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これ以上、オリンピックを嫌いにならないために出来ること。

 東京オリンピックが、2021年、今年の夏に開催できると思っている人は、関係者を含めて、本当は、どれくらいいるのだろう。

オリンピックに関する話

 個人的には、中止にして欲しいのは、もちろん、コロナ禍にあるからで、オリンピックにこれだけこだわらなかったら、少なくとも、コロナで亡くなる人を少しでも減らせたのではないか、と今でも思っているからだ。

 それは、根拠の薄い、「情弱」の素人が考えていることかもしれない。だけど、ふくらみ続けるオリンピックの予算の規模や、ある県知事が、“聖火ランナーの費用をコロナ対策に充てたい”といった真っ当な見方に対して、政府与党から、黙ってろ、と言わんばかりの声がある、といった話を聞くと、オリンピックに関する話題が、今でも、これだけ嫌悪感ばかりを生じさせることに、どこかうんざりしている。

 そして、感染症による死亡者数が増えている現在では、医療崩壊と言われる状態をなんとかするのが、最優先されることだと思うのに、それよりも「GoToキャンペーン」というような、感染拡大予防と逆行するような政策を、まだ進めようとしている。

 その理由の一つが、オリンピックを開催するため、といった話も聞いたことがある。

 それがどこまで事実なのかもよく分からないものの、この1年のオリンピック関係者の言動を聞いていると、本当なのかもしれない、と思い、ふと、オリンピックを嫌いになりそうになる。

オリンピックの印象

 オリンピックが、疑いようもなく、特別な時代は確かにあった。

 冬季オリンピックの、スキージャンプ競技で日本の選手が遠くへ飛び続けメダルまで獲得した時は、視聴者として明らかに興奮していた。
 28年ぶりにサッカーの日本代表がオリンピック出場を決めた時は、大げさでなく夢のような気持ちがした。
 世界最速のランナーは、テレビ画面で見ていても、輝かしい存在だった。
 普段はそれほど目に触れない競技でも、当然ながら、凄いプレーヤーは、とんでもなく凄いことを4年ごとに学ぶこともできた。


 オリンピックに出場した人も、紛れもなく特別な存在だった。

 例えば運動部に所属していたら、県大会の上に全国大会があり、そこでプレーしている人でも、地元では伝説に近いのに、さらに世界で戦う、ということを具体的に示してくれているのが、オリンピックという舞台だった。

 そこに出場した人は、そして、そのオリンピックでの経験での言葉は、それが過去のことであっても、特別な響きがあったことは、昔、ライターとしてオリンピアンの人たちに取材をするたびに感じていた。


 時代が進み、サッカーでいえばワールドカップという存在が身近になったり、陸上の世界選手権が定着したりすると、オリンピックの特別さというものが、少し薄れていったのも事実だった。

 アマチュアリズムというものが重視され、そのことでまた違う価値をまとっていたのが、いつの間にか、アマチュアであるかどうかは不問になって、オリンピックは違うものになっていったのも事実だった。


 それでも、4年に1度のオリンピックの輝きは、まだそんなに弱くなっていないと、つい何年か前まで思えていたのは、個人的にも、これまでのオリンピックの印象の特別さの蓄積があったせいかもしれない。


再びの東京オリンピック

 それでも、東京オリンピックを再び、というような熱意は、個人的にはほとんどなかった。あの1964年の東京オリンピックは、まだこれから、という国の状況だったから意味が大きかったのだと思うし、当時は、今ほどオリンピックが巨大な規模ではなかったはずで、だからこそ、成立したはずだと思っていたせいもある。

 そして、2020年のオリンピック招致で、最も引っかかったのが、「アンダーコントロール」という言葉だった。それは端的にいえば、限りなく嘘だと思っていたからだったし、そのころは、オリンピックを招致する資格が、日本という国になかったと感じていたせいだった。

 私はいつからかこの「アンダーコントロール」という言葉こそが今の福島を苦しめ続けている元凶ではないかーもっと踏み込んで言えば、今の福島の現状は「アンダーコントロール」という言葉によってコントロールされているのではないかーと考えるようになった。

 福島の現地で意欲的な取材を続けている三浦英之記者が、こうしたことを書いている。あまりこの記者の方の成果に寄りかかりすぎても、返って迷惑だとも思うのだけれど、やはりそうなのか、という気持ちにはなる。


 さらには、ここ数年、2020年のオリンピック開催予定が近づいてくると、招致自体に賄賂が絡んでいる、という報道が出た。酷暑をどうするのか?という議論で、打ち水や頭にかぶる日傘というアイデアが真面目に検討された。東京湾の水質を改善するためにアサリを使うということまであった。少し冷静に考えたら、不正だけでなく、とてもおかしな話ばかりが噴出し、マラソンはいつの間にか札幌で行われることになった。

