見出し画像

5、〇〇dが難しくなる理由から妄想する心理的バイアスと評価社会の歓迎できないスパイス

グレードへの信頼度をどの程度持っているのかというのは人によって意見の分かれるところです。今回はそんなグレードという「数字の魔力」に対する心理的作用について勝手に考察、やや乱暴な仮説についてお話ししましょう。

これは信憑性のあるデータに基づいたテキストではなく、あくまで私自身の仮説なのでそういう意見もあるよな、ぐらいの感覚でお付き合いいただけると幸いです。

日本のスポーツクライミングにおけるグレードスケールはアメリカからやってきたものが定着しました。デシマル(十進法)グレードと言います。こういう数字を使ったシステムの設計に関してはやはり世界の先進的立場であるアメリカが強いですね。非常に合理的です。もともと、デシマルグレードには十進法と名がつく通り、数字だけのものでした。しかし数字だけでは表し切れない難易度の差異というものが徐々に明らかになってきたことにより、数字の後半にアルファベットをくっつけて差別化を図ろうという話になりました。

ちなみにこの提言をした男が、故ジミーブリッドウェル氏です。彼とは昔カリフォルニアのジョシュアツリーで一緒に飲んだことがありますが、随分クレイジーな方で(良い意味で)僕はすっかりファンになりました。そんな彼が提唱したのが、数字の後半にa〜dのアルファベットをくっつけて難易度を細分化しようという試みです。これは実にうまく機能して、アメリカ全土に広がりました。ただ1つ、ユニークが落とし穴がありました。それが進級という概念です。私たちは他者やサービスをある程度、比較評価することで進化を図ってきました。1998年Googleの登場によってその概念は加速度的に人々の生活に浸透します。口コミなどが象徴的な例です。

数字の素晴らしい性質は絶対的排他性です。1は1以外にあり得ないという無機質な概念です。1、00000001は1ではありません。そういう「だいたいで良いじゃん」的な余地がないのが数字の特性です。

クライミングはその絶対的排他性を持つ数字が、クライマーの体感という解釈の幅が果てしなく大きいものに対して付けられています。私はここに大きな落とし穴があると考えます。数字にするのであれば、そこには排他性がなければそもそも数字としての機能を果たせていません。

体感だけで良いのであれば、易、中、難、極難、ぐらいで良いでしょう。Googleの星の数など、ちょうど良い気がします。でもそうはならなかった。そればかりか数字の後半にアルファベットまで付けて更なる細分化を求めている。これはとても難しく、議論の余地がたっぷりとあります。グレードが不安定な性質を持つ1番の理由が数字の特性と体感の親和性の低さです。

次に心理的作用について話を進めます。皆さんは5、10dがオンサイトできた時と、5、11aがオンサイトできた時、どちらが嬉しいですか?正直に考えてみてください。なぜグレードが付けられたルートに、お買い損やお買い得という言葉があると思いますか?数字は排他的なものなのにです。

5、10よりも5、11。
11より12!と、やはり数字を上げていきたいと思うのは心情だと思います。日本人は世界的に見ても特に他人の評価を気にします。それが原因で心身を病む人さえいます。テストを思い浮かべてみてください。100点を取ろう。頑張ろうとよく言われたと思います。100点はすごいね。えらいね。と大人は評価をします。小学生から中高とその概念はなんと12年も続きます。そして100点を取る理由を聞かされることは殆どありません。合理的に学習をするためには個人の特性に合わせたレベル設定が必要です。同じ時期に始めてもレベルに差が出るのは個体差があるので当たり前です。毎回算数を10点しか取れない子は学習方法があっていない可能性があるか、目標となる点数の設定を変える必要がある。そういう初等教育での記憶というのは深層心理に潜り込んで定着する気がします。これが私が仮説として挙げる『数字に対する心理的バイアス』です。

開拓者はクライミングのルートを作った後、ルートの名前を考えて、同じようにグレードを考えます。その時、少し不思議なことが起こります。登る時には、上のグレードを目指していたのに、今度はグレードを下げる傾向が強くなるのです。これは、あまりにも簡単なグレードにしてしまったら、再登者に未熟だと思われるかもしれない、など他人の評価が気になるからです。

クライミングはより高難度を登れるクライマーが強い発言権を持つという一種のヒエラルキーがあります。数字があることで評価の概念が生まれ、ヒエラルキーがスパイスとなって、クライミングのグレードに心理的バイアスを添加します。同じ数字の位、例えば5、10aからcはそれほどではありませんが、dとなると次の位である11が見え隠れするので、aとbで悩むより色々と面倒なことを考えてしまいます。そしてルートを登るクライマーもdに対する警戒心が上がっていきます。結果的に全体を通してdが難しめになってしまったのかと考えます。

開拓が好きな私としては、そういった背景も考えながらクライミングをしています。そうすると開拓者の意志や葛藤などが数字から感じ取ることもできて、ルートに対してより興味深く向き合うことができます。

これは余談というか、私のおすすめの方法を紹介します。
よく、グレードが辛いとか甘いなどと聞きますがそれは当たり前のことなのです。グレードに正しさを求める方が異常だと私は思います。もっと言えば、そんなことにヤキモキするぐらいなら、グレードに対して寛容に構えながらクライミングを楽しんだほうがよほど充実します。私は20年にわたって(コロナ禍以外)毎年なるべく違う国に行ってクライミングをしています。現地の人と積極的に交流して、ローカルに岩場を教えてもらったりしながら楽しみます。その時にグレードに関して文句をいうクライマーもいます。でもそれは日本人のようにシリアスなものではなく、一種のわかりやすいジョークです。それを誰もが分かっているので、それを聞いた他のクライマーもグレードなどほとんど気にせず登っています。

重要なことはクライミングを楽しめるか、成長を感じ取れるか、だと思います。海外で日本人を時々見かけますが、ほとんどが現地の人とあまり交流しません。一生懸命トポやスマホをみて同じグループで活動している。少し勿体無いなと思います。

いろいろな人とどんどん交流して定着した価値観なんてどんどん壊していってください。クライミングはもっと自由で良い。アウトドアスポーツの素晴らしい恩恵である自由を、数字などに惑わされてしまっては勿体無い。読者の皆さんには、グレードなんておまけ程度に付き合いながら、美しいラインを求めて自然の中を自由に遊び回ってほしいです。


よろしければサポートお願いします。いただいたサポートはクライミングセンター運営費に使わせていただきます。