【短編小説】君のいた夏【創己祭2021】
「伊野並くんって、人間の心ない感じするよね」
彼女はそう言ってからりと笑うと、静かに揃いのネックレスを机に置いた。
「今までありがとう」
チリン。ベルの音をおまけにゆっくり閉まった入り口の扉。意図せず溜息がひとつ零れ、僕は一人、ふるびた喫茶店のテーブル席で熱いスマホ画面を叩いた。
愛だとか恋だとか、イマドキの大学生が求めるそういうものに興味を持ったことはなかった。必要と思ったことも。それは井下と付き合ってからも変わらなかったし、別れた今この瞬間も変わらない。だから、恋人ができたからといって特に生活に変化はなかった。自分の生きる人生に、他人が介入してくること自体に違和感があった。自分という存在を踏み躙られて、胸の奥がざわざわと揺さぶられる。立ち入りを許さないそこに誰かがいることの違和感。他人を尊重することができない自分の、惨めさ。
そんな僕も含めて、人間は皆、気持ち悪いなと、思っていた。
だから、未だに僕の人生には僕しかいない。僕だけの人生。
全くもって人間らしくないそれは、果たして人生と呼べるのだろうか。
*
通い慣れたファミレス。
チープなテーブルの上にはたっぷり汗をかいたクリームソーダ。
長い梅雨が明けた大学二年の夏は、親友・伊野並樹の淡い恋バナで始まった。
「まぁ、僕に人間の心がないのは今に始まったことじゃないから」
「ははっ、出た、自虐癖。小春ちゃんと別れて自暴自棄になってる?」
「そうだったらまだよかったかな」
「しょうがねーな、フラれた伊野並クンのために、ここはおれの奢りってことにしてやるよ」
樹とは中学からの付き合いで、今じゃ授業の出席を肩代わりし合うくらいの仲だ。昔から変わったやつで、勉強にも飯にも運動にも、放課後のカラオケにも無頓着だった。顔面だけは整っていて、よく女から声をかけられていたのを覚えている。彼女ができても、放課後はほぼ毎日おれと帰っていたし、週末にわざわざ彼女のために出かけるようなやつでもないから、すぐに愛想尽かされていた……が、次の月には違う女から呼び出されて。宝の持ち腐れとはこのことだと、思春期のおれは大層羨ましがっていた。
「クリームソーダ二本だけだろ」
「こういうのは値段じゃなくて気持ち!」
腑に落ちないような顔で首を傾げる親友は、やっぱりヒトの心を持たないのかもしれない。
温くなった炭酸がじわりと喉を潤した。
*
成瀬という名のうるさい腐れ縁野郎と分かれて、照る西陽に目を細めながら帰路を急ぐ。
成瀬。下の名前は、四乃。女みたいな名前だと中学の時は揶揄われていたものだが、当の本人はそれを気にする様子もなく、自身のアイデンティティの一つとして受け入れて、好きに生きているようだった。そうやって他人と深く干渉しないあいつと過ごすのが心地よかった。成瀬は、必要以上に他人に干渉しようとしない、他者を尊重できる人間だと思う。相手のことをしっかり受け止めた上で最適解を見つけるのが上手い。交友関係も広くて、典型的な「人に愛されるヤツ」だ。
僕もそう生きることができれば、どれほど良かったか。
誰よりも人間らしく生きるあいつのように変わらなきゃいけないと思ったのは、いつだっただろうか。
*
二〇四〇年現在。母さんや父さんの時代から、日本は何も変わっていない。
政治家は男性が主流だし、食料廃棄は改善の余地が見られないし、貧困国では日々小さな命が失われている。政府が動いていないわけではない。命令と市民の意向とがうまく噛み合っていない、それを主張する市民もいない、そんな現状。
正直、なんのために生きているのか、わからない。
通りすがりの家族連れが、新しく迎えるペットがどうの寝床がどうのと話しているのを聞いて、実家に残してきた三毛を思い出す。猫は好きだ。人並みに。もふもふで、暖かくて、何よりとても癒される。
