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それでも北朝鮮をケアし続ける

私は日本と北朝鮮が国交正常化すればよいなと思っている。それは日本がかつての植民地との折り合いをつけ、新しい時代の地域秩序づくりを主導することを期待しているからだ。

戦後の日本は朝鮮戦争を契機の一つとし高度成長を実現し、豊かな社会を作り上げた。曲がりなりにも現在世界3位の経済規模を誇る先進国であるならば、そろそろかつての植民地地域との折り合いをつけてよい頃合いかと思う。

それがたとえ核・ミサイル実験を繰り返し、自国民を理由もなく拉致する閉鎖国家であったとしても。それは国交正常化という形式的な措置が形式的な対話を生み得ると思うからである。言うまでもなく現在は形式的な対話さえ存在しない状態にある。

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北朝鮮政治について本格的に勉強(研究)し始めて3年ほどが経った。研究蓄積が物を言う地域研究の世界においては私などアマチュアもアマチュアの分際だ。修士論文の執筆にヒーヒー言うのも当然である。その中でも日本と北朝鮮が国交を持つような東アジアの世界を夢見ることは、人生を生きる意味として悪くない暫定解に思える。

私の先祖は「南朝鮮」からやってきた。それゆえに日本にも韓国にも明確なアイデンティティを持つことができない。だからこそ国民国家にとらわれない「東アジア」という空間は、かろうじてアイデンティティをもたらしてくれると淡い期待を抱いている。

しかし、どうも東アジアを取り巻く環境は厳しい。中国は台湾に今にも侵攻しておかしくない状況で、北朝鮮はミサイル発射実験を繰り返している。日朝関係も低調すぎるほど低調だ。その中で日朝国交正常化など「夢」の類に過ぎないと言っても過言ではない。「東アジア」という空間にアイデンティティを見出そうとしても、その基盤がガタガタなのだ。

その基盤の中で日朝国交正常化を見据えることはなかなかしんどい心持ちである。言うまでもなく人は素早い報酬系を好む。ソシャゲのガチャに熱中するのは絶えず報酬が与えられ脳のドーパミンがドパドパになるからだ。それに引き換え日朝関係の改善など超長期的報酬系である。いや報酬が存在するのかすらもわからない。

実現可能性が見えない目標を人生の中に位置付けるのは難しいことだ。であれば北朝鮮に接し続けるためにはどんな構えをしておくべきなのだろうか。わからないが「研究」をすることは一つの手段であるとは思う。

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「ケア」は「触れる」ことから始まるという。ケアラーがケアする対象に触れたり声をかけたりすることでケアは始まる。ケアの具体的な実践者である看護師は患者に「触れる」ことで患者の様子や気分、体調を感じとり、データからは導き出せない個別的な事情を察知する。

このような「ケア」の取り組みは、職業研究者が研究を行う態度と似通った部分がある。さまざまな資料を通じて自らの研究対象に絶えず接触し、その地域の事業の特殊性や個別性に気を配ろうとするからだ。

ただ他のケアの現場と異なるのは国家(それは人々の頭の中に存在する「想像の共同体」である)は実態として存在し得ないということである。

ましてや徹底した情報統制を行う「北朝鮮」に触れることは他のどの国よりも難しい。文書を通じて、その先にある社会や人々の暮らしを想像するのがせいぜいだ。ここに北朝鮮研究を持続的に行い続けることの困難さがある。

また研究を行う上では対象との適度な距離感も必要だ。北朝鮮研究を通じて、その考え方に入れ込んではならないのである。

だからこその「ケア」的な態度は必要なのだろうと思っている。ここでの「ケア」とは「絶えず気にかけ、注意を払っておく」程度の意味だ。サッカーの試合前に「11番をケアしておけよ」と言った意味合いに似ている。

つまり「ケアする」とは北朝鮮に内在する(と思われる)「病理」を外科的に治療することではない。絶えず気を配り、触れ続ける。その営みの中で私たちはその国の中に存在する個別性を理解することができるようになる。そのプロセスに居続けてこそケアする対象(ここでは北朝鮮)の「語り」を聴く機会が与えられるのだ。

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当事者意識を持ち続ける困難さはもっと強調されてよいと思っている。今の時代、当事者意識それ自体は何かに能動的に取り組む望ましい態度として考えられている。もちろん人は自らの尊厳や人格を侵食する問題に直面した時、強い当事者意識を持つ。

しかし、当事者意識を持って問題解決に取り組むことが非常なエネルギーを使うことも同時に私たちは知っている。それは時に持続可能でない可能性もある。強い当事者意識ありきではなく、もっと持続的にその対象とつながるような発想としての「ケア」という考え方が必要な場面もある。

私が学部生時代に授業を受講していた日韓関係を専門とする先生は「私は日韓関係を眺めている」とおっしゃっていた。

小高い丘の上から目下に観察できるさまざまな事象を俯瞰的に捉えようとする姿勢としての「眺める」。そこに学者としての矜持を見た。と同時に、それは複雑な歴史と感情が入り組む日韓関係に継続的に無理のない範囲で接するための知恵でもある。

日本と北朝鮮の関係性が今すぐに劇的に変化するとも思えない。だからこそ私は日朝関係を持続的にケアすることで、継続的に接することができるような構えを構築しなければならない。休学して仕事を頑張ったのも自らの当事者意識を「あえて」細く長くしようとしたからだった。

謎の国・北朝鮮を研究する人は非常に少ない。学術界のマクロなトレンドも一つの要素であろうが、こと北朝鮮に至っては現地に行くことすらままならない状況だ。愛着や愛情を持つことが日本の中で許されない風潮があることも事実だ。

それでもきっといつか日本も北朝鮮との問題を解決しなければならない時が来るだろう。その時、目ざとく行動できるよう、自分なりに北朝鮮をケアし続けたいと考えている。

さいごに。北朝鮮を患者に見立てることで北朝鮮に暮らす一般市民たちの尊厳を毀損する可能性があるが、「ケア」という営みのアナロジーである以上、ご理解いただければと思う。

完。

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