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フィリップ・グラス『浜辺のアインシュタイン』という山脈の登り方

フィリップ・グラス作曲の現代音楽オペラの金字塔『浜辺のアインシュタイン』を神奈川県民ホールに観に行ってきました。初出は1975年、作曲のフィリップ・グラスはミニマルミュージックの巨匠。演出のロバート・ウィルソンは画家、彫刻家、音響・照明デザイナーの顔ももつ実験的な演出家ということで、作品は神格化され、YouTubeでは、様々な演出舞台が上がっていますし、心ある文化系はオリジナルメンバーによるDVDを持っているはず。

もちろん、大きく期待して行ったのですが、結果としてはかなり残念なものでした。以下に記すのは、大いに不満が残った演出面についてです。

ミニマル・ミュージックの代表格のひとりフィリップ・グラスですが、この作品では禁欲的ではなく、合唱やオーケストラの豊かな音響を肯定的に使い非常に強度の強い、ある意味ドラマチックな音世界を繰り広げています。特にact 4は、オラトリオの風格さえ漂い、グラス自身がミニマルにカテゴライズされることを嫌ったという事の証左になってましたね。なので、言うまでもなく、主役はその音楽であり、今回、オケピットに16人もの合唱を入れて演奏された音楽はあの長尺4時間に真摯にいどんだ力演だったということは、最初に述べておきます。

指揮者もダンサーや役者がめぐるましく交差する舞台の進行を見ながらよくまとめていました。4時間もの時間は、ワタクシのように8時間プレイを知るテクノ/ハウスのクラバーにとっては当たり前ですが、ミニマルの音像音響の永続性と時間感覚の倒錯は、「きっとクラブ行ったことがないんだろうナー」という多くの観客にとっては新鮮だったことでしょう。

さて、致命的にダメだったのが、舞台上で話されるセリフがほとんど聞こえなかったこと。これ俳優たちが生声ではなく、ヘッドマイクを付けて発声しているのですが、この音響が著しく悪くて、舞台発声が身についているベテラン男優以外の、自前の発声法と発音スピードでは全く低音が聞き取れないという始末。言葉と音楽と視覚演出が三位一体になてこそ、強力なイメージが発生する本作においてこれは致命的。私がみたのは初日だったので、2日目には改善されていたのかも知れませんが、こういったオペラとしては、最も重要視されてしかるべき所が欠落していたところが残念極まりない。

なぜ、そんなにこだわるのかといえば、このオペラ、セリフにこそもの凄いフックがあるのです。列車、フェミニズム法廷闘争、宇宙船などを始めとして、ビートルズのメンバーの名前、キャロル・キング、デビット・キャシディーという一件ランダム、しかしながら、役者たちによる、1970年代と関連がある言葉と文節が入ることによって、もの凄いイメージが観客に立ち上がってくるという構造なのですよ。(ちなみに、ワタクシ的には美形シンガーとして日本でも人気があったデビット・キャシディーがキモ。グラスのミニマルにこの名前が発声されるという何という異化効果!!)

特に冒頭、自閉症であったクリストファー・ノウルズの詩「どうかな、ヨットに風あつめるかな」という訳詞の鴻巣友季子さんの名訳が見事に光ったセリフは、完全にこの『浜辺のアインシュタイン』の通奏低音たるイメージです。ゆえに聞こえなければ、どうしようもない。

そして、大きく違和感を覚えたのが演出ですね。繰り返していいますが、これフィリップ・グラスの、メディテーションにも近い、感覚鋭敏境地に人を誘いこむ独自のミニマル・ミュージックが中心軸にある作品です。ということは、研ぎ澄まされたセリフ、視覚に入ってくる全てのことに、観客はいちいち“読み”の感覚が入ってくることは必定。そう、現代美術ではお馴染みの手つきですね。石庭などの日本庭園の鑑賞、茶道もそういうところがあります。

その“読み”はまず、俳優の衣装とメイクに混乱させられます。衣装は、80年代のベルギー、アントワープ6の焼き直しっぽいモード臭ぷんぷんのシロモノ。そして、ヘアメイクはといえば、お団子頭多発と白ペンキを塗布した肌づくりが目立ち、かつての『流行通信』のファッショングラビアのごとし。つまり、ファッション専攻の学生の卒業制作みたいな「クリエイティヴ、自由にやってみました」系であり、それらが発してしまうこういったイメージや記号は、本当に演出家が意図したものなのか?!!

