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【空展】隣の芝生も青い ▽屈ノ丞

 言葉にならない感情を何にぶつけても許される年頃は、当の昔に過ぎた。だからといって、行き場のない感情を放出しないまま、何事もなかったかのように、ただいつもの日常を送れるほど器用でもない。
 誰も解決してくれない。何も解決してくれない。

 気付けば彼らは空を見上げていた。
 今すぐにでも引き剝がしたい塊を抱え、不格好な階段を上り、殺風景な展望台にポツンと佇む二つのベンチに腰を落とし、そして、空を仰ぐ――。

 サキタコヨハルは、展望台へと続く階段を駆け上がった。喉が渇き、独特の痛みを伴いながらも時折生唾で痛みを和らげ、休むことなく段を踏み切った。最後の段まで辿り着いて視界に入るのは、殺風景で人気のない展望台。サキタは足のスピードを緩めることなく展望台の柵を掴み、ただただ叫んだ。短くも声量のある音が空に響いた。
 快晴と言うに相応しいからりとした空を瞳に映し、澄んだ空気を肺に送り込む。心拍がやや落ち着いてきた頃、サキタは後方のベンチへと足を下げ、腰を下ろし掛けた。

「おぉっと」

 明らかに少々慌てた声が背後の直ぐそこから聞こえた。
 持ち前の反射神経も虚しく、腰はそのままベンチの木の感触を捉えた。

「わあ……。セーフ」

 肩が擦れる位置には、見たことのある男の顔があった。

「イッセイ……」
「あ……コヨハル君、僕の名前知ってるんだ」
「――――!」

 穴があったら直ぐにでも入ってしまいたい。なんなら今すぐこのレンガの地面を掘ってしまいたい。
 サキタは頬に留まる紅色を隠すように両手で顔を覆った。
 タイミングを計りこの場から姿を消せなかった自分をぶん殴りたい。嗚呼、神様、今この瞬間だけでもいい。僕にこの場を笑い飛ばせるほどの社交性を与えてくれ。
 ヨシダイッセイは血の気の引いていく顔面を温めるように両手で顔を覆った。

 これが、彼らしか知らない空間の始まりであった。

 隣のベンチで笑いを堪えきれずに漏れ出た音がサキタの鼓膜を刺激する。

「何笑ってるんだ」

 サキタは空を眺めたまま、隣の男に投げかけた。

「いや、ここで初めて会ったときのことを思い出して」
「思い出し笑いは、むっつりスケベな奴だって知ってるか?」
「どうせ僕は、どんなに足掻いてもむっつりどまりだよ」
「何だよそれ」

 ヨシダは、サキタの吐き捨てた問いに答える代わりに、今度はケタケタと笑った。
 ひとしきり満足した後、ヨシダはサキタに「ねえねえ」と気を向かせる。

「今日は、どうした?」
「何が?」
「分かってるくせに。何回この掛け合いするの」
「慣れないんだよ」

 照れ隠しを紛らわすようにサキタは側頭部を掻いた。

「イッセイもだからな」
「ちゃんと言うから。――はい、コヨハル君から」

 暫し頭の中を整理する。今日は風が強いのか、雲を追うのも退屈ではない。サキタはベンチに横になったまま口を開いた。

「人間関係に疲れた」

 ヨシダは「コヨハル君らしいな」と笑った。

「……らしいってなんなんだろうな」

 誰にでも分け隔てなく接する。人見知りと無縁。社交的。誰とでも仲良くなれる。ムードメーカー。呑みの場には必要な存在。
 それが、一男子大学生サキタコヨハルの周りからの評価。
 属するコミュニティも多く、人によって接し方を変えるわけでもない。周りからも慕われ、好かれ上手。恵まれた性質を生まれながらにして持っていた彼に近づき好んで接する者は多い。だが、一定数いるのだ。

 らしくない、と吐き捨て去る人間が――。

「『え? そんな人だったの?』って。そんでがっかりされるの」

 頬を撫でた風が雲の足を速くした。

 誰に対しても人当たりがよい。どんな話題にも乗ってくれる。与えられた評価。その評価を利用する奴がいる。

 ――サキタ君ならやってくれるよね?
 ――とりあえずサキタじゃない?