 元々、夏の東京はアジアの暑さに包まれるはずだし、前回の1964年のオリンピックは10月に行われているのだから、アスリートファーストであれば、スポーツの秋に行うのがベストなはずだったけれど、どうして夏なのか、という理由が、どうやらアメリカのテレビ放送に関係してくるからで、要するに「商業主義」が優先されているようだった。

 2020年が近づくほど、オリンピックはやめたほうがいいんじゃないか、という気持ちになっていて、そうしたらコロナ禍になってしまった。

オリンピック延期

 オリンピック延期が決まるまでは、その直前まで、絶対に延期はない、と言い続けた関係者はいたし、2020年の3月に入って、コロナ禍が本格的に広まっているから、延期のことを口にするのもごく普通の感覚だと思えたのに、そうした発言まで非難をされることも知ると、オリンピック運営に関しては、もしかしたら言論の自由が少ないのかもしれないとも思えた。

 そして、延期が決まったら、当初は、完全な形でのオリンピック、と言っていたはずなのに、2021年になったら、無観客という言葉まで出るようになった。

 さらには、浅はかなのかもしれないが、個人的には、どこか信用していたIOCという組織も、森元首相の「女性蔑視発言」に対して、当初は問題ない、と言っていたことに、すでにオリンピック精神みたいなものは、消滅しかかっているのかもしれない、と思った。

 オリンピックの運営に関わる人たちが、とにかく開催して、観客がいなくても放映権料が入れば、というような姿勢ではないか、という疑念が、こんなに情報に弱い人間にも届くようになっている。それは陰謀論とは違って、どうやらかなり本当のことらしく、日本の組織だけでなく、オリンピック全体が、もしかしたら、すでに想像以上におかしなことになっているのではないか。コロナ禍による混乱によって、それがむき出しになっただけなのかもしれない。そう思うと、さらに、オリンピックそのものへの嫌悪感につながりそうだった。

 こうした強引で、どこか粗い方法は、家族に対して日常的には目を向けないのに、年に1度のハワイ旅行で、不満をなくせると信じていたような、「昭和オヤジ」の発想に似ているようにも思えた。


 それに今になって、オリンピックを中止にしたら、ひどい損害、という言説も見るようになったけれど、それは、違うイベントだけど、1995年の都市博中止の前にもよく見た光景と似ていた。ここで中止だと莫大な違約金を払わなくてはいけない、ともっともらしいことが言われたが、実際に当時の青島幸男知事が中止を決めたら、脅しのように言われた金額よりは、はるかに少なかったことも思い出す。

 だから、今回のオリンピック開催を巡る事態も、未曾有の出来事とはいえ、そして、契約内容のことはもちろん知らないとはいえ、ただひたすらオリンピック中止は莫大な損害という言説を、それほど素直に信じることはできない。


 こうした状況の中で、私が知らないだけかもしれないが、オリンピックの中心に存在するはずのアスリートの声はあまり聞こえてこなかった。わきまえる、という言葉が象徴するように、言いたくても言えないかもしれなかった。

 世界でトップを争うようなアスリートたちの特別さは、オリンピックがどうであろうと、変わらないもののはずだったけれど、オリンピックが嫌いになったら、その特別感自体まで濁ってしまうような気もして、勝手な個人的な思いこみに過ぎないのだけど、それは、やっぱり嫌だった。

商業主義の始まりと継続

 オリンピックに対して、私のようなただの視聴者だと、そして、昔のアマチュアリズムのオリンピックのイメージが少し残っていると、「商業主義」を敵視しそうになるが、その本格的な始まりが1984年のロサンゼルスオリンピックだったし、オリンピックを救う方法論でもあったことを、恥ずかしながら、この記事で初めて知った。

 ユベロス氏は「税金を一銭も使うことなくロス五輪を黒字化させた」という実績を持っています。

 この記事は、現在の、というよりも、これまでのオリンピックをめぐる日本社会の問題点などを経営者の観点から冷静に説得力を持って語られているので、部分だけを引用するのも難しい。

 それでも商業主義を導入したロサンゼルスオリンピックの功績が、税金を使わなかった、という点があったのを、もしかしたら当時聞いていたのかもしれないけれど、そのことを、この記事によって、改めて思い起こさせてくれて、同時に、その後は、その長所を忘れるような肥大化をしてきたのではないか、と考えられるようになった。

