夫婦のシャドウ
私たち夫婦は仲が良い。
何をもって仲が良いと感じるのかは、人それぞれだと思うのだけれど、私個人としては、お互いが、存在そのものを尊重し合っている感じが、そう感じさせてくれているような気がする。
私たちはお互いに、素敵なところを沢山知っているし、理解しあえる存在でありたいと常々願っている。
しかし、そんな私たちではあるが、全くそう感じられなくなることもある。
関係性がこじれにこじれることもある。
「私はあなたの〇〇なところ、不快に感じているんだ」と、自己開示したり、リクエストし合えているうちは、まだいい。
これが、こじれを重ねると、自己開示をしても、お互いに受け取ることができなくなる。
「また、同じことを言っている」
温かい関係性が、液体窒素をかけられたごとく一気に凍ってしまう。対話をしようにも、売り言葉に買い言葉。相手の言っていることが何なのかが、お互いにさっぱりわからなくなっていく。
コミュニケーションについて専門的にトレーニングを重ね、コーチングを教えたり、提供している私たち夫婦。
関係性に対して、人一倍意識を向けているはずだったにも拘わらず、自分たちの関係性がこじれていくのを止められないもどかしさ。
色々な意味で、痛い。
痛すぎる。
がしかし、我々は職業上の役割を全うする前に、不器用ながら日々を一生懸命に生きているひとりの人間だ。
つい最近、夫婦になってから一番大きな喧嘩をした。
原因は一つではなく、日頃の小さなものが積み重なったものであった。
その積もり積もったものが臨界点に達した時、まず夫婦喧嘩という形ではなく、全く違う形でエネルギーが表出した。
「なんで、そうなるの?」
その出来事がきっかけで、お互いに相手の意思決定の背景にある文脈が汲み取れないほどのすれ違いが一気に表出した。
その【とある出来事】をめぐり、お互いに感情的になるタイプではないにもかかわらず、けっこう激しいやりとりをしたような気がする。(この喧嘩は三日三晩続いた)
不本意ながら、これまで、見たこともないようなお互いの一面を見せ合うこととなった。
私は、深い怒りに触れると鬼舞辻無惨(漫画:鬼滅の刃に出てくる鬼)のようなキャラに変身してしまうのだが、今回、数年ぶりに無惨が出た。
▼鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)参考画像
夫も、今回の喧嘩では普段とは全く違う一面を見せてくれた。
例えるならば、不機嫌なぬりかべ(漫画:ゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪)だろうか。
ぬりかべは、普段は優しく皆んなを守ってくれる存在である。しかし、喧嘩していた時の夫は、何かを守ろうとし過ぎて、逆に攻撃的になってしまったぬりかべのように見えた。
▼ぬりかべ参考画像
無惨とぬりかべの攻撃力は高かった。
結果、双方、ダメージを受けまくった。
このバトルが生み出したものは、果てしないレベルのエネルギーの消耗とさらなる誤解であった。
つまり、バトルをすればするほど、互いに生命力を失っていった。
エネルギー消費量UP
誤解度UP
疲弊が最高潮に達した日、偶然にも夫が自分自身のシャドウを探求するためのセッションの予約を入れていた。
※プロコーチという職業柄、我々は自分自身の無意識領域に自覚的であることが大切だと思っている。故に、継続的にさまざまな対人支援サービスを受けている。
ここでシャドウの説明をしよう。
例えば、優しい人は、「優しい人」という一言では語る事ができないはずだ。
「優しい人」以外にも、「愛くるしい人」「飽きっぽい人」「責任感の強い人」「無邪気な存在」など、さまざまな側面を持っている多面的な存在なのだ。
シャドウは、人の持っている人格の部分の、暗く影になっている側面を指す。光あるところに、影は必ず存在する。月に満ち欠けがあるように、この影は一生消えることはない。
シャドウは影であるため、ネガティブに思われがちだが、必ずしもそうではない。人の成長と癒しには欠かせない要素である。
シャドウは、人が無意識に「こんな自分はダメだ」と抑圧してきたものとも言える。しかし、抑圧してもシャドウは消えることはなく、事あるごとに「投影」を通して出現する。
そして、それは時に不本意な人生を創り出してしまう。
投影について話をしよう。
投影を簡単に言うとこうだ。
たとえば、私は【迷惑な人】というシャドウを持っている。これまでの人生、迷惑をかけないように頑張って生きてきた。