 どんなことでも笑顔で首を縦に振ってくれる。そんなサキタコヨハルを期待して、押し付ける。そして、一瞬でもサキタコヨハルの顔から笑顔が消えれば、首を横に振ってしまえば、奴らは口を揃えて唱える。

「『らしくない』ってさ」

 サキタは「はっ」とわざとらしく鼻で笑った。

「……今、下唇出してるでしょ」
「え?」
「そして、しかめっ面になってる」
「なんで分かるの?」

 ヨシダは今のサキタが下唇を突き出し、眉間に皺を寄せている顔をしていることが見ずとも分かる。現にサキタはその顔を貼り付けていた。ヨシダは知っているのだ。吐き捨てるように不満を言うとき、サキタは決まってその顔をする。その顔をヨシダはこのベンチで幾度と見てきた。

「……まあ、そんなこと言われたら、そんな顔にもなるよね」
「だろ? らしくない? いや、余計なお世話なんだよ。お前が俺の何を見てきたんだよって」
「はは、ごもっとも」

 結局、みんなが見ているのは、サキタコヨハルの虚像でしかない。みんなはサキタコヨハルに期待しているのではない。サキタコヨハルという虚像を作って、それをただ崩れないように押さえつけているだけなのだ。

「誰も俺の方なんか見てない」
「――状況は簡単には変わらないか」
「変わんないね。……イッセイは?」

 頬を撫でていた風はやみ、雲の足は止まった。

「僕は、自分に嫌気がさした」

 サキタは「イッセイらしいな」と呟いた。
 ヨシダは「そうでしょ」と笑って返した。

「僕は、コヨハル君が羨ましいよ。嫌味とかじゃなくて本当に。どんなにモヤモヤを聞いても、やっぱり羨ましい」

 ヨシダイッセイに特定の友人はいない。誰ともつかず離れず。一人でいることがほとんどだ。一人でいることは気楽で、誰からも期待されない分、無理に自分を曲げることもない。だが、いつもの一人の時間が不意に独りという感覚に焦燥を覚えるのだ。そして、後から追ってくるように恐怖が身体に纏わりつく。

「誰からも期待されないってことは、誰からも必要とされていないってことでもある。そう意味ではないって返されちゃうかもしれないけど、結局、行き着く先はそうなんじゃないかって思う」

 期待されない自分自身の存在価値を見出せず、生きていていいのか不安になる。何のために生きているのか分からなくなる。答えの出ない問いから逃げ出したくて仕方がない。臆病で怖がるだけで何もできない自分自身が憎らしくてたまらない。

「確かに、期待されないのは怖いかも」
「そうでしょ?」
「でもさ、期待されないってことは、ありのままを受け止めてもらっているから、とも思えるんだよ。期待ってまだ目に見えていないものに対してする気がして。あるかどうかも分からない不確かなものに縋りついてるんじゃないかって」

 雲の足を速める風が再び二人の頬を撫でた。

「俺だったら、自分を見てくれているからこそ期待しない。そいつはそいつ以上でもそいつ以下でもない。幻想を抱いていない……って。んー、何言ってるか分かんないよな」
「いや、分かるよ。……そっか。ありがとう。――でもなあ」

 隣の芝生は青く見えて仕方がない。

 どんなに周りに青いと評価をされても、自分の芝生から目を離してしまえば、目に映るのは、自分の芝生を灰色に変えてしまうほどの鮮やかな青なのだ。

「あぁあ、解決すればいいのに。コヨハル君の話を聞いて、なるほど、一件落着って」
「そんな直ぐにできたらここに来てないだろ」
「……そうだね。ここに来る意味はなくなるね」

 空は今日も青く、残酷だ。
 自分の胸の内を映し出してくれるわけでもない。同調などしてくれない。慰めてなどしてくれない。
 それでも、空を眺めてしまう。
 別に、自分の悩みがちっぽけに思うことはない。最初は、それを求めて上を見上げてみた。しかし、青々とした空を見たところで、悩みが消えるわけでもない。小さくなどなるものか。そんなのできたら苦労しない。
 それでも、空を眺めてしまう。それは、何故なのだろうか。

 二人は今日もベンチに寝転んで、空を眺める。
 晴れの日は眩しいと文句を垂れ流しながら目を細め、曇りの日は程よい涼しさを纏って、雲を目で追う。雨の日は服を濡らしながら、ぼやけた視界で灰色を眺める。
 二人向き合い言葉を交わすわけでもなく。
 独り言なのか独り言じゃないのか分からない言葉を空に向かって連ねる。
 この展望台でしか交わさない。誰も知らない二人だけの空間。

 その空間は、二人がこの展望台で出会って二度目の夏を迎える前に崩れた。

 ヨシダはゆらりゆらりと不格好な階段を上った。雨に濡れて不安定な一段一段をゆっくりと上り、殺風景な展望台が視界に広がる。いつもと一つだけ違った。

〈展望台解体のため、立ち入り禁止〉

 傘に打ち付けられる雨粒一つ一つがゲラゲラと笑って聞こえた。

「まだ、何も変わってない。誰もいない。入りなよ」

 ベンチを覗くと、ベンチとほぼ同化しているサキタが寝転んでいた。
 ヨシダは傘を閉じ、サキタと同じようにベンチと同化し始めた。

 二人の耳には雨音しか聞こえない。雨粒がお邪魔しないように目を閉じる。

「今日が最後だな」
「そうなるよね」
「急だな」
「本当にね。……今日はどうした?」
「いつも通りだよ」
「そっか」
「それよりも今の方が衝撃強くて」
「まあ、そうだよね」