これはもう、申し訳ないが、教養深度に関わる話で、ここに無知な観客は、記号自体が“読め”ないので、私ほどの引っかかりは感じないでしょう。グラスの音楽が、学園祭のファッションショーのBGMとして聞こえてしまってオッケー、ということまで想定済ならば仕方がないのですが、その散漫な自由さは、このオペラの本質とは違うのではないでしょうか。

そう、重ねていいますが、このオペラは、それだけで素晴らしいグラスの音楽に、言葉や視覚に込められたイメージと意味がアンカーを下ろすことで、観客に凄まじい化学反応を起こすところがキモなのです。だからこそ、表現のすべては慎重にしなければならない。海外の前衛的なオペラの演出は、そこで勝負をしているところがあり、本当に衣装やヘアメイクに隙がないのです。

先月、ストラスブール現代音楽祭で観た、サーリアホの新作オペラ『イノセンス』はその好例。(このレポートも書かねば!)16世紀スコットランドの話である『ランメルモールのルチア』を、アメリカのラストベルトの没落都市を舞台に設定し話題を呼んだ、映画監督でもあるサイモン・ストーン演出のMETの公演もしかり。

さて、逆に演出家が、観客に“読ませたい”だろうイメージは、記者発表やパンフテキストで言及している「現在の日本の諸問題」からダイレクトに想像できうる、ビニールを津波に見立てた3.11の大震災、傷を負った裸体の群衆は核戦争後の黙示録的ディストビア(裸体のモブは、よくそういった場面に登場する)が妥当なのでしょう。

「この作品を現代に蘇らせ、自分たちに引きつけるために事件を使う」というのは、古典作品を任されたときに演出家が使いがちなポビュリズムですが、冒頭のクリストファー・ノウルズの恐ろしくイメージを喚起させる強度のある詩に象徴される、知的かつ感覚的な仕掛けをもつこのオペラとしては、あまりに表層的。つまり、今まで進行していたイメージの深度が、急に具体的に「こう感じてほしい」という分かりやすいメッセージになってしまう。分かりたくてたまらないタイプの観客は大歓迎でしょうが、そこじゃないんですよ。この作品は!!

人形振りを始めとして、モダンダンスの身体表現スキルをふんだんに使い、つまり動き自体が能弁な、めぐるましいダンスに関しては、もはや、がっかりのため息しか出ませんでした。初演を観た寺山修司が「役者が全く動かないんだよ」と話していたといいますが、これまでの上演の歴史をみても、それが妥当な身体の置き方だと思います。

古くは土方巽、ピナ・バウシュ、ローザス、パパイオアヌーなど、ダンスの最前線が格闘してきた「動くのか? 動かないのか」という身体の在り方への格闘は微塵もなく、今までと違った新派軸を出したかったのかも知れませんが、ミュージカルの振付のようでした。つまり、音楽は振付が乗るためのツール、という体で、申し訳ないが、それではこの作品に込められた情報量と世界観は伝えることが難しいと思います。

「そう、イメージ。これこそ、ウィルソン/グラスが追い求め、そして信じたいものだ」とパンフの冒頭に芸術参与の方が、書いておらわれますが、そのイメージとは、仕事を振られた担当者が勝手気儘に創り上げていって、それを合体しちゃえばオッケーということなのか? こういう歴史的な古典作品を手がけるときに重要なのは、参加者たちによる事前の徹底した原本の読み込みと共有にあると思います。劇団地点や蜷川幸雄、ピーター・ブルック、黒澤明などはそうやって古典の現代化に成功してきました。

そして、こういう記号の“読み”を要求される本作『浜辺のアインシュタイン』のような知的な作品は、現代美術と同様、観客の力量も必要になってくるのだと、つくづく思いました。

写真は、目が完全にお疲れのワタクシ。怒りのあまり、フクロウ化してているwww

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