見出し画像

【読書・思索】人間の知

ふと思ったことがあるので、これをつらつら書いていこうと思う。内容を項目ごとに分けずに、手の動くままに任せることにする。同時に、読書紹介の場にもしよう。

私は、人間の知識というものは「物事同士の関係」により成り立っていると思う。それは因果関係や並列関係、対義的な関係だったり、とにかく色々である。「絶対的な何か」を我々は知ることができない。あるいは、脳に保存された「それそのもの」に関する情報を引き出すことが出来ない。

仰々しい言い方になってしまったが、ひとまずこの思想を日常に落とし込んでみよう。今、私の部屋でひときわ目立つのは掛け布団である。「ひときわ目立つ」には、厳密には「私の部屋の中の他のものと比べて」と付け加えられる。また、そろそろ午後10時である。シャワーを浴びて寝る時間が近づいているのも布団が目立つ理由かもしれない。つまり、私は「布団は寝具である」と認識しているし、「睡眠は(基本的には)毎日のイベントである」と認識しているのだ。

しかし我々は、これにも関わらず、意識的な知識の相対化を怠りながら突き進んでいく。言い換えれば、人は「知ること」を怠り続けるというわけだ。無論、そうであるが故に我々は人間であるのだが、言語を介し発展した文明の中において、少なくともこの事実を自覚することは重大である。

さて、知識が相対化される過程を認識できる機会として、読書は分かりやすいだろう。例えば、今しがた『高校生のための哲学入門(長谷川宏 著)』に関して残していたメモを呼んでいたのだが、その中の「近代」という単語で、あることを思い出した。近代といえば、西洋史からすると16世紀前半くらいから始まる時代として認識されている。最近、『株式会社とは何か(友岡賛 著)』を読んだのだが、これによると、1602年にオランダ東インド会社が設立され、これが株式会社の起源であったらしい。そこから、株式の譲渡(つまり売却)も同時に始まり、「儲けの計算」における年次期間計算が徐々に一般化されていったらしい。

『高校生のための哲学入門』には何が書かれていたのかというと、近代以降は個人の自由、自立、主体性を尊重することを良しとする時代であるというのだ。逆に言えば、それまでは「ずれを認めない社会」が一般的であったという事だ。著者は西洋の近代小説を例に挙げて、上記の内容を垣間見ている。

今書いたことにおいて、そこかしこに相対化の痕跡が見られるだろう。近代的な思想と、近代的な企業形態(株式会社)という「時代によるくくり」。近代以降と近代以前という「時間的な順序」。さらには、明確には書かなかったが、「個と全体」や「期間計算と非期間計算」、「西洋とそれ以外」なども良い例だ。

さらに、相対化を続けると疑問も浮上する。「西洋史以外では近代の位置づけはどうなっている?」とか「期間計算の何が特殊なんだ?」など、様々に思い浮かぶだろう。いや、「そもそも近代の定義はなんだ?」とか「そもそも株式会社って何?」などの方が、本質的かつ思いつきやすい疑問かもしれない。これらの疑問が解決されたとき、先に挙げた二冊に書かれていたことは明確に相対化されるはずだ。

こうして考えていくと、しっかり相対化されつつ知識が増えていくのは面白いし、どこか安心感がある。また、当然だが人間関係においてもこれは重要である。人と人とが、まずは互いの違いをよく理解し、その理解をもって上下や優劣すらも乗り越える。しかし残念なことに、人は自己欺瞞において一流である。だがその事実に立ちすくむ必要もない。まずは、自己に対しても他者に対しても、良き観察者であることが人生の基本となるのだ。

さて、最後にもう一つだけ、どうしても気になったことがあるので書こうと思う。

先ほど、「言語を介して発展した文明の中において」という語句を用いた。「中」とはそもそも何であろうか?例えば、我々は「世の中」とか言う癖に、同じ意味で「社会の中」などとは言わない。「世の中」は「社会」である。さあ面白くなってきた。これについては『人間の学としての倫理学(和辻哲郎 著)』に詳しく書かれている。最初の40ページほどでたっぷり説明されているから、是非読んでみて欲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?