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私について_3

前回からの続き。高校以降の話。

自分のwebsiteに載せていた自伝のようなものをnoteで少しずつシリーズものの記事としてアップしています

ARTとの出会い

カウンセリングや自己内省の期間を経て、私は少しずつ回復していった。そして、高校からは不思議と学校に通えるようになった。

登校できる体力と気力があることに喜びを感じる反面、またすぐに体調が悪くなってしまうかもしれないという不安もあった。

不登校の間、家族や親戚から問題児として扱われていたこともあり、私の自己肯定感は地に落ちていた。そのため、高校に通い始めたころは「私、このクラスにいてもいいのかな?」とどこか気まずい気持ちがあった。

私のそんな気持ちとは裏腹にクラスメイトは気軽に話しかけてくれ友達もできた。

ある日私は友達に「私、中学行ってないの」と打ち明けた。カウンセラー以外の人に、自分のことや感情を伝えるという経験がなかったのでドキドキしたが、意外にも友人たちは「別にいいんじゃない?」と誰も私の不登校を問題視しなかった。

その体験は、​私にとって今も大きな救いになっている。差別されたこともあるが、そうでない人がいる世界を知っているのは大きい。

高校1年の最初の美術の授業の後、私が描いたりんごのデッサンのことで担当教員に呼び出された。

「あなたの作品には底知れぬ何かがあるから専門的な勉強をしてみると良いと思う。ここに行ってみてはどうかな」と美術研究所のパンフレットを手渡された。

落ちこぼれの自分に未来はないと思っていたが「私には縁のないところに思えるけど、行ってみようかな」と、緊張しながら研究所の扉を叩いた。

そこは、まるで夢の世界だった。アトリエには社会の枠に収まりきっていない個性が爆発している高校生たちが沢山いた。アトリエには画材やモチーフが溢れておりワクワクした。

自分が絵を描くのが大好きだったことを一瞬で思い出した。
体中の血が騒ぐのを感じた。

私は、それまで世界はほとんど非言語​であると感じてきた。非言語を思いきり表現できる場所に触れホッとした。

それまで私は、言語では表現しきれない感覚を誰とも分かち合えないことに寂しさも感じていた。

この微細な感覚をARTを通じて表現できるのは、この上ない喜びだった。常識の枠組みに囚われない仲間とのやりとりも最高だった。私は夢中でARTにのめりこんでいった。

Who am I

美術研究所に通い始めた直後、先生から「ナラゼミがあるから必ず来るように」と言われた。

それが一体何のかわからなかったが、言われるがままに当日アトリエに向かった。

アトリエでゼミが始まるのを待っている間、ガムでも食べようとカバンをゴソゴソしていると、見知らぬ男子生徒が「俺にもちょうだい!」と話しかけてきた。私は快く渡し、彼は屈託のない笑顔で受け取り、私の隣に座った。

そうこうしている間に先生が来て「では、ナラさん、今日はよろしくお願いします」と挨拶をした。

奈良さんはドアから入ってくるのかと思いきや、私の隣でガムを噛んでいた彼が「どーもー、よろしくお願いしまーす」と立ち上がった。彼が現代美術作家、奈良美智さんだった。

奈良さんの本


よれよれのTシャツに履き古したデニム、寝ぐせでぐしゃぐしゃの頭を搔きながら、彼のゼミは始まった。

皆の前で楽しそうに講義をする奈良さんを見て、私の心はざわざわした。

私は落ちこぼれで家族のお荷物で何の取り得もない。学校の先生の薦めで、ここに来たけれど全然自信がない。

私は絵を描くのは好きだけれど、価値発揮できるものや自慢できるものなど1つもなかった。

ゼミは、そんな私に「そんなキミはどう生きるのか?」をとことん問うてくれた時間だった。

これまでの人生が最悪だろうが何だろうが「今、どう生きたいの?」「他者からの評価なんか関係ない!今この瞬間キミはどうしたいの?」と。

「Who are you?」あなたは誰?

「Who am I」私は誰なんだろう・・・?

この哲学的で実存的な感覚がとても新鮮だった。

当時、彼はドイツに住んでおり、現地のART事情やこれまでの人生やプライベートなこともなんでも話してくれた。

狭い世界の中で、鬱屈としていた私は、彼のような人が同じ地球上に存在していると知れただけでとても嬉しかった。

ゼミは私にとって大きな転機となった。
​研究所では気の合う仲間が沢山出来て、少しずつ世界がカラフルに感じられるようになっていった。

LGBTQ、複雑な家庭、帰国子女、起業している人など様々な10代が集まっていた。個性をバッシングされても動じない仲間たちの逞しさに勇気をもらった。

​一方で、私が私らしさを開放していくにつれ、親からは「こんな子じゃなかったのに」とため息をつかれることや衝突が増えていった。

かけがえのない仲間

美術研究所には個性的な人が沢山いた。

同じ高校生とは思えない程、色々な意味で突き抜けている人が多かった。

クラスの中に「普通は○○でしょ」「○○するのが当たり前」などという言葉は無かった。むしろ、そういった世間一般な価値観に対しての反骨精神がすごかった。

仲間たちは、頭の回転早いし、容姿も良いし、センスも良いし、自由だし、度胸があるし、思考が柔軟だし、一体どうしたらこんなに突き抜けられるのかという粒ぞろいだった。

後から聞いた話だが、私の学年だけが突出してユニークだったそうだ。当時の仲間は国内外で活躍しており頼もしい限りだ。

そんな仲間に囲まれ、共に絵を描きまくる日々を過ごしていくうちに、いつの間にか、私も皆と並ぶほどのトンデモな女になっていた。


そんなある日、金髪でカーリーヘアのとんでもなく素敵な子がクラスに入ってきた。

何をどう表現すれば良いのか困る程、彼女は異彩を放っていた。

彼女は絵がずば抜けて上手い上に、デザインの課題や彫刻の課題なども、いつもぶっちぎりでセンスが良かった。しかも、話がめちゃめちゃ面白かった。

そんな彼女とは自然と仲良くなっていった。彼女と私は、不思議と共通点が沢山あった。誕生日が1日違い、姓が同じ、親の年齢が同じ、弟の年齢が同じ、家紋が同じ、父親の性格がそっくり等、挙げればきりがない。

他愛もないことを延々と話し、くだらないことに時間を費やし、バカなことを沢山やったように思うが、そんな時間こそが実は大きな価値があったように感じる。

彼女を含め、仲間たちと過ごした3年間は輝かしい時間だった。凸凹で社会からはみ出したような個性的な人間の集団だったけれど、とてもイノベーティブで刺激的だった。

あの頃の経験が、今の私の礎になっている。

ちなみに、私の個人事業主の屋号はこの頃、彼女と一緒に考えたものだ。

私の名前と彼女の名前をアルファベットにして交互に並べ替えると「Catinco」になる。今、彼女も個人事業主であり、彼女の屋号は「Catinco」で、私の屋号は「Catinco.un」だ。

​高校生の頃「私たちいつかアートで起業しようね!」と言っていたことが現実になるのだから、人生は面白い。

続きは、また明日!

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