そんな私は【特定のタイプの人】を見るたびに反応的になってしまうことがあった。
約束を守らない人
空気が読めない人
思いやりに欠ける人
そんな人たちにを見て、私は無意識に、勝手に彼らを【迷惑な人】だと感じ、嫌悪感を感じていた。
そのような人と関わる度に、反応的になり、イライラしていた。
ここで何が起こっていたのかというと、私は彼らに自分の心の中のシャドウを投げ、映していたのだ。これが「投影」だ。
私の中には【迷惑な人】という部分はない(だって、迷惑をかけないように努力して生きてきたのだから)という認識でいたのだが、抑圧していただけなので、【迷惑な人】は投影という形で幾度となく出てきた。
自分のシャドウを無意識に他者に投げかぶせて、嫌悪感を感じていたのだが、それは紛れもない、私の一部であった。
とあるワークショップで、私は自分のシャドウ【迷惑な人】に気づいた。
それ以降、反応的になることは極めて少なくなった。他者に投げていたシャドウを、自分側に取り戻すことが出来たのだ。
少しシャドウの説明が長くなったが、話を前に戻そう。
ぬりかべと化した夫がシャドウ探究セッションを受けた。
あの日、私はリビングで仕事をしていたのだが、セッション後、夫が涙目で2階から降りてきた。
その顔はもう、ぬりかべではなく、普段の優しい夫だった。
「ごめんね」
心から謝っている夫に、私からも謝罪をした。それから、互いの捉えている世界について、落ち着いて沢山話が出来たと思う。
沢山の誤解があったことや、言いたくてもいえなかったことを山のように話した。
私も夫もシャドウを扱うコーチングが出来るのだが、いざ当事者としてシャドウに乗っ取られていると、どうすることも出来なかった。
第三者の力を借りて、シャドウに自覚的になることが出来て、本当に助かった。もし、あのタイミングで夫がセッションを受けていなかったら、さらにこじれていたことだろう。
夫のシャドウは【ちっぽけな男】であった。
そして、今回、私を反応的にさせたのは私の中にある【一人で背負うマン】であった。
夫婦喧嘩の根っこにあったシャドウは、夫の【ちっぽけな男】と私の【一人で背負うマン】
このサイクルにより、シャドウがお互いに刺激され続けてしまったものだから、関係性が一気にこじれた。
【一人で背負うマン】に無自覚だった私は、こんなに背負っているのに、まだ背負わないといけないの?とか、背負っていることに気がついてくれないの?みたいな心の声に胸を痛めた。
このシャドウ、男性性だったので、喧嘩中は私の「男勝り」度合いが急上昇し、「女らしさ」度合いが激減した。
しかし、今回のことで【一人で背負うマン】シャドウに気づけたことで、私たち家族は支え合っていたのだ、もっと頼ってよかったのだと心底思えた。
仕事でも家庭でも、人が気づかない地味で嫌がる仕事を何も言わずにやってきたが、それを頼っても良かったんだと思えたことは大きい。
小さな頃から、家の中で、関係性のバランスを取るために、地味に色々な役割を演じ倒してきたし、誰も気づかないような配慮をしてきた。
その癖が染み付いて、今の生活にも影響を及ぼしていた。
あー、もう、そんな世界、ヤメ!ヤメ!私は影で配慮も努力もしない。何にもしないぞ!と、本気で思えた。
現在、私は夫と娘に、めちゃくちゃ頼ることが出来ている。
本当に私は、あの日以来、ご飯を作らず、掃除もしていない。
夫と娘、ありがとう。
2人とも楽しそうだ。
この数日で、2人は沢山のことが出来るようになったらしい。
よかったなと思う。
そして、日々の暮らしのために使っていたリソースを自分に向けたとき、かなり疲れていたことにも気づけた。
ゆっくりお風呂に入ったり、空き時間に昼寝をしたり、そんな時間を過ごすことでクリエイティビティも上がってきたように思う。
これからも、きっと喧嘩はすると思うけれど、関係性を再構築できる力があることに気づけたので、なんだか大丈夫だと思える。
喧嘩出来て、よかったな。
うまく言えないけれど、そう思う。
しかし、巻き添えになった娘には、心から謝罪したい。本当ごめんなさいと思う。
喧嘩中、家の中がピリつく中、自分の部屋にも行かずリビングでyoutube見ていた娘の器の大きさは見習いたい。娘がいたことで空気が柔らかくなりありがたかった。
娘、ありがとう。
そして、喧嘩中にもかかわらず、身体にとまり、ともにいてくれたインコたちにもありがとう。
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