 虚しい最後だ。
 そう思わざるを得なかった。
 なんとなく、せめて自分がここに来る間は、この空間がなくなることはないだろうと、なんの根拠もなく考えていた。
 目の前で風船でも破裂させられた気分だ。

「良い場所だったんだけどな」
「………」
「最後の日が、雨って。別に雨じゃなくてもいいのにね」
「……そうだな」

 目を開ける。ぼやけてもう何が何だか分からない。

 雨で胸の中のモヤモヤ全て流れてしまえばいいのに。
 しかし、現実そんな雨は優しくない。
 それでも、もしかしたらと縋ってしまう自分に少しの苛立ちを覚える。

「また、一緒に空見ることがあればよろしくね」
「なんだか、むずがゆいな」
「うん、言っててちょっとくすぐったい」

 ヨシダは自分の肩を抱きかかえた。

「でも、ここ以外で話す事なんてないだろうし」
「………」

 最後の日は、あまり何も話さなかった。ただ、この空間にいたかった。
 雨が止む気配はなかった。

 何を感じ取ってかは分からないが、二人揃ってベンチからの同化を解き、何の役割も果たさない傘に手を伸ばした。
 
「こういう時に、パッとやんで、カラッと晴れたらドラマっぽいのにさ」
「いいねえ」
「現実そんな上手くはいかないよな」
「あの世界はフィクションだから」

 重たくなった服を抱きかかえ、二人肩を並べて階段を下りていく。
 振り返りはしない。
 振り返っても意味のないことはもう当の昔に知っている。

「……僕は、たぶん、これからもコヨハル君のこと、羨ましいって思うよ」
「そっか。……俺もたぶん、思うよ。変わらず」
「コヨハル君にそう思われるのは、気分がいい」
「俺も……いや、嘘。ちょっと悔しい」
「僕は贅沢だな」
「贅沢か。ありがたく思えよ」
「はは」

 階段を下りれば、二人は背を向ける。もう、向き合うことはない気がする。いつものように手を振り、相変わらず傘も差さずに背を向け合った。

 濡れたアスファルトに光が差す。雨水の膜に揺らめく光が、二人の目に青を映した。

「……遅いんだよ」
「うん。遅い」

 家に着くまでに服は渇くだろうか。
 渇かなければそれでいい。
 どうせ、直ぐに洗濯して干すだけだ。

 サキタコヨハルは今日もベランダから空を見上げる。展望台での空を見慣れていると、人工物が集中を切らす。堪りかねて、家を出た。散歩でもしながら、空を見上げるのにいい場所でも探そう。
 いつもは気に掛けないものが歩けば気になったりする。新しくできたのかと調べれば、そこは随分前からあるものであったり。案外、何も見ていないものだ。

「お」

 青春を象徴しそうな河川敷。見つけた階段から下に降りて見渡す。
 人がいてもおかしくない時間帯のはずなのに、誰もいない。
 そこに寂しそうに佇む寝転ぶにはちょうど良さそうなベンチが二つ並んでいた。
 誰もいないことをいいことに、ベンチへと横になる。
 目に映る空は、あともう少しで赤に色を染めそうだ。
 大きく深呼吸をする。

「……イッセイだったら、なんて言うんだろうな」

 どんなに呟こうとも返答が帰ってくるはずなどない。恥ずかしさを紛らわすように側頭部を掻いた。

 ヨシダイッセイは階段を駆け下りた。喉が渇き、独特の痛みを伴いながらも時折生唾で痛みを和らげ、休むことなく段を踏みしめた。最後の段まで下りきって視界に入るのは、殺風景で人気のない河川敷。ヨシダは足のスピードを緩めることなく川のギリギリまで走り切り、空を仰ぎ、そして、止まって残った余分な塊を口からただただ吐き出した。短くも声量のある音が空に響いた。
 絵にかいたような夕暮れ空を瞳に映し、澄んだ空気を肺に送り込む。心拍がやや落ち着いて来た頃、ヨシダは後方のベンチへと足を下げ、腰を下ろし掛けた。

「えっ」

 明らかに少々慌てた声が背後の直ぐそこから聞こえた。
 自信のない反射神経が物を言わすことなどなく、腰はそのままベンチの木の感触を捉えた。

「あっ……ぶね」

 肩が擦れる位置には、見たことのある男の顔があった。

「イッセイ……」
「あはは、再現だとしても、恥ずかしいね」

 一気に熱を帯びる頬を冷ややかな風が冷ました。

「今日は、どうした?」

 ヨシダのいつもの言葉は、代わりにサキタが言ってやった。

END

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