 それまでろくに知らなくて、急にほめること自体も恥ずかしいが、こうした経営者が日本に存在すること自体が、希望につながる気はした。できたら、迷惑をかけてしまうだろうと思いつつ、こうした人物が、オリンピックの組織運営に関わってくれたら、と思うくらいだった。


(この記事を執筆している安田氏は、30年くらい前の日本の大学のアメリカンフットボール界の流れを変えるきっかけを作ったプレーヤーの一人でもある。そのころ、安田氏に直接取材はしていないが、そのスポーツについて雑誌に書く仕事をしていたから、安田氏の所属していた法政大学のチームの印象は強かった。その後、大学の時のチームメイトと実業界に乗り出して、大成功していたのは遠くから知っていたものの、ここまで成熟した立派な人物になっていることは分かっていなかった。勝手な思い込みだけど、とても嬉しい気持ちはある)。

 

 現在まで続くオリンピックの歴史の中で、ロサンゼルスオリンピック以来、オリンピックという存在自体が、資本主義社会においても「商業主義」が成り立つほどの価値があることに、気がつかれてしまった、という時間でもあると思った。

 だから、今後、多少の修正は行われたとしても、資本主義は走り出すと止まらないから、肝心のスポーツを置き去りにして、商業主義だけが暴走してしまうことは、もう止めるのは無理な気がする。

 もしも、今の状況で、強引に無観客でも東京でオリンピックを開催するようなことがあれば、それこそが、オリンピックの終わりとして歴史に記録されそうだし、それならば、中止にした上で、終わった方がいいと個人的には思っていいるが、それは私だけでなく、かなり大勢の人も同意してくれるように感じている。

オリンピックの終わり

 古代オリンピックがあり、なくなり、近代オリンピックが始まったのは、19世紀の終わりだった。だから、すでに100年以上の歴史があり、ロサンゼルスオリンピックが「商業化」の最初と考えても、そこからでも40年ほどがたとうとしている。


 どんなものにも寿命はあるといわれている。

 近代オリンピックは、基本的には、いわゆる発展途上国(1964年の日本のように)が、国際的にも認められるようなイベントとしての意味も大きかったけれど、商業主義が行きすぎることによって、その負担が大きくなりすぎ、その意味合いも終わったと思う。

 平和を維持した上で、だから参加することに意義がある、といったイベントであったかもしれないけれど、東西冷戦の頃から、その意味も形だけになっていたのかもしれない。モスクワオリンピック、ロサンゼルスオリンピックによって、政治的な事情が、むき出しになったように思えた。

 そして、今回のコロナ禍による混乱で、商業主義の弊害なども含めて、オリンピックの問題点の、ほぼ全てが露わになってしまっただけなのかもしれず、それが、近代オリンピックそのものの寿命が迫っていることを表しているようにも感じる。

 古代オリンピックがあり、近代オリンピックが始まり、それが今も続いているのだから、いったん終わった方がいいように思う。今回の中止という選択をしたことで、近代オリンピックが終わるのならば、人類のために終わった方がいいと個人的には、思う。

 本当にこのままだと、オリンピックが嫌いになってしまいそうな状況にあるのは間違いない。そうならないために、これからのオリンピックを考え始めることが、個人的には、これ以上、オリンピックが嫌いにならないために出来ることだった。

 近代オリンピックは終わらせ、次は、現代オリンピックとして、21世紀のスポーツの祭典として、完全に新しいイベントとして、再生した方がいいと思っている。

オリンピックの理不尽さ

 元々、オリンピックは、アスリートの視点から考えても理不尽なことがあるはずだった。

 まず、4年に1度、というのは、そこでメダルを取るほどの活躍をするには、かなり運が作用する、ということだ。

 世界でトップを争うほどのアスリートであっても、本当のピークの時期は、それほど長いとは考えにくい。特に陸上のように純粋にタイムを争うような競技では、年齢による衰えが、直接出やすいわけだから、自分のアスリートのピークが4年に1度のオリンピックに合うことは、努力や才能だけでなく、運の要素が大きいように思う。

 だから、アスリートにとっては、4年に1度ではなく、ほとんどの選手にとっては、一生に1度のオリンピックのはずで、だから、今回のコロナ禍での延期なども、それで一生に1度のチャンスを逃してしまった選手も少なくないと思う。


 それは、比べることではないかもしれないが、学校の卒業年度によって、就職状況が大きく違ってくる日本の社会と似ているようにも感じる。


 さらには、1980年のモスクワ大会に日本は出場をボイコットしたように、政治的なものに巻き込まれる理不尽さもある。


年に1度の機会

 だから、当然かもしれないけれど、世界的規模の大会は、オリンピックよりももっと頻繁に開催されているのだろうと思う。それが競技によっては、商業的にもプラスだから、という理由もあるのだろうけど、そのことで、年に1回のチャンスがあれば、それは純粋な戦いとしてみれば、アスリートにとってフェアだとも言える。

