久徳史-1

05.更に古い、光秀「犬上衆旧き好しみある故」

04.明智光秀公の一番古い出自の文献 にて
『淡海温故録』は、貞享年間(1684-88)
『江侍伝聞録』は、寛文12年(1672)
と、今のところは出自の一番古い伝承とお伝えしました。

因みに、
いわゆる作り話でありながら、後々色々な伝承に登場する『明智軍記』は、江戸時代中期の元禄初から15年(1688年~1702年)で、
質が高いと言われている『近江輿地志略』は、1734年成立なのだそうです。

この『近江輿地志略』の佐目村の所にも、『淡海温故録』に書かれていた事を、ズバッと簡潔に短く紹介してあり、更に「詳しくは、坂本西教寺の所を見てね」と書いてありました。私は『近江輿地志略』なんぞは持っておらず、気になってはいましたが、知合いが該当箇所を送って下さいました。

むむむっ。これは、もしや とても『明智軍記』に書いている出自と似ているのではないかと…。確か、子孫の明智憲三郎氏のブログで ガッツリ否定されていたような気がする。更に、主を殺す者には天罰が! と、主観が入っている所が、チョット引き気味になる。

もちろん、作り物とは言え『明智軍記』に書いてある事が全てウソだという訳ではないだろうけれど、何が正しいのか、こんなに色々伝言ゲームのように夫々の思惑が入り乱れてくると、とても私の手には負えない。本能寺の変から150年後に書かれたのね。今からだと、丁度 明治元年位。んー。

と言う事で、無用な争いはしたくないので(笑) 違う路線から、追ってみる事にしました。

出自とは言えないのですが、地元 多賀町に『久徳史・久徳こぼればなし』という本があります。

『淡海温故録』に
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昔ノ旧キ好身ヲ尋当国ノ先/方共ヲ頼ミケレトモ外ハ一人モ同心セス、多賀新左衛門、久徳六左衛門、阿閉淡路/守、小川土佐守、後藤喜三郎、池田伊予守六人ハ運尽テ同心シ、山崎ノ/一戦ニ没落シ皆零落ニ及ケル
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この中の「久徳六左衛門」、全国の久徳さんのルーツの村の歴史が書いてある本です。

『久徳史・久徳こぼればなし』抜粋
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胡官神社の社家には久徳左京があり、後に明智光秀の仮に加わった郷士の中には多賀新左衛門と共に久徳六郎左衛門尉という人が居る。六郎左衛門尉については、落城の時、「息一人あり、観音寺の証人あり故ありて助かり、尾形(佐々木家)より憐愍ありて(れんびん・なさけをかけられ)養育され成人す。久徳六郎左衛門是也。信長公に仕へて立身す。然るところ明智光秀に犬上衆旧き好しみある故、頼まれて山崎一戦に加はり、没落して日影浪人となり西国にゆく。有馬家中に属す。」と書にある。後に正保年中(1644~1647年)有馬玄蕃頭内、久徳井兵衛よりの書状が霊仙寺にあったらしい。この久徳井兵衛こそ六郎左衛門尉の子孫になるのではなかろうか。
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とある。落城の時というのが1560年3月。誰にやられたかというと、浅井長政。桶狭間の戦いが、丁度 その6月にあります。浅井長政に全滅させられたと思いきや、光秀公の2~3代前に明智家が頼って、佐目に住まわせた「六角氏」に人質ではあるけれど、大切に養育された久徳氏の息子がいて、その息子が明智光秀の昔ノ旧キ好身、犬上衆の「久徳六郎左衛門」という事です。

浅井三姉妹の事を思うと浅井長政って、可哀そうと思っていたのですが、なんの事はない。かなり ひどい事を久徳氏はされています。そればかりではなく、久徳氏の菩提寺、かつ親戚もいた敏満寺(胡官神社)が1563年、長政にごっそり焼かれてしまいます。
その時、間に合わなかったけれど助けに行ったのが、六角氏や多賀大社の神官たちです。やっと、建直しかけたと思ったら、今度は 信長に。

久徳氏は、信長公に仕へて立身すとありますが、なんとなく、光秀公の昔ノ旧キ好身だけで、山崎の合戦に行った訳でもなさそうですね。

そしてその「久徳六郎左衛門」の子孫が、正保年中(1644~1647年)に先祖の事をしたためた手紙があったと書いてあります。
『江侍伝聞録』は、寛文12年(1672)成立なので、もしかしたら、この手紙の存在を見聞きして 書いたのかもしれませんね。

有馬玄蕃頭って誰?とか、霊仙寺ってどこ?とか、まだまだ 興味深いワードが並んでいますが、今日はここまでとします。

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三銀蔵

三銀蔵の片付けから、先祖が「表は坊人、裏が忍者」と言われる多賀大社の今はなき「坊人(ぼうにん)」だとわかり、「明智光秀が近江・多賀の佐目」出身だとてう資料に目が留まり、地元の口伝と一致する事から、通説とは違う角度から調べはじめた事を中心に書いていきます。

明智光秀 多賀出身説

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