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生きるということは、

芸能界で訃報が続いている。

こんなに遠くに住んでいても、その衝撃のようなものは感じてしまう。

あまり表立って言われないが、昔から日本は自死が多い。

私も親族を自死で失っている。
一人は5歳下の従弟で彼は17歳の夏に突然逝ってしまった。
親しい間柄ではなかったけれど、1999年のその日のことは強烈な記憶として残っている。

彼の死は、少なからず私の人への接し方に影響を与えた。

身近な人を注意して見ること、自分の方から関わっていくこと、“気にしているよ”とちゃんと伝わるように接すること。

そして人は、「何も言わずある日突然逝ってしまう事がある」ということも学んだ。

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私事だが、産後うつが治らなくて、およそ5年間のその時期、「生きていても意味がないんじゃないか」という思いが絶えずあった。
そしてうつが治ったら今度は元夫の不倫で、かなり明確に“死にたい”と思っていた時期があった。

幼い子を残して自殺したら、彼等のこれからの人生にどのくらい暗い影を落とすかを考えて、辛うじて
「それだけはダメだな」と思っていた。

うつでは無かったと思うが、かなり危ない精神状態だったと思う。

車を運転中、ハンドルを握れば「事故に巻き込まれないか...」と真剣に願ったりしていた。
ある時、ドイツの高速道路を逆走する車に衝突されて、30代のママとママ友が亡くなったというニュースを聞いて、「自分だったらよかったのに」と反射的に思ってしまった。

不可避な事故で死ねば、周囲の人に“運悪く気の毒なひと”と思われて死ねるから...と。
めちゃくちゃな思考だけど、そういう事を普通に思っていた。

内面はこうだったが、たぶん身近にいる人や親しくしている人にも気がつかれなかったと思う。
そういう感情は、はうまく隠されることが多いと体験的に感じる。

あまりにもドロドロした感情だから、表に出ないように必死で蓋をして人目に晒さないようにするからかもしれない。
その蓋がある瞬間、本人も予期せぬ時に凄い勢いで開いてしまうことがあるのではないか...

それが「魔が差す」という奴かも知れない。

疫病禍が長く続いていることや、季節柄や、小さなキッカケで、人知れず心に苦しみを抱えている人にふっと魔が差す瞬間あるのかもしれない。
そしてそういう一瞬には、残される人たちのことはもはや考えられないのだと思う。

そういう「魔」は誰にでも訪れる可能性がある筈だ。

心の病も同じく、自分は大丈夫だろう...と思っていても気がついたら、絡め取られて身動きできなくなっている。
その事に一番自分が驚くし、恥いって隠してしまいたくなる。


決して他人事じゃないし、そういう可能性、危険性を現代人は抱えていると、普通に話題に出せる環境になるべきだと強く思う。


普段自分が他者を助ける側で、勇気付けたり、笑わせたりしている人は特に、そういう心の脆い部分を出せないのは当然なのかもしれない。
マッチョだって剽軽者ひょうきんものだって、弱さや脆さや傷つきやすさを出せて、受け止めて理解される事が当たり前の社会になって欲しい。

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養老孟司さんが話されているが、人間は花鳥風月触れないとダメらしい。

ウチには三匹の猫がいるが、人間以外の哺乳類が家庭にいるということは思っている以上に影響が大きいのではないか...と思う。

彼らの気配に心慰められることが多い。

眉間に皺が寄っていても、ふっと厭世的な気持ちになっても、我関せずで自由に過ごしている彼等が視界に入ると肩の力が抜ける。

自分とは全く異なる時間軸で生きるものがいることが、気が逸れる瞬間になっている。

気を逸らす」「気を紛らわす
ということは凄く大切な要素だ。

都会暮らしのリスクは、
「存在の大多数が人間で、人間の作ったものしか無い」ことではないかと思う。

なるべく自然の中に入っていき、動植物の気配に耳を澄ませること。
触れること。香りを嗅ぐこと。


自分が纏う以外の空気を吸い込むことで、体の奥深くに潜む“魔”が薄まってくれる気がする。

柔らかな光に包まれて眠る
この世を信頼し委ねることを知っているように


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3年前から定期的にカウンセリングを受けていた。

日本語で話せる人を探し、デュッセルドルフに週一で通っていた時期もあった。
疫病禍になったこともあり、別のカウンセラーとオンラインでカウンセリングを数回受けた。

画面越しで意味があるのだろうか?と懐疑的な気持ちがあっという間に無くなるほど、とても有意義なセッションになった。

彼女はコスタリカに住む日本人女性で、リモートながら出逢えて良かったと思う人だ、いや、リモートだから出逢えた人だったのだろう。

彼女から教えて貰った歌が忘れられない。
時々、YouTubeで聴いている。

この歌を初めて聴いた時、心が震えた。


自身も夫からのDVや愛娘との別離など、激動の人生を歩んだニーナ・シモンが歌う、普遍的なことが胸を打つ。

たくさんのものを“無い”という、けれども当たり前と思うものを“私は持っている”という。

それは自分の肉体であり、心であり魂。

「だから生きている」と高らかに歌う、
そこに人間の尊厳が在るように思えてならない。

花の中に完璧な宇宙の美しさが有る気がして、
ひとは一輪の花の美しさに、なかなか及ばないなぁと感じる

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人間が愛すべき存在なのは、その奥の脆く弱い部分ゆえなのかも知れない。

弱さも脆さも醜さも、それが人というものなら受け止め合って迷惑をかけ合える、それでイイじゃないか...と思う。

一つ前の記事に「夫達を赦したい」と書いた。
私がそう思うのは、自分を許したいと思っているから。

自分を許せる人はきっと、他者も許せるのだろう...


赦したいし、赦されたいと願っている






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