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08.出てきた!隠された「明智光秀の記録帳」

佐目集落の歴史を調べる集まりがあった。

現在、佐目の歴史を書き遺してある資料は既に亡くなられいる田畑喜與門氏が書かれた物だけだった。そこには、明智光秀に関する伝承は載っていない上に、江戸時代の記録もほぼない。佐目の歴史は、多賀町誌を見ても殆どなく、各家を回って調べられてた様子もないように思う。

昔の事はお寺に聞けと言われるが、室町、江戸の頃は違うお寺だったので、その当時の事は現在わからない。突撃訪問してもムダという事だ。

そんな状況の中で田畑氏の息子さんが、持ってこられた資料には正直、驚き、歓喜し、胸が締め付けられた。

コピーされた物なので、この資料自体は昭和に作成されたと思われる。

表示のタイトルが、丁寧に表裏、紙が貼ってあったので、剥がしてみられたところ、写真のように「明智光秀の記録帳」と書いてあった。

中身は、古文書のコピー。読んで見ると、今回、明智光秀近江出身説が世に出るきっかけになった「淡海温故録」のようだ。

その他に、原稿用紙に地元で聞いていた光秀公に関する事が書いてあった。
これまで、口伝として当家の「見津氏」から聞いていた内容を補完し、新しい展開を想像出来る内容だった。

明智光秀は織田信長を死に追いやった謀反人、三日天下と言われ、欲をかいて主人を裏切っても、ろくな事にはならないよ!という愚かな家臣としてイメージ付けられてきた。私自身、善悪のジャッジがややこしい戦国や明治維新の歴史は苦手で興味もわかずにいたけれど、勉強してみると、戦国大名って守護大名を謀反で蹴落おとさないとなれないと、当たり前の事に気が付いたり、織田信長もかなりヒドイ事をしていて、この地域の。

明智光秀の御子孫と言われる明智憲三郎氏の著書も読んでみた。

すると、江戸時代はそうでもなかったが、徳川家を倒して天下をとった明治政府が、政略的に豊臣秀吉を軍事的にクローズアップする過程で、明智光秀をやり玉にあげる政策(私の勝手な解釈です)をとった事で、明智光秀の関係者は、かなり酷いイジメにあったという事が書いてあり、今も尚、子孫であると詳らかにしたがらない人もいるとの事だった。

実際、現代でも、今回、明智光秀出身説をPRし始めると、年配の人や評価を気にされる方の中には「謀反人との関わり」を拒む方がおられて驚いた。


話を戻すと、
佐目の歴史を残そうとされていた明治生まれの田畑のじいちゃんは、明智光秀と佐目の関係を知っていながら公表せず、「明智光秀の記録帳」と書かれた表示を隠したのだ。

多賀町誌に、佐目の歴史が少ないのは、たぶん調査に非協力的で、その裏には村の本当の歴史を詳らかに出来ないというフィルターがあったのではないかと思うようになった。

「寝た子を起こすな!」という作戦は成功して、もう私達の世代は全く知らずに育ってきた。
信長公記を読んでみたが、そこには明智光秀と共に字の名前になっている多賀氏や久徳氏の名前が出てくるが、その事も、聞いた事がなかった。多賀大社には、ほぼ最後と思われる光秀公直筆の花押がある禁制があるが、それも、クローズアップされずにきた。秀吉公が母上の病気平癒を願いガッツリ寄進された資金で作った「太鼓橋、太閤橋」と呼ばれる石橋があるが、江戸時代には絵図には、そんな名前で石橋は書いていなかったりする。

「勝てば官軍」と、一言で済ます事も出来るが、寝た子がいた事も知らなかったとはいえ、知ったからには何かを隠す為に不都合な真実にフタをして、それ以外の先祖の歴史に空白を意図的につくるのは、子孫に未来をつなげる生物の存在価値としてあかん事やなと感じてる。時代により評価は変わるし、大河ドラマにも期待している。

五人衆というのは、現在の見津氏の子孫は知らなった。 

そういば、見津氏の隣の家の方も、逃げてきた明智家の誰かを匿った、隠したと聞いているとの事だった。

これまでわかっていた伝承は、2〜3代、明智家が佐目に住んで、出来の良かった息子の十兵衛光秀が朝倉氏に仕える為に一乗谷に行ったというのが、淡海温故録に書いてあり、光秀の光を頂いて「見津」と名字をもらって、十兵衛屋敷と言われる土地の位置を聞いているというのが、今まで詳らかになっていた事。

今回は、逃げてきた光秀公を匿ったという新たな伝承が出てきた事になる。
光秀公の父上を匿ったと聞いている人もいた。

縁もゆかりもない人を匿うわけはない。考えられるのは、

1.十兵衛が育った村に逃げてきた
2.六角氏に頼まれ、逃げてきた十左衛門一家を2〜3代しばらく匿った事が、変形して短く伝わった
3.淡海温故録の著者が、2〜3代集団で逃げてきた明智家を暫く匿ったという話を、若干取り間違えて、井伊家に献上した。数ヶ月の滞在の話が、住んでいた事になったか(笑)

当時に書かれた古文書が見つかった訳ではないので、専門家からは箸にも棒にもならないと一笑されるだろうが、明智という名がついた土地でもなく、何のゆかりもない場所でありながら、十二相神社のすぐ下、古道の関所にも値する特別な場所にある十兵衛屋敷跡と、その周りにある数軒の見津家。家を建てるには悪くない十兵衛屋敷跡だけれど、そこには何も建てて来なかった事実。井伊家に献上するものに、裏とりもせずに提出したとは考えにくい。

家系図などは、後に権威付や仕官する時の履歴に有名人をくっつけて、書いたりしているのでまるっぽは信用出来ないと言われているが、佐目の見津家五人衆が守ったとウソを言って、何のメリットがあることか…。

まだ、旧家の古文書の存在も詳らかになっていない。
田畑のじいちゃんが表に出さなかったように、なんとなく理由はわからないけれど、秘密にしておかなければならないという、空気もあるのかもしれない。

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三銀蔵

三銀蔵の片付けから、先祖が「表は坊人、裏が忍者」と言われる多賀大社の今はなき「坊人(ぼうにん)」だとわかり、「明智光秀が近江・多賀の佐目」出身だとてう資料に目が留まり、地元の口伝と一致する事から、通説とは違う角度から調べはじめた事を中心に書いていきます。

明智光秀 多賀出身説

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