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Back to Mono or Go Stereo? 50年代モノ音源のステレオ化

50年代から60年代前半までの、シングルはモノが当たり前だった時代のヒット曲を、リアル・ステレオ化したものを聴いた。

ふつう、モノかステレオかといわれれば、ステレオを選ぶのだが、きちんとマスタリングされたものながら、この盤は聴いていてなんだか尻がムズムズしてきた。居心地のよくないマスタリングがつづくのだ。そういえば、あれのステレオもよくなかった、これのステレオも貧相だった、などと過去の駄目ステレオ化盤のあれこれがよみがえってしまった。


しかし、記憶にある音と、いまそこで鳴っている音を比較するのはアンフェアなので、じっさいにモノとステレオを並べて比較した。それぞれの盤によって録音レベル(ゲイン)が異なるので、一度並べてから、FB2Kのリプレイ・ゲイン機能を使ってレベルを揃えたうえで比較した。全曲やるのはさすがに面倒なので(いっておくが、この程度のヒット曲はうちには揃えてある! しかし、持っているだけに、その気になれば全曲聴けてしまい、時間を食われるのは困る!)、数曲を拾いだして比較した。

◎Huey 'Piano' Smith & The Clowns "Don't You Just Know It"

60年代の日本のロック・グループ、いわゆるGSのフェイヴで、中学の同級生のバンドもやっていた。それくらいに楽な曲だ。大ヒットではないが、シンプルかつダンサブルで、リハーサルなしでも大丈夫、ジャム向きというか、いや、あの時代はまだジャムなどあまりないので、Hanky Pankyなどと並ぶ「今夜のダンパに間に合わせる」にはもってこいの曲だった。それがヒューイ・ピアノ・スミスのマイナー・ヒットだと知ったのはずっと後年のこと。


ヒューイ・ピアノ・スミスのDon't You Just Know Itを収録したノーリズンR&Bコンプ


さて、モノ対ステレオの比較は、立ち合いの一瞬で、モノ勝利確定。ステレオは、二人のヴォーカルを左右に振り分けたのだが、おかげで、最初に出てくるリード(男声)が右チャンネルに振られて、じつに気色が悪い。まあ、つぎのフレーズで左から女声が出てきて、デュオを左右に振り分けたとわかるのだが、それまでの二、三秒、ヴォーカルがセンターに定位されていないことにひどい違和を感じる。気色悪し。

◎Phil Phillips "Sea of Love"

アル・パチーノ主演の同題の映画では、この曲が何十回(←誇張)も流れて、目眩がしそうになった。いや、いい曲なのだが、繰り返しというのは偏執的で恐ろしい。


分類するなら、ニューロティック・スリラーだろう。ちょっと疲れる映画だった。アル・パチーノは刑事で、まずい事件に遭遇してしまう。♪Do you remember…の呪文にはめげた。


ほら、デイヴィッド・リンチのBlue Velvet、ボビー・ヴィントンのあの曲自体は好みなのに、なんども繰り返されると、ゾワゾワしてくるし、あとでラジオなんかで流れるのを聴いても、なんだかネバネバしたものを感じてしまって、ひどく迷惑な映画だった。まったく正常に見えるものの中に潜む異常性を摘出してみせた、というように捉えるなら、「みごとな手腕」となるかもしれないが、それはものは云いようてえものでしょう。


デイヴィッド・リンチのBlue Velvet、これまたどっと疲れる映画だった。ボビー・ヴィントンの主題歌だけでなく、ロイ・オービソンのIn Dreams(だったと思う)も気色悪かったわ。


いや、デイヴィッド・リンチはおいといて、フィル・フィリプスのSea of Loveだ、これもやはりモノのほうが好み。フィル・スペクターの「モノに還れ!」というのは、こういうことを指していたのだとつくづく思う。



ステレオ・ミックスはすっきりと綺麗な音なのだが、いかんせん、弱々しい。モノには太くドッシリした量塊感、massivenessがある。スペクターが「モノに還れ!」と叫んだのはそういう意味だと考えている。彼はつねに音のmassivenessを求めた。

◎Danny & The Juniors "Rock And Roll Is Here To Stay"

