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【短編小説】神様


「ゾウより大きくて、アリより小さい生き物なーんだ」
「……」
 応えないでいたら、解んないかァと煽られた。NO、私はお前と違って目前の数字を解くのに集中の全てを向けているんだ。今から頑張らねば受かるものも受からんという教師の言葉を馬鹿正直に信じているから。
「……なんか楽しいことしたぁい」
「してるじゃない」
「なに、なぞなぞ?」
「数学」
「どこがぁ」
「……進んだの」
「いま問四」
 頭の回転が速いバカほど、嫌いなものはない。
「……そう」
 少しの間を開けて返したそれが、おしゃべりな口を閉じさせたから、どこか居心地が悪くて、ひとつ咳払いをした。続くのは沈黙。これだからこいつと居るのは疲れるんだ。スイッチが何処にあるのか、さっぱり解らない。本人すらも分かっていないのではないかと思う。こうして彼女が集中をしている間は、今度は私の集中が切れるのだ。黙っている彼女が、非日常の感を押し付けてきて、堪らなくなる。おしゃべりでない私は、集中の切れた頭で、机の数十センチ上空で留まる黒髪を見つめることしか出来ない。艶のあるショートカットのそれは、ほんの一か月前までは胸の下まであった。どうしたの、と偏狭な脳味噌が反射的に聞いてしまったけれど、彼女は「夏っぽいでしょ」と笑うだけだった。あの日、髪の後ろの方を少し捲って見せてもらった、校則ギリギリの刈り上げの感触が、汗に湿った指先に思い出される。三十日もすれば、人はここまで髪が伸びるのだなと、生命に関心。彼女の視界の端でチラチラと揺れているだろう、うざったそうな横髪を耳にかけてやったりしたら、びっくりされるだろうか。

 グラウンドの喧騒が、遠く聞こえる。意識が浮遊してしまっているせいだ。サッカー部だか、野球部だか。イマイチ分からない。野太い歓声は高校球児のような気もするし、鈍く響く音はボールを蹴る音のような気もする。どちらでも良かった。融けた瞼に、彼女の頭が隠れる。いつの間にか、伸びた横髪が耳に掛かっていた。
「寝てたでしょ」
 印字された数列を追ったまま、彼女が笑う。腕の下、白く眩しいノートに弱々しく綴られた数式は解読不能で、対する彼女のそれが羨ましかった。ふふ、と笑いながらまた芯の細いシャープペンシルが走る。字の綺麗なところが、彼女の唯一の長所なのだ。
 寝てない、と訂正することはしなかった。微睡んでいたのは事実であるし、吐いた嘘が彼女に見抜かれるのは分かりきったことだから。……だから、私は木目の走るつくえに転がった太軸のシャープペンシルを握り直して、また重いページを捲るだけ。フ、と形の良い鼻から漏れ出た息は、彼女の口角がほんの数ミリだけ上がった証拠。ちらとそれを覗けば、思い描いていた通りの弧が薄く開いた。
「もう帰る?」
「いや」
「懲りないねぇ」
「……嫌いじゃないから」
 少し震える喉で絞り出したそれに、彼女は「そう」と言うだけで、あとはまた小さな印刷を咀嚼していた。

