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本来の居場所

皆さんは怒り、悲しみ、恐怖、喜びなどの思いを何度も体験してきました。

これらの思いは自らの意思に関係なく現れ、制御できないものだと認識しているかもしれません。

確かに、人は感情の動物だと言われます。

複雑な思考回路がある故に、実に多様な思いが現れます。

多様な思いが積み重なる故に、強烈な感情が現れます。

これらを記憶として持っているのが人間です。

記憶が怒り、悲しみ、恐怖、喜びなどの元になりますが、これらは常に現れているわけではありません。

きっかけとなる外的な条件、つまり影響があって初めて現れます。

ですが現れた怒り、悲しみ、恐怖、喜びなどは何もしなくても勝手に弱まり、消え去ってしまいます。

影響により現れて、勝手に弱まり、勝手に消え去っていくというのが事実です。

そう、この現象は人の意思、意図は全く関係なく起きているんです。

何か事が起こった時、記憶にそって判断していますが意識的に行っているのではありません。

記憶は体験という影響によりつくられる故に、自ら選んだものではありません。

人が自分と認識している記憶や思い、感情などの一切は影響により生まれるものです。

つまり自分、個人と言われるものは影響により左右されてしまう実体のない幻想なんです。

しかし、その幻想に気づいているものがいないでしょうか?

気づきには記憶もなく、思いもなく、感情もなく、勝手に消え去ることもありません。

気づきは常に今にあり、常にニュートラルです。

ここが皆さんが本来いるべき場所です。

以下は師匠の教えです。


【師匠の教え】
例えばここに人の一切の記憶を洗い流し消し去ってしまう薬があるとします。

さあ今から私がその薬を皆さんの頭からかけて一切の記憶を消してみましょう。

一切の記憶を忘れたと過程して見てください。

どうでしょう。

今まで私と考えていた記憶は一切、消えてしまいましたが、皆さんの今が失われたでしょうか?

皆さんの私とは記憶ではないのです。

今この瞬間にいる今を知るものが私です。

皆さんは私を記憶と誤解している。

思考も記憶であり、言葉も記憶です。

この今の私が正しくつかめると、その私の自覚は身体が失われても失わない。

この今の私は記憶ではないから分別を超えているのです。

一切の分別は記憶だからです。

この瞬間に分別はないのです。

瞬間は時間の中に存在せず、この瞬間には時間もなく、永遠です。

全ての絶頂が今この瞬間の中にあるのです。

どこかを彷徨うから今を失い続けているのです。

悟りとはどこか遠くにあるのではありません。

今ここにあるのです。

私は今この瞬間の中にいる、というよりこの瞬間が私です。

周りではあらゆるものが現れては過ぎ去って行くが私はこの瞬間に留まり続けている。

ここは永遠であり、絶対であり、深遠なる沈黙です。

皆さんも実はここにいるのです。

客体を自分とみなすから異なってしまうのです。

全てに気づいているものとは分別の中にはない。

気づきは分別の前だからです。

だから気づきの中には分別がない。

彼岸がそれ、一如がそれ、涅槃がそれです。

誰か気づきを失っている人などいますか?

気づいている者が主体であり、気づかれているものが客体です。