シャナナのようなロックンロール・リヴァイヴァル・アクトが目をつけるだけあり、ダニー&ザ・ジュニアーズのRock And Roll Is Here To Stayは、きわめて50年代的にして、典型的なパーティー・テューンで、ジョン・トラヴォルタのGreaseのダンス・シーンにも使われた(とボンヤリ記憶している)。



これはモノもよろしくない音像で、細さも細し、よくこんな録音に我慢したものだ、50年代は低音を要求されなかったのね、とうんざりするのだが、細いというのなら、ステレオのほうが細くなるに決まっていて、ステレオもまったく好かない音だ。綺麗にまとめてあるだけに、よけいに弱々しく聞こえる。痛み分け、とは違うか、なんといえばいいのか、没収試合か! 降雨コールド、日没ノーゲーム、なんでもいいや。

◎Buddy Holly "Peggy Sue"

バディー・ホリーの遺産を聴くと、60年代のアーティストに与えた巨大な影響を随所に発見できて面白いのだが、録音はどれも非好みで、なんとかならなかったのかなあ、とボヤきたくなる。ハリウッドだったら、50年代後半にはもうすばらしい技術が確立されていたのに、クロヴィスとか、ああいうところで録っちゃ駄目よ、なんていまさら云ってもはじまらないが……。


Buddy Holly - Not Fade Away: The Complete Studio Recordings and More



この曲については、どっちも薄くて細くて弱々しい、それならいっそ、貧弱なステレオでもいいか、てえんで、鼻の差写真判定でステレオの辛勝としておく。

◎Duane Eddy "Rebel Rouser"

ドゥエイン・エディーもこのRebel Rouserのようなごく初期の曲はハリウッドではなく、どこか田舎での録音ということになっている。やっぱりクロヴィス、テキサスだったか? いや、調べた。フィーニクス、アリゾナと記録されていた。ただし、サックスはハリウッドでオーヴァーダブ(プラズ・ジョンソンがプレイしたとか)という説もあって、アリゾナ説自体がそもそも当てにならない。


Duane Eddy - Have 'Twangy' Guitar Will Travel 西部開拓時代、ガンマンは新聞に「Have gun, will travel」という短い広告を載せたそうだ。「拳銃あり、何処なりとも参上」というその三行広告を文字って「トワンギー・ギターあり、いずこなりとも参上」というわけだ。


これは迷うことなく、モノの勝利。太さ、厚みがぜんぜん違う。いや、太い音、厚い音は嫌い、という人もいるだろうけれど、当方、やはり太いのと細いのがあって、選べるならば、太いほうをとる。ただし、90年代あたりの無用な「重低音」は不快の極み。太けりゃいいってものじゃない。全体のバランスが重要だ。ミックス・ダウンというのは、適切なバランスを発見する技術なのだから。

◎Bill Doggett "Honky Tonk Part 2"

ゆるめのダンス・テューンで、インストゥルメンタル・ロックの歴史、といったたぐいの盤にはかならずといっていいほど収録される。



ビル・ドゲット自身はキーボード・プレイヤーだが、この曲でリードをとるのはテナー・サックス、ステレオ盤では、このサックスの音に厚みがなく、これまたモノ盤に軍配を上げる。

◎60年代なかばの分水嶺

つらつら考えてみたのだが、はじめて後年のステレオ・ミックスにはげしい違和を感じたのは、ハーマンズ・ハーミッツのA Must to Avoidだった。


これが最初のA Must to Avoidのステレオ・ミックスだったのではないか?


おそろしい細さ、弱さで、子供の俺はこのひどさに気づかなかったのか、そんなはずはない、と小学校の時に買った国内盤45を数十年ぶりに引っ張り出して聴き直した。あのころの英国録音45はおおむねそうだったのだが、やはりモノ・ミックスで、マッシヴな団子状に固められた力強い音だった。CDのマスタリングが大間違いだったのだ。


Herman's Hermits - Into Something Good: The Mickey Most Years 1964-1972
この箱に収録されたA Must to Avoidが、CDとしてはもっとも好ましいマスタリング。


それでいろいろ45をひっくり返してみたが、ホリーズなんか、68年のCarrie Anneでもまだ45リリースはモノ。初期のCDもまだモノだった。しかし、そういうもののステレオ化がすべて駄目かというとそんなことはない。現に、このCarrie Anneでも、Hollies' Greatestのステレオ・ミックスはモノより好ましい。


