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#Day086 日々の生きづらさ〜もうどうにでもなれって思うとき〜

「もうどうにでもなれ」
そう思って、机に突っ伏していると、頭をおいた腕の血管の動きから、心臓が脈打っているのが分かる。

それを感じた夜、結局世の中は「どうにでもならず」、知らぬ顔して朝日が昇ってくることを悟るのである。

なんでそんなことを思うのだろうか、と自問してみると、自分の無力さや自信のなさに帰結するような気がする。

例えば創作。
僕は何年も前からイラストを発信しているし、noteを中心に文章も発信している。

だが、しかしそれらは決して思った通りには「伸びない」。

一方で、フォローした頃は自分の方がフォロワーも多かったクリエイターたちが、グングンとフォロワー数を伸ばしていき、作品も注目されるようになると、正直とても歯痒さを覚える。

「自分とその人、何が違うんだろう」

それに、創作以外でも似たようなことを思ったりする。

「何でこんなに仕事が覚えられないんだろう」とか「Excel苦手すぎるだろ、自分…。」とか。

これらの感情はどこか自分の中にプライドがあるから発生するような気もしていて、そのプライドにすら八つ当たりするようにムカムカする。

もっと単純に、もっと素朴に生きられればなと感じた時に、自分はSNSや社会、そして自分自身に振り回されていることに気がつき、「もうどうにでもなれ」と思うのだ。

別に特別病んでいるわけではない。
いや、側から見たら病んでいる部類に入るのかもしれないけれど、そこまで自暴自棄になっているわけではない。

ただ、何となく明日の朝日がやってくるのが嫌で、ちょっとデトックスしたい夜が訪れることがあるだけだ。

素敵ですごいイラストレーターや作家さんと繋がれば繋がるほど、順調にキャリアを積み重ねている友人を見れば見るほど、心の深奥が疼いて、灰色な感情が動き出す。

同じ土俵に乗れるわけではないのに、つい視界に入って来るものだから意識してしまうし、構えてしまう。

スマートフォンは、SNSは僕たちの世界を変えた。
「どうにでもなれ」と思って寝れば、少しはリセットされて起き上がれたはずなのに、「どうにでもなれ」と思ってベッドに入っても、スマホを見ては余計な情報を入れてしまう。翌朝、起きてもまた余計な情報は入ってくる。

「あぁ、この子は今こういう業界で活躍しているんだなぁ」
「この子はいつも海外を渡り歩いているな」

「じゃあ、自分はどうだ?」

同じ土俵には立てないし、立たない決心はしたものの、嫌でも目に入ってくるし「輝かしい自分」が心のどこかにまだ棲んでいる。

なので、こう思うのだ。
「もうどうにでもなれ」と。

自分の生み出したもので生きていきたい。幼い頃からそう想って今も生きています。これからも創ることが喜びでいられるように、いただいたお金を使おうと思います。