165.ゆるしの先

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こんにちは
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165.ゆるしの先

お金に困っている時に
宝くじが当たったけど奪われたと師匠に報告された
本当なのかはわからないけど一千万だったらしい

ある日にTVを観ていて賽銭泥棒の話をしていた
何度も繰り返して奪いに来ている常習犯がいた

どちらの時も我が家の神様方は
犯人に怒りを表す事も罪に問う事もなかった
賽銭泥棒をしないと生活出来ないのかと
その事を憂いていた

人生は自分だけのモノではない
奪う経験をしたら奪われた経験をする人が出てくる
今生では奪った人はその経験を体験しただけで
次かその次かはわからないけど
巡り巡って奪われる側になる事もある

ただ奪われた人がその事で
どれだけ窮地に立たされるかも
その事でどれだけの悲しみが生まれるのかも
その事も併せて神様は観ています
経験の為でもやっぱり辛い思いをするのを知るのは辛い
悪の役目をしているだけだとはいえ
許せないくらいの存在だって出てくる

それでもその全ての経験を自分を
見つめ直す糧にして貰いたいと思っています

神様がバチをあてるというのは
人の世の中の出来事ではほぼ無いのだと思います
(神様の神域を侵すなどはまた別)

神様方は私達が思う以上に寛大で
ある時にあまりにも食べるのに困って
ある神様(人にちょっと厳しいタイプの方)に
貢物頂戴よ!!って言ったら
「供えるのが当たり前の考えの中で
お前は貰おうというのか?」と呆れられた

呆れられたけど叱られたりなんかはしなかった

色んな事を許してきたと思う
人の世の中の出来事を「経験だから」と
手を出したいのをグッと我慢して見つめてきた

人は何でも神様のせいにして
人は何でも神様を頼りにして
人は何でも神様が居ないと結論付ける

神様はどんな事でも見守るしかなくて
神様はどんな時でも手を出してはいけなくて
神様はどんな時も無力感を感じてしまう

きっと私は同じような事を何度も書いてきた
どれ程伝わっただろうか?
成長を見護る存在で子育てしている
祖父母のような存在で
神様という役目を負わされた責任ばかり追求される人々
それが今いる殆どの神様

想像してみて
自分が死んだ時に何故か自分の神社があって
祀られたからその日から神様だと言われ
確かに生きている時よりも視える事や知れた事は増えて
自分は人だという意識が強いのに
人々はお構いなしに願い事を願いに来る
親身になって応えて出来る限りをしても成長を妨げたり
一方の願いを叶えて誰かが不幸になったり
手を出し過ぎてはいけないと見護る姿勢を貫くと
神様なんて居ないんだと存在否定のそんな日々

それでも人をそして人の無知を我を悪意を許して
ゆるして許して赦して
その先に何があるだろう?
私達は許されたそのお氣持ちに応えられるだけ
成長出来ているだろうか?

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