The Hollies Greatest Hits Volume 1 モノ・ミックスとステレオ・ミックスがセットになっている。


じゃあその違い、「いいステレオ化」と「悪いステレオ化」の違いはなんなのか? 端的に、それはオリジナル・レコーディングで決まる。

これはわたしが云うのではなく、ジョージ・マーティンの回想記、All You Need Is Earsに書かれていたことだが、まともなステレオ・マスタリングをするには、テープ・マシンは最低でも3トラックでなければならない、1トラックはヴォーカルで、これはセンターに定位する、残る2チャンネルにベーシック・トラックを割り当て、これを左右に振り分ける(と云っても、ステレオにするなら、プロダクション段階の割り振りをもう変更できないが)。



2トラックだと、ヴォーカルをバンドと一緒に一発録りしないとステレオ・ミックスはうまく行かない。別録りだと、ひとつにベーシック・トラック、ひとつにヴォーカルを割り当てるので、これをステレオ・マスタリングすると、ヴォーカルとトラックがみごとに左右泣き別れになり、ヴォーカル(またはリード楽器)をセンターに定位することができず、不自然なステレオ音像になってしまう。


ザ・ママズ&ザ・パパズもヴォーカルとトラックの完全左右泣き別ればかりだ。ユナイティッド・ウェスタンで録る時も、ベヴァリー・ヒルズのホーム・スタジオで録る時も、3トラック・テープ・マシンで録音していたのだが、ベーシック、ヴォーカルにそれぞれ1トラックずつ、残りをストリングスなどのオーヴァーダブに使ったために、ヴォーカルをセンター、ベーシックを左右に振り分け、という自然なミックスはできなかった。


結局、これが最大の理由だ。Hard to Find Jukebox Classics1956-59: 29 More Amazing Stereo Hitsという盤に収録された曲は、まだテープ・マシンが2トラックだった時代に録音されたもので、リアル・ステレオ・ミックスでは不自然な定位になりやすい。2トラックなのに、別録りのヴォーカルをセンターに定位してステレオ化するには、ヴォーカルのみの抽出(AIの出番!)をしなければならない。最近はそういう技術も向上してきたのだが、そこまでしてステレオにする必要があるかどうか……。


フィル・スローンとスティーヴ・バリーによるスタジオ・プロジェクト、The Fantastic Baggysのビニール盤のミックスがモノ、ステレオ、どちらだったかは覚えていないのだが、CDはみなステレオで、これまたヴォーカルとトラックが左右遠く離れた完全分離、きわめて不自然な音像だ。自分でモノ・ミックスをつくった。


◎ノスタルジア?

以前、フリッツ・ラングのMetropolis (1929)のカラー版が公開された時、是非論が沸き起こった。その後、そういうものはあまり出てこないところを見ると、おおむねモノクロ映画のカラー化は否定されたと考えていいのだろう。

いや、いまやAI時代、カラライゼイションの画質は当然向上するので、またそういうものが流行するかもしれないのだが。じっさい、去年だったか、ハワード・ホークス製作のThe Thing (1951)のカラー化がチューブにあり、チラッと見てみた。



わたしは、白黒映画がめずらしくなく、モノ録音が一般的だった時代を知っているので、白黒映画にもモノ・ミックスにも、違和は感じないが、そういう時代を知らない世代だとどうなのだろう。やはり、オリジナルより、派手に加工されたものが受け入れられるようになる可能性はあると思う。古文が読めなくなり、古典がみな現代語訳になってしまった、という先行する現象もあるし。

断じてモノクロ映像、モノ音像でなければならない、と思っているわけではなく、それがそうなっているのだから、あとからいじる必要もないだろう、といったあたりで手を打っているにすぎない。

いや、さはさりながら、やはり、古典はそのままいじらずにほうっておいてほしい、キンキラキンに派手なものが必要なら、新しくつくればいいだけのことじゃないかと、年寄りらしい思いも、やはり心のどこかに抱えているらしい。まあ、そのようなシフトは自分がいなくなったあとに起こることだろうから、どうでもいいのだが……。



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