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學べよ鳥井 第三ノ學 痛みと寒さと加納クレタ

寒さにめっぽう弱い。耐性がないというほうが近いし、
夏だろうと私は寒いし、冷えているし、平熱は35.3度だ。

村上春樹氏【ねじまきクロニクル】。
その中で、加納クレタは彼女自身の感じなければならない
"痛み"というものが"どれくらい痛いのか"について、
ページ数なんて気にせず、オロナインの効用説明か?
とツッコみたくなるくらいの具体的痛み事例を列挙し力説していたが…
(力説というより"嘆説”のような単語があればそちらのほうが
ニュアンスとして近い。)

※ちなみに村上文学になぜ私は魅了されるのか…?
言語化できそうなもののうちの一つに
”感情など他人にはかれない概念の幅の表現”手法がある。

一切無駄を省いているが、ねっとりしてくどい。
マジ、それがいい。

貼るときの粘着力はピカイチなのに、剥がすときは跡も残さず
おさらばできる、そんなシールがあったら嬉しくない?

このわたし、鳥井もクレタ論法を使わせていただけるのであれば
私の感じなければならない"寒さ"をこう"嘆説"したい。

「私は他人より遥に頻繁に、
そしてずっと強くそのような寒さを体験しつづけて参りました。」

寒さというのは非常に不公平なものなのです。」


とにかく、本当に本当に…


「おそらく岡田様にはおわかりにならないと思いますが、
これは本当に涙が出るくらい苦しいのです。」

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本当に寒いのだ。”どれくらい寒いのか”?

私のティーンエイジャー(おおよそ後半)時代に遡ろう。

当時はテレビにお昼の放送に脳内BGMに、
西野カナさんの【会いたくて 会いたくて】の
あのフレーズが常に流れていた。ものすごく流行っていた。

あまりにもインパクトがつよくキャッチーなフレーズ、
さらには周りの雰囲気も相まって口ずさんでは
周りのJCとDJしていたが 本当のこころ…

会いたくて震える気持ちなんてわからなかった。

震えるレベルに誰かに会いたいなんて
一度だって理解できなかった。

当時JCの私は大変悩んだ。
恋の病に罹るべき青春時代に…

「恋のレモンみたいな酸っぱさとか
チョコみたいにとろける甘さとか…
わたし、わかんないよ…(泣)」※JCボイス

自分には第三者への愛や恋といった感情が欠如しているのだと
JCながら悟ったのだ。もちろん教科書も指南書もなかった。
あの頃は、もう手の施しようがないことに絶望しいていた。

しかし違ったのだ。あれからおおよそ10年自分とともに
過ごしてきて、私はあることに気がついた。

JCの私は間違っていた。勘違いしていた。
震えられないのは、会いたいレベルが欠如しているから
ではなかった。好き、を知らないからではなかった。

私の震えレベルがあまりにも高すぎるところに
この事象の答えはあったのだ…。

「具体的に申し上げれば、
血虚、気虚、瘀血、水毒やらの冷え性、風冷え、湿気寒、底冷え…
そういった類の寒さのことです。」


寒いのなら、温めたらいいじゃない!
発熱ができないのなら、スープを飲めばいいじゃない!
血流が悪いのなら、湯船に浸かればいいじゃない!

そうでない。そうではないのだ。
それは確かに一時的な解決方法として正しいかもしれないが…

痛さという感覚へのアプローチ機会に恵まれてしまい
さらにそれらに出会うたんびに悶絶し、苦しむ加納クレタ様に
「痛いのなら、ロキソニンを飲めばいいじゃない!」
とは言えないだろう…そういうことだ。

とにかく寒さへの耐性が皆無であり
私にとって震えというのはもはや日常茶飯の感覚であり
私の人生というのは with震え なのだ。

震えているのがスタンダードであった人生。
会いたかろうと、会いたくなかろうと、
震えていた。私は凍え、冷えていた。

嗚呼、寒い、寒い…

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どうやらあらゆる食べ物には
体を温めるもの・冷やすものという2分類があり、
それぞれ「陽性」「陰性」として判断するらしい。

私の大好きな枝豆は夏の野菜、
暑い夏に人々を冷やしてくれる「陰性」の分類であった。

私は生まれながらの寒さ弱者とばかり思い込んでいたが…
実は枝豆の食べ過ぎによる後天的寒さ弱者かもしれぬ。


知識を蓄えるということは、
こうしてものを見る視点を増やし
人生を豊かに残酷に彩ってくれる。気がしている。


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