【創己祭無配】おやつにしようか。
リイン、と夕焼けがさした窓の外から虫の声が聴こえる。鈴虫だろうか。青松虫かもしれない。
追ってチリンと店のドアベルが高く響いた。
「いらっしゃいませ。『いつもの』で、よろしいですか」
私の問いかけに答えるように、小さなお客はピュイと鳴いた。
*
この店には、色々な人が来る。
学校に通っている人、通っていない人。仕事に追われている人、追われていない人。恋人のいる人、いない人。
人生を楽しめている人、楽しめていない人。
たくさんの人生―ものがたり―の一部として静かに生きてきたこの店は、私の代でもう八十年になる。
八十年の間、私たちが物語の主人公であるお客様方に提供してきたのは、一杯のコーヒーだけ。それ以上の介入は、物語の結末を変えてしまうことになるから。
お客様がどんな人であるか、どんな人生を歩んできたか、どんな人生を歩んでゆくか、エトセトラ……コーヒーの好み以外の情報は何一つ必要ない、そんな場所。
そんな場所へ、いつからか、淡いタンポポ色の羽根をしたインコが時折やってくるようになった。はじめは、表の扉が開いた隙に店内へ迷い込んでしまったのだろうと思っていたが、翌日と、翌々日と、一日おいてまた翌日もやってきたから、どうやらあの子はこの店を気に入って通ってくれているらしかった。
*
ピイ、ピュイ。
と、とぷ、ととと。
ガチャ、チリン。
ずず、ふわ、ぱく、ごくん。
かちゃ。
すみません、お会計。
必要最低限の音だけの空間に、いつからか耳心地の良いクラシックが流れるようになった。最初は拙くピィ、ピ、と詰まっていたメロディーも、十日と少し過ぎて、次第に滑らかなものへと変わっていった。
ヴィヴァルディの、春。
ピアニストであった亡き妻が、若い頃によく奏でてくれた、忘れることのない曲。彼女は珈琲が少し苦手で、ミルクと角砂糖をたっぷり入れたカフェモカを作っていたのを思い出す。
二人きりの部屋に漂う甘い香りと、流麗なピアノの音色。
おやつにしようか。
ずるいわ。貴方の焼く焼き菓子の匂いで集中できないじゃない。
笑う彼女が、目に浮かぶ。
素敵な秋の『春』を聴かせてくれた演奏家さんへ、私はこっそり、シフォンケーキを差し入れた。
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