自分のオリジン

みなさん、こんにちは。

note初投稿のhello!です。

何を綴りましょう......と思案したのですが、SNSで自分のキャリアをほとんど語ったことがないので、とりあえずその辺りから「自分語り」をしてみようと思います。

実はもうすぐ転職します。

今や転職なんて珍しくもなんともないですが、私が社会人になった頃は「転職者=失敗者、たまに勝ち組」というレベルの認識だったのです。そんな私がこの春に三度目の転職に挑みました。この顛末はまた今度書くとしまして、転職だけでなく出向も二社経験しましたので、まあ「根無し草」というのが一番ふさわしい呼称かと。自然と「自由人」になりました。どうにでもなれ的、好きにしてくれ的な(笑)。

そんな私がなぜこの社会に(割とうまく)生存し続けていられるのか?

まあ簡単には語れないのですが、おそらく「軸がブレていない」ということに尽きると思います。

キャリアを意識し始めたのは、中学三年から高校一年に上がるくらいのとき。六年一貫校だったので中高エスカレータ式だったのですが、高校に上がるときにふと3年前の中学受験失敗を思い出したんです。

第一希望の国立大学付属高校は受験するもなにもその前の抽選でハズレ......、第二希望のHG高校、まあここは固いと思っていたのですがまさかの不合格。凹みましたね~。塾の友達はほとんどその中学校に進学しましたから。結局、第三志望の中学校に進学したのですが、「まあ当然トップクラスにいるだろう」と完全になめ切って最初の実力テストに臨んだところ学年50位。また凹みました。「俺はこんなもんなのか......」と。まあ、くそ生意気なガキですが確かに相当勉強しましたからね。というのも、姉がその塾では「三羽烏」と呼ばれた超有名人で、親父が「情け」で私が小学校5年生になる時に入塾させてくれたのですが(私の成績は姉に比べてそんなによくなかった......)、姉の七光りかトップクラスへ。これが当たり前というか何と申しますか実力不足が露呈し、六年生を迎える直前に下位のクラスに降格になりました。これがショックでしたね。ある種「ショック療法」だったのかもしれませんが、上位クラスと下位クラスでは先生の陣容も周囲の雰囲気も何もかも違い、上位クラスに戻りたくて戻りたくて仕方がなくなったのです。どうすれば返り咲けるか。もうとにかく勉強して、あの手この手で這い上がるための策略を巡らした結果、数ヶ月で返り咲きを果たすことができました。「もう意地でも落ちない!」と上位クラスでもトップクラスの成績を維持します。そんな中での中学受験失敗。まあ、第三志望に合格しただけよかったと納得すればよいのですが、自分が投じた努力・労力からすると合点がいかなかったんでしょうね。。そして学年50位からスタートしたhello!くんは勉強して挽回するかと思いきや、「もうやーめた」とファッションや音楽の道にはまります。そして、女子高の学園祭があれば「我先に!」と参加します。当時は「マッハ」とか呼ばれてましたね(苦笑......)。

そんなhello!少年が翻意したのは簡単な出来事でした。

ONKYOのオーディオがほしい!

どうしたら買ってもらえるかな、誕生日はもう過ぎちゃったし、うーん・・・と思案している中で、「おっ、学校の成績を上げればOK出るかも」と単純に思ってしまったのです。当時は学年何位くらいの成績だったか忘れましたが母親に「学年50位に入ったら買って」とおねだりし(たぶん無理だと思われたはず(笑))、合意を取り付けたのです。まさに自らニンジンをぶら下げる馬状態。いやあ、別人のように勉強しましたねー。蓋を開けてみたら「学年17位」でした。こんなの中学入学以来初めてのこと。で、肝心なオーディオをもちろん自分の部屋に持っていこうとしたら、姉に「ずるい!!」と言われ、激しい口論の末にリビングでの共有物になってしまったのです、とほほー・・・。。

そんな訳で、「やりゃーできるじゃん!」と自信を深めた私は三年前を振り返った訳です。「HG中学に無事行った連中は何してるかなぁ......、俺より成績が下の奴らもたくさんいたのに。。。」と。まったく性格がイマイチというかかなり悪いのは今も昔も変わらないというか、負けず嫌いなんですよね、素直に負けを認められない、認めたくない。

そして、今度こそ「勝ち」に行くのです。当時、ある有名予備校がちょうど駅前に開設されるところでした。新聞記事でたまたま見かけた私は父親に「ここに行かせてくれ!」と。今思えば、私立の学校に進学させてもらった上に、年齢不相応な服を買い与えてくれたり、ギターを買ってくれたり、オーディオを買ってくれたり、予備校に行かせてくれたり、そんなに裕福な家庭でもなかったにも関わらず、まあ好き放題させてくれた両親にはとても感謝しています。気が付けば、親には絶対に不義理を果たせない、そんな人間に育っていました。

予備校でも入塾早々それなりの好成績というか、ぶっちゃけ全国一位とか取っていたのですが、まあ過去の栄光はほどほどにして、自分の将来を早くも考え始めた訳です。その頃は、SE(システムエンジニア)が脚光を浴び始めた頃でしたかね、私は情報工学に進みたいと思っていました。大学の入学案内も取り寄せ、意中の学科まで決めて勉強に打ち込んでいたのですが、そんな中「湾岸戦争」が勃発したのです。これは衝撃でした。多感な時期にあった私は「テクノロジーが世界を滅ぼす」姿を目の当たりにし、自分の志望先が本当にそこ(=工学)でよいのか再考を迫られ、大いに悩むことになります。そもそも大学に進むべきなのか、進んだとして工学部でよいのか、などなど。予備校に通う途中の交差点で信号待ちしているときも、車に嫌悪感を覚え、建築物に反吐を吐き掛けたくなる、工学とかテクノロジーに対してそれほど極端な嫌悪感を抱いていました。あまり深く考えず理系コースに進んでしまった自分を恨めしくも思いました。

そんな中、「テクノロジーによる失態をテクノロジーでカバーすることができないか?」とふと閃いたのです。マイナスを少しでもゼロへ近づける、できれば少しでもプラスへ!という発想です。それが原爆の災禍から立ち上がった広島の地で生まれ育った私が行き着いた境地でした。そして、大学の入学案内を何度も読み返し、これしかないと思い至ったのが今の地球環境工学、当時の衛生工学でした。

意外とピュアですよね。今考えるとあまりに単純・短絡的な思考なのですが、実はこの性格というか、このときのキャリア選択の指標が「マイオリジン」として今も深く心に刻まれています。

今日は初回なのでこの辺で。随分長く書き過ぎましたね(苦笑......)。

それでは、また続きを書いて参ります。よろしくお願いいたします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?