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【住職さん直伝】これを知ると100倍面白い!? 増上寺のヒミツ

こんにちは!余語です!
東京タワーのお膝元にある、増上寺を特集します。

先月まで増上寺にてツアーを催行していました。
その際、住職さんから増上寺について色々レクチャーして頂き、聞いたお話が本当に面白かったんです。今回はそんなお話や増上寺を歴史から魅力など資料を使いながら徹底解説していきます!それでは増上寺を探索してみましょう。

増上寺の歴史を振り返る

増上寺の正式名称は「三縁山広度院増上寺」です。
ここで増上寺の歴史を年表で確認してみてください。

増上寺の歴史年表
1175 法然上人(しょうにん)、専修念仏を唱え、浄土宗を開く
1393年 現在の千代田区平河町付近に増上寺誕生
1590 徳川家康と存応上人(ぞんのうしょうにん)と師檀関係を結ぶ
1598年 現在の芝の地に移転
1657  江戸大火で増上寺も延焼。1668年、1762年、1806年、1850年
1868 廃仏毀釈運動
1873  大殿放火により焼失
1909  大殿再焼失
1945  空襲で伽藍(がらん)、御霊屋(おたまや)ほとんどを焼失
1974 大殿完成
2010 安国殿を再建

増上寺と徳川家の出会い

こちらは「この紋所が目に入らぬか?」というセリフで有名な水戸黄門のシーン。

TBS

アカマルで囲われている印籠の家紋、これはズバリ徳川の葵の紋。
実は、増上寺と徳川家は縁がとても深いお寺なんですよね。いわゆる菩提寺です。※菩提寺とは、先祖代々のお墓のあるお寺のこと
徳川家の菩提寺になった経緯をここから少しだけさせてください。

1590年 徳川家康公が江戸城に入城する際、馬に乗って当時(江戸城の西側にあった増上寺)の前を通ろうとしたところ、馬が急に止まり、何かと思った家康公は降りて、そこで当時の住職存応上人(ぞんのうしょうにん)と出会いました。そこから、意気投合していき、 徳川家康と存応上人は師檀関係を結ぶことになりました。1598年に現在の地・芝に移転されてからこのような大きなお寺にまで繁栄していきました。家康公との出会いがいまの増上寺に繋がっています。

江戸時代、増上寺の全盛期の境内は約25万坪、現在の16倍もの広さを誇っていました。現在、増上寺周辺ににある芝公園、東京プリンスホテル、東京タワーの辺りも、元々は増上寺の土地でした。かなり広大な土地ですね。
また、3000人いたという修行僧のための学寮が100軒以上並んでおり、念仏を唱える学生たちの声が鳴り響いていたそうです。増上寺は古くから、関東以北の18教区をまとめる大本山としての機能を持ち、京都の総本山・知恩院と並ぶ修行の場で、見習い僧は2つの寺のどちらかで最終の行を3週間積まねば、浄土宗の正式な僧侶にはなれないそうです。お坊さんを育て、資格を与えるお寺として、現在も毎年約100人が増上寺での修行を経て、各寺へと巣立っています。

三解脱門

ここからは実際に「いまの増上寺」を覗いて見ましょう!!

まずはじめに、増上寺を訪れるとこの大きな門が迎えてくれます。

三解脱門

この門は三解脱門という名です。三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門です。歴史は古く1611年に建設され、一度焼失してしまいましたが1622年に再建されました。唯一江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物です。増上寺周辺の地名は大門と言います。それはなぜかというと、

大門

こちらの門が由来です。この門は増上寺の旧総門なんです。江戸時代は大門までの辺りが増上寺の敷地だったということです。

関東最大級の鐘「鐘楼堂」

次に紹介するのがこの大きな鐘!

グーグル画像検索より

この鐘は「鐘楼堂」といいます。4代将軍 徳川家綱の命により1673年に鋳造されました。1633年に創建された鐘楼堂は、1945年の空襲で焼失。現在のは戦後再建されたもの。高さ約3.3m、直径約1.8m、重さ約15t、関東最大級の鐘で、あまりの大きさに7回の鋳造を経て完成したとも言われているんです。

ここから面白いお話が!
住職さんによると当時は鐘の音が千葉の木更津まで聴こえたそうです。

今考えるとあり得なそうな話ですが、江戸時代は現在とは環境がだいぶ異なりました。
①現代のように車や交通機関の騒音がなく周りが静かだった
②ビルや高い建物など音を遮るものがなかった
ということもありました。そのため、信じるか信じないかはあなた次第です。

この鐘、実はあなたも撞くことができるってご存知でしたか?
こちらは今年のアベマのニュースです。

鐘を撞けるのは大晦日の除夜の鐘限定!
大晦日の夜、一般の方でも除夜の鐘をつくことができます。
例年ですと12月1日9:00~より受付開始しており、100組ほどの先着順となっております。費用は2000円。鐘をつかれたい方はぜひ12月1日に増上寺へお越しください!

大殿


大殿は第二次世界大戦で焼失してしまいました。それから約30年後の1974年に35億円を費やし再建されました。

2021年11月に完成チタン瓦に総葺き替え工事増上寺瓦チタン瓦約6万枚分約22㌧約500㌧の土瓦が使われていた。これをチタン瓦に置き換え、約10分の1の軽量化を実現しました。
※浅草の浅草寺も2010年ごろチタン瓦に葺き替えられました。

グーグル画像検索より

こちらは鴟尾(しび)と言います。
鴟尾(しび)は魔除けや防火のまじないとして飾られます。もともと中国では大棟の両端を強く反り上げる建築様式が見られ、これが中国大陸で変化して3世紀から5世紀頃に鴟尾となったと考えられています。鳥類や魚類と似た形をしており、次第に鯱(しゃち)に変化をしていき、鯱鉾や鬼瓦の由来ともされております。増上寺の鴟尾は銅で作られ、その大きさは高さが約2メートル40センチメートル、重さが約1,300キログラムととても大きく、奈良・東大寺大仏殿の鴟尾に次ぐ大きさといわれております。

徳川将軍家霊廟

ここには徳川将軍やその子女を含む計38人が埋葬されています。

入場料500円

増上寺には、6人の将軍が眠っています。
2代秀忠公・6代家宣公・7代家継公・9代家重公・12代家慶公・14代家茂

他の将軍はどちらに眠っているのか?
家康公と3代家光公は日光東照宮
4代家綱公をはじめとする6人の将軍は上野寛永寺
15代の慶喜公は神道のため谷中霊園

お江さんのお墓

徳川家の人間として最初に埋葬されたのは崇源院。生前の名は「お江」。2010年に上野樹里さん主演の大河ドラマにもなりました。二代将軍・秀忠公の正室です。秀忠公の御霊屋は空襲で焼失してしまったので、現在はお江さんのお墓に入っています。

6代家宣公の霊廟

6代将軍家宣公までは銅製でした。しかし、7代以降は倹約令により銅製から石造りになってしまいました。

7代家継公の霊廟

最後に…
ここまで読んでいただきありがとうございました。増上寺は徳川家と共に繁栄していきたと言っても過言ではありません。今回は紹介できなかった建造物や展示室、魅力はまだまだあります。ぜひ一度、実際に増上寺に足を運んでみてください。





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