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しなびたライムをデッサンしたいと思う。

 十月に読んだ本は、再読ばかりだった。本棚にもう何年もある本、何度も読み返した本、そういう本を読んでいた。
 そのうちの一冊が江國香織の『ウエハースの椅子』だ。江國香織の本はたくさん持っているし、読んでいるし、好きなのだけれど、一番好きな小説はもしかしたらこの『ウエハースの椅子』ではないかと、今回読んでみて思った。
 クイズ番組で時折、小説の冒頭文だけで、何の小説か答える、ということがある。もしこの小説の冒頭文が問題に出てきたら、私は多分、答えることができる。

 かつて、私は子供で、子供というものがおそらくみんなそうであるように、絶望していた。絶望は永遠の状態として、ただそこにあった。そもそものはじめから。

 この小説は、淡々と絶望を描いている。絶望というと、人生のどん底、みたいに思う人もいると思うけれど、そうではなく、当たり前の存在としてそこにあるものとして。そのことに、安らかさをおぼえる。

 簡単に言ってしまえば、主人公は妻子を持った男を愛しているのだけれど、私はこの二人のやりとりが好きだ。
「昔話をしてもいい?」と主人公がいうと男は
「して」とこたえる。
「して」!!!!!
 何度も読んでいるはずなのに、私はその台詞を見てびっくりした。「して」だって!

 淡々と、現実と昔話とが層になりながら一冊になっている。ちいさな、ささやかな当たり前の日常、そしてそこにある当たり前の絶望とが、まるで日記のような覚書のような軽やかさで書かれている。
 短い章になっているのだけれど、私は特に、「フランスキャラメルのこと」ではじまる41章が好きだ。たった一ページだけの章。それだけで、絶望を表現してしまっている。それを繰り返して、繰り返して、ウエハースの椅子が出来上がっている。

 江國香織の小説を読むと、私はいつも憧れてしまう。主人公たちの生活に。私も雨の日に公営プールへ出かけたいと思うし、夜明けにマンションの中庭でのら猫のノミをとってやりたいと思うし、しなびたライムをデッサンしたいと思う。バターと辛子と厚切りハムのサンドイッチをつくって、レタスはちぎって別の皿に入れてそのまま食べたいと思う。


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