はあ、と懐古のため息に反応するように、どこからか薄汚れた子猫が脚へ縋り付いてきた。
守ってやらなきゃ。なぜか咄嗟にそう思った。気付いたら、家に連れ帰っていた。
バタン、と閉まった自宅の扉の重い音で我に返る。
「み」
首輪はしていない。身体中の毛が汚れているが、衰弱しているわけでもない。
僕に飼うだけの余裕は、ない。
スニーカーを脱ぎ捨てて、風呂場に直行した。ぬるいお湯を張った洗面器から掛け湯をしてやる。そっと身体を拭えば、たちまちフェイスタオルが薄汚れた。灰色の毛玉は、白い毛玉へと早変わりした。生えそろったばかりのように思われる毛は少し撫でただけで水分が抜ける。火傷をしないように、ドライヤーの冷風で優しくドライをした。
もう遅いから、動物病院は明日にしよう。
パチン。
み。
部屋の電気を消すと、重い瞼がすぐに落ちてきた。
枕元の小さなお客に就寝の挨拶をする。
寝相は悪くない方だ。
翌朝。
部屋中どこにも、子猫の姿はなかった。人並みの心配はしたが、それも昼過ぎには忘れていた。
その日バイトの帰り道に落ちていたのは茶色い小さな雑種犬で、また次の朝には消えていた。
代わりにベランダに珍しい色した野鳥の雛が迷い込んだ。野鳥は保護協会がうるさいから流石に家に入れてやることはできなかったが、少しだけ餌をやった。次の日は月曜日で、案の定ヒナはいなかった。不思議なことばかり。いかにも成瀬が好みそうなオカルト話だ。二限の前に話してやろうと、急いで朝の支度を済ませた。
その日、大学に成瀬の姿はなかった。
*
「えー、それでは集中講義の二日目、始めたいと思います」
いつからか、つまらない講義を一人で受けている。もう二週間だろうか。
活動範囲の限られたキャンパスで、あんなに目立つ奴を一度も見かけないなんて有り得ない。きっとなにかの事情で欠席続きになっているんだろうと思いながら、ノートに文字を走らせる。まぁ、浮浪者の代表格みたいなやつだし、いつかケロッと戻ってくるだろう。学生が休学しているかどうかなんて、学務課に確認すればわかる話なんだろうが、そこまで深入りする必要なんてないと、心のどこかで冷めた自分がいる。
いつだってそうだった。自分が他人に愛情を向けることができない人間だということはとうの昔にわかっている。恋人も友人も長続きしたことはなかった。一人で生きて、一人で死んでいくんだろうな。母さんには悪いけど。
*
「すみません、一晩、泊めて頂けませんか」
「は?」
金曜、午後九時。
細く開いた玄関ドアの隙間に覗いたのは、小さな頭。
ぴかぴかの黄色い安全帽に、重そうなランドセル、声変わり前の声帯。母さんと成瀬しか呼んだことのない家の来客三人目は、知らない男子小学生だった。そのまま外に追い出すのも可哀想だから仕方なく入れてやる。
最近、後先考えずに行動することが多くなったなと、思う。一人用のローテーブルに、麦茶を入れたグラスをひとつ置く。氷がカランと鳴った。出していた缶ビールを仕舞って、少年の向かいに腰をおろした。
「きみ、名前は?」
「……言いたくない」
「なんでウチに来たの」
「お、お母さんと喧嘩、して……」
曰く、帰宅後、母親と喧嘩をして怒りに身を任せて家を出てきてしまったらしい。
少年はゆっくりと事の顛末を語ったが、まだ気持ちの整理がついていないのか、同じようなことを繰り返し辿々しく口にするだけだった。幼さの残った顔立ちの少年は、重く口を開く。
「自分がなんのために生きているのか、わからないんだ」
いつもの自分なら、そんなの誰も分かりはしないよとあしらう所だろうが、少年の眼差しは真剣そのもので、こちらも真剣に聞かざるを得なかった。
自分の半分も生きていないように思われる少年の、厳かな話口に引き込まれていった。
昔から、家の決まりに縛られてばかりの人生で、もっと自由に生きることができたらって、ずっと思ってた。
こういう時になんて声をかければいいのかわからないのが、