかもしれませんが、これはシューベルトの魅力を満載した名曲なのです。おいしい食べ物を、えんえんと食べ続けるようなたのしみがあります。いくら長くてもかまわない。全楽章、すばらしいですが、とくに終楽章は、その転調の魅力が全開となり、いつまでも続いてほしいと願う稀有な曲です。しかし、単なる美しい曲、すばらしい曲と言ってしまうと、この曲の魅力を述べたことにはならないと思います。ある種の、中毒的ななにかがあると思います。

 いっぽうの、シューマンの交響曲第2番も、クセになる名曲です。はっきりハ長調であること、また、上でも述べているとおり、グレイトはシューマンが発見した曲なので、グレイトからの影響もあったのかもしれません。このころシューマンはバッハを研究しており、たしかに、第3楽章の「ソミ♭シド」で始まるテーマは、バッハの「音楽のささげ物」のトリオ・ソナタの音型そのものです(これは私の発見ではありません。なにかで読んで、感心した意見です)。第1楽章は、シューマンの得意な、同じリズムを反復させていく音楽で、ここで飽きてはいけません。第2楽章スケルツォ、そして、非常に美しい緩徐楽章をへて、華やかなフィナーレへ向かいます。

 どういうわけか、このシューマンの2番という曲は、精神的に不安定な人のあいだで、人気があるようです。私の「うつ友」のなかにも、この曲のファンは、複数、います。べつに、うつっぽい曲ではなく、むしろ、前向きで明るい音楽に聴こえるのですが、なぜか、精神的に不安定な人のあいだで人気のある曲でもあります。シューマンが、精神的に病んでいた時期の作品だと解説されることもありますが、そのようなことと関係なく、病んでいる人のあいだで支持されている曲です。

 うまく言い表せなくて申し訳ないのですが、この2つのハ長調交響曲には、多くの共通点があるようです。初期ロマン派の曲だということのみならず、です。非常にクセになる音楽なのです。飽きの来ない、何度でも聴きたくなる音楽です。両曲とも、ちょっと病んでいるところも共通するかもしれません。とくにグレイトは、長すぎることのため、なかなかアマチュアオーケストラでは演奏されませんが、やりたい人はたくさんいます。(オーボエとトロンボーンがやりたがる傾向あり)

 グレイトの名演奏を挙げます。バルビローリ指揮ハレ管弦楽団は、この曲のロマンティックな面をうまく出しており、飽きない名演奏だと思います。スクロヴァチェフスキ指揮ミネアポリス管弦楽団は、意固地なまでにインテンポにこだわった、当時としては斬新な演奏だったろうと思います。ワルター指揮ニューヨークフィルは、ずいぶん編曲がはなはだしいですが、ここがブルックナーと違うところで、ブルックナーでこんなに派手に編曲したら、曲が台無しになるでしょう。やはり、シューベルトのグレイトを、ブルックナーやドヴォルザークと対比するのは、ちょっと違うと思います。

 シューマンの2番の名演奏を挙げます。シューマンの交響曲の特徴ですが、いくら指揮者がよくても、オーケストラがよくないと、名演奏にならないのです。ムーティ指揮フィルハーモニア管弦楽団は、非常に理想的な名演奏ですが、同じムーティの指揮したフィラデルフィア管弦楽団はダメでした。サヴァリッシュ指揮シュターツカペレ・ドレスデンというすばらしい演奏もあります。しかし、私は、同じサヴァリッシュ指揮のN響によるこの曲を生で聴いたことがありますが、生なのに、よくありませんでした。個人的には、ストコフスキー指揮のニューヨークフィルのライヴが、曲の構造をあぶり出していて、しかも覇気があり、好きですが、ちょっとマニア向けと言えるかもしれません。ヤノフスキは評判が高いですが、おすすめしません。(バーンスタインは、グレイト、シューマン2番、両方とも有名ですが、ちょっと大げさであり、私の好みではないので、取り上げないことにします。)

 張り切って書き始めた本稿ですが、思いのほか、うまくまとまりませんでしたね。「短い曲が得意な作曲家が作曲した長い曲」というのも、ひとつの共通点かもしれません。とにかく、私は、この2曲に、共通する、クセ(毒)を感じます。両曲とも、「正気の沙汰」ではないのです。決して退屈な音楽ではないのですが、凡庸な音楽ではありません。しかし、ひとにすすめるのは気がひけます。とにかく、単なる「ロマン派の交響曲」というだけでは済まないなにかを感じつつ、聴いています。両曲とも、真の理解者を待ち続けているようにも思うのですが、これは、和声がすべて聴こえている私だけの感想なのでしょうか…。

 無駄に長くてすみません。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?