【書評】『多文化世界』を読んで【基礎教養部】

自分の卒業研究の分野が多文化共生なので、逸れ関連でこの本を選んでみました。今回は、この本を読みながら思ったことを書いていこうと思います。

本来の文明とは

寛容や悲しみ、他者の理解、異文化の価値の尊重といった、本来文明が備えているとおもわれる人間性の尊重、人間の徳の尊重

超高層ビルは、人間を画一化し、他の価値が入り込むのを許さない傾向を強く示す

個人的には、科学も文明のうちではあるはずだが、科学技術となって探ることから作るまで行ったことにより、科学と文明のずれが生じ、いまや科学に引っ張られている、つまり、人間が科学に引っ張られているからこうなっているにすぎないと思いました。野蛮のままである世界にいるにもかかわらず、野蛮を秘めた身体ではない脳みそによって作られたシステムで生活範囲を支配した結果、それが分かりにくくなったことだと思います。

「帝国」の議論と、文化による差別

グローバル化と情報化が推し進める現代世界の「帝国」化の中では、ネグリたちによると、「人種的な憎悪と恐怖の主要な表象がそれまでの生物学的差異から、社会学的かつ文化的な記号表現へと移動」することになります。

ここでいう帝国とは、空間的な全体性を包み込む体制、文明化された世界全体を実際に支配する体制を指しています。これが生物学が担っていた役割を果たすようになるということです。生物学的特徴である肌の色などを理由とした社会問題についての議論は避けられるにもかかわらず(意識的避けようともする)、文化という側面からはお互いに違いをもとに議論することは避けないし避けようともしないのは、ベトナムと日本人のハーフであり、中途半端な立ち位置にいる自分にとっては非常に気になっていた点だったので参考になりました。ここからも多文化共生における教育の考えの浅さが見えると感じます。多文化が集まったクラスにおいて何かを議論する際、自文化という側面からは躊躇なく意見は出てくるし、それを何ならよしとすでしょう。しかし、それをすればするほど差異は強調され、差別が発生する可能性が高くなってしまう。これがどれほど意識されているかは自分が現場に言って感じた限りではほぼ無いといってもいいと思います。

個人なのか、集団なのか


人=個人としても認められ、族としても認められることになるといいのですが、一つの国や社会の中で、異文化・異民族の独立した存在が認められていなければその実現は難しく、それを認めると国民は二重三重の属性を持つことになり、国家の同一性は揺らいでしまいます。そこで必要なのは、もう一度、国民国家を根本から見直すという作業になりますが、それは「グローバル社会」を実現しようとする前提の下に各国家と社会が構築されなければならない、ということになるでしょう。

現状の日本はどうなっているのか見ると、川崎とかに特定の外国人の溜まりが存在しているのにもかかわらず、制限などを設けないなどといったことをしているので、国の中で矛盾が生じてしまっているといった状況になっています。このような状況において日本論を真剣に見つめ、そこからグローバル社会にも通ずる日本のアイデンティティを定める必要があるなと再度認識しました。

解決の方法は一つではない

私は、人間社会に「理想の追求」は必要であると思います。ただ、「理想の追求」が複数でありうるということを、もっと認識すべきです。

僕の好きな河島英五のある歌詞の中に「真実は一つなのか どこにでも転がっているのかい」というのがあります。自分がよく言っていたのは、事実は一つだが、真実はたくさんあるというものです。価値観を含む真実は、その価値観の分だけあります。理想とは価値観によるものなので、それは複数あり得るのです。この前のJ lab内での飲み会で、教育研究部は義務教育とは何かということについて理想を追求するという言葉を改めて、範囲を定めていきたいと言いました。これは、僕の言っていた理想という言葉と理想の特性にずれがあったため、誤解が生じないようにするために必要だと感じたからです。実際、WSの準備をしている中でずれを発見したので、これは正解だったと思っています。このずれについてしっかりと議論していきたいなと思っています。

「ソフト・パワー」を越えて

お互いの文化の力を発揮するような方向で、政治や経済、技術、そして社会が一致協力して進んでいくところに現れるのが、多文化世界

文化を積極的に活用して広めるだけではなく、日本国内、世界の他の国から見ても魅力を持つものであるかどうか、が重要。

ソフトであろうとパワーであることには変わりません。パワーでしかないのであれば、それは今までの焼き直し(つまり、何らかしらの上下関係や一つのモノによる一体化へと向かうということ)になることは想像に難くないでしょう。

多文化世界を現実の形に

多文化世界」とは、「文化の多様性」の擁護を基本的な問題として含んでいますが、同時に、世界の各地域の文化の担い手がその文化の力を認識しながら魅力的なものに鍛えて、世界に発信し、地球全体の文化を豊かにするために努力をする、という意味での「運動」を含んだものなのです。

文化度を高める積極的な努力をすることによって、一つのグローバルな世界を構築していくという意思の表れとなる世界が多文化世界

これがこの本が一番言いたいことです。行動に対する意志に一体化を図るという本当にこの人学者なの?というようなことを書いています。理想的ですが、僕は好きです。システムではなく、人間にそれを託すという発想はあまりないので、このような発想がある人間を見つけることができて少しうれしくなりました。

発展は単線的でなく

いろいろな古いものを残しながらジグザグに発展していくインド型の方が、今後の世界においてはより魅力的な文化を世界に与えることができるのではないかとさえ思う。

僕はたまに、身分制度があったほうがある意味では楽なのではないだろうかと思うことがあります。それはまさにここにあるような内容で、身分による固有のモノはあるが、ヒンドゥー文明という意思の共通があるからなんとなくまとまっているというのは結構重要なことなのではないかと思います。触れてはいけないとされているものでも見てみると面白い発見があるいい例だなと感じました。


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