「……逆立ちすると軽くなる生き物なーんだ」
「ハマってるの?」
「うん」
「イルカ」
「せーかい」
 ピンポン、の効果音を鳴らして、分厚い参考書がパタリと閉じた。彼女の背の方、白く薄汚れた黒板の上に鎮座する掛け時計は十八時を指していた。完全下校時刻まであと六十分。最後の大問だけ片付けてしまいたかったから、向かいの参考書が吹かせた風で捲れた書き込みだらけの参考書の一〇三ページを、ピンと伸ばした。数学にもなぞなぞにも飽きたらしい彼女は、黙ってこちらを見つめてくるだけだった。灰色の罫線に目を滑らせていても分かる。茶色がかった丸い瞳が、私を真正面から引っ捕えているのが。猫背のせいで覗いている、だらしないつむじから、垂れた前髪の先に向かって何度も何度も、視線を移しているのが。その目が嫌いだとは、言ったことがなかった。言ったとて、彼女は私を嫌いになんてならなかっただろうけど。告げてしまったという事実が、私の胸の奥底に焼き付いてしまうのが怖かった。
「喉乾いた、自販機行かん?」
「……ん」
「やった」
 頷いたのは、喉を湿らすあの感覚が恋しくなったから。イコール記号をひとつ書いて、全部を閉じた。もう、問題を解く気はなかった。
 夏休み明けの気だるさを背負った放課後の教室には、元から彼女と私しかいない。私が広げた参考書と筆箱を仕舞っている間、彼女は此方を向けていた机を元の通りに戻して、横に引っ提げていた鞄を掴む。前の席の奴は寡黙な男子生徒で、彼も私と同じく席替えという文化には興味が無いようだった。プリントを回すのがぶっきらぼうだから、あまり好きではない。蛍光灯のスイッチを三つパチパチパチと消す。明るさはそこまで変わらなかった。並んで階段を下る。教室が二階にあるメリットは、階段を昇降するのに体力が必要ないことだ。一年生も、もう二年すれば解る。最初にこの教室組みにしようと提案した教員は賞賛されるべきなのだ。もう少し敷地があれば、二年前に苦行を強いられることは無かったのかもしれないけれど。玄関の隣。美術室へと繋がる廊下のひとスペースを切り開いて、自動販売機が二台置かれている。向かいの壁際には縁の布地が剥がれたベンチソファーが置いてあって、大抵は一年生男子の溜まり場になっているか、部活終わりの文化部がだべっているかだ。幸い今日は独占状態で、それでも誰かが来ては困るから、私たちはそそくさと三人掛けのそれに腰掛けた。黙って、正面の自販機を眺める。右のは炭酸飲料やジュースがメインに入っていて、いくつかには売切のランプが居心地悪そうに赤く光っていた。左のは私がよく下校前に買うミルクティーが入っている。下段はコーヒーの列で、誰かが購入しているのを見たことはなかった。ブラックの似合いそうな担任の顔が薄ぼんやりと浮かぶ。何を飲もうかとは聞かなかった。彼女がベンチから立ち上がって、張っていた座面が少し沈んだ。チャリ、と小銭の落ちるのが心地よくて、また微睡みに攫われてしまいそうだった。ピ、とボタンが押されるのに遅れて、ガコンと音がする。蛍光色を手に持った彼女と入れ替わるようにして、私も立ち上がった。想像していたよりも深く沈んだベンチに、彼女が「わ」と小さく声を出した。十円玉を三枚自販機に放り込む。液晶に表示されたデジタル数字が少しずつ増えていくのが好きだ。最後に百円玉を入れれば、今までうんともすんとも言わなかったボタンたちがパと光る。中には光らない奴もいて、もう十円入れるのを催促していた。指は決めていたボタンを押す。迷いはしなかった。

 オレンジの炭酸が喉を通る。二酸化炭素の味がして、口の奥の方がきゅうと締まった。隣でおんなじオレンジを飲んだ彼女が、CMの女優みたく、ぷはぁと息を吐いた。
「高校卒業したらさー、どっか旅行でも行きたいね」
 随分と先の未来のことを話すんだなと思った。私たちの前には、それよりも大きな壁が幾重にもなって立ちはだかっているから。私はそこで、彼女にはそれが見えていないのかもなと思った。羨ましかった。
「うん」
 喉の奥の方が震えていた。
「ふたりで」
「……うん」
 彼女の声は、心底明るいふうだった。世界に散らばった希望を、片っ端から掻き集めて、自分の未来に一つずつ並べていく。これから自分がどうしていくのか、見えているような声だった。それが、自分とは違う世界に生きているようにも聞こえて、苦しかった。返事が上手く出来たかは分からない。彼女はそれっきり口を開かなかったから。ああ、ほら。お前が黙ると私はどうしようも無くなって、嫌なんだ。今まで押し殺してきた希望と底の方から足を搦め捕ってくる不安が、堰を切って溢れ出て、止まらなかった。優しく背中を撫でてくる手が、やっぱり嫌だった。まるで自分が善悪も解らなかったころの赤ん坊に戻ってしまったみたいで、情けなくなった。オレンジの味はもうしなかった。代わりに、水分を与えてやったはずの喉がツンと傷んだ。
 神様なんているもんかと、思った。

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