 例えば、サッカーのワールドカップは4年に1度だが、少なくとも今年度までは、クラブチームの世界一を決める大会は毎年行われてきた。

 1年に1度の機会があれば、実力のあるプレーヤーは、その実力に見あった評価と称賛だけではなく、その競技の注目度によっては十分な報酬にも恵まれるはずだし、そういう機会があれば、オリンピックの必要性は下がると思う。

現代オリンピックの思想を考える

 最初に考えるべきは、オリンピックを健全に運営するために、縁を切るのは、商業主義、というよりは、広告のはずだ。それは、批評家/哲学者の東浩紀氏のこんな言葉に象徴されていると思う。

 出版やテレビの世界は、広告に支配されると、やりたいことができなくなることを知っていました。その知恵が忘れられている。IT革命によって、結局はみんなまた広告メディアに戻ってしまった。広告への警戒心を取り戻して、広告がなくてもやっていけるメディアをあらためてつくるべき時期だと思います。

 これは、メディアの話でもあるが、もしも、オリンピックを生まれ変わらせるためには、このくらいのことは考えないと、22世紀まで続くイベントにするのは難しい。

現代オリンピックの運営

 そのためには運営費用をどう抑えるか。

 一つは、今もどこかで議論されていると思うが、開催地の固定化だと思う。

 夏季は、アテネ。
 冬季は、シャモニー・モンブラン。

(どちらも近代オリンピック第1回の開催地)

 さらに運営費をどうするか。

 それは、世界中の、基本的には個人から小さくても寄付を集めること。それこそ、とても大規模なクラウドファンディングは本当に不可能だろうか。

 その上で、放送権料も、その主体性をオリンピックの運営側が握れるようにするには、どうしたらいいのだろうか。資金が集まりにくい競技などは、極端な場合、配信で対応することは無理だろうか。

 このあたりの技術的なことは、私などは全く無知なのだけど、今の時代でも、広告から切り離して行うことは可能だと思う。

 運営の組織も男女比は半々。元アスリートと、それ以外の人が半々。そして、その会議も全て配信などをして、透明性を高める。その上で、運営に関わった人たちに荷重な負担がかからないような十分な工夫も怠らない。

 世界中からアスリートが集まり、その時の世界一を決める。

 それがより純粋な形で行えるように、広告と切り離すことによって、本当のアスリートファーストを実現させる。
 
 そうした透明性の高い健全な運営も含めて、「現代オリンピック」の理念であり、目標にしていく。

 

 ただ報酬面では、これまでと比べてかなり下がってしまう可能性もある。

 だから、他の大会やイベントでは、商業主義を活用し、それによって、才能のあるアスリートにはふさわしい報酬がある環境が継続してもいいが、「現代オリンピック」はそこから、どれだけ自由になるのか。それが実現できれば、そこに参加すること自体が、「現代オリンピック」への思想に賛意を表すことにもなるから、再び、参加することに意義がある、を取り戻せる可能性もある。

東京オリンピック中止の場合のアスリート

 そして、問題の一つは、今回、中止になったとして、その時の世界中のアスリートに、どのように関わってもらえばいいのか、ということだと思う。

 これまでにない事態に直面して、代表としても戦えないとしたら、だけど、国内の選考会だけでもできるとしたら、今年(2021年)、それぞれの国内の代表を決める大会をして、そして、コロナ禍のあと、「現代オリンピック」が行われた時、その第1回は、その時の代表たちと同様に、今回の2021年代表も優先的に招待すべきだと思う。その「2021年代表アスリート」たちは、コロナに負けなかった人たちとして、称賛される存在でもあることを、世界中に伝えることもできる。

 そのことで、これまでと同じではないけれど、名誉を重視するアスリートに、少しでも報いることはできないだろうか。それも含めての「現代オリンピック」にならないだろうか。

オリンピック新生

 ここまで、とても未熟な思考を元にしている自覚もあるし、実現可能性も限りなく低いのも分かってはいるけれど、もしも、こうした「現代オリンピック」が開始されることがあったら、また以前のような、オリンピックの特別な輝きは復活すると思う。

 それは、オリンピック再生というよりは、新しく生まれ変わるから「新生」といった方がいい、とさらに思った。


 同時に、少なくとも、「オリンピック新生」のことを考えている間は、このところのオリンピックにまつわる様々な出来事への嫌悪感や、オリンピックを嫌いになりそうな感覚は、忘れていたのも事実だった。




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