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「当たり前」の違い

海外青年協力隊としてアフリカに派遣されている友人の話を聞いた。
日本とは「当たり前」の差がありすぎて、毎日が人生のネタだと笑いながら言う。
・シャワーなんてない。井戸水だけ。それも現地人はボウフラの湧いた水を使うのが普通。
・大きなけがをすれば飛行機にのって都市まで向かわないといけない
・狂犬病等にかかるリスクと隣り合わせで、自分の身は自分で守らないといけない
・情報が少なくとりに行く手段も知らない人がほとんど
・僻地にいるからこそ、日本の経済等とれる情報はすべて収集する
・寝る、食べる以外することがなく、興味があるのは恋愛とお金
etc・・・例を挙げだすと、キリがないほど。

そんな海外の事情はなんとなく知っているものの、実際に身近な友人がリアルタイムに体験している生の声は、想像をはるかに超えるものだった。

と同時に、この恵まれた環境(=衣食住最低限の生活を送ることができて、自分の意思で挑戦できる)にいて、自分は日々命を繋ぐためくらいのことしか出来ていない。「目の前だけでなく将来のことも考えないと」なんて、人間がもつ根源の欲望(生きること、子孫を残すこと)だけが渦巻いている世界で戦っている彼に言えた言葉じゃない。

「日本に帰ってからどうしようか」と若干心配していたけれど、今はもう目の前に全力投球して良いのだ。

「当たり前」への「慣れ」はとても怖いものだ。感情がなくなるから。

彼の挑戦に鳥肌が立った夜、でも空は繋がっていることに少しホッとする。
「今しかできないこと」「私だからできること」
きっと何かある。未来を描きながら、今日を全力で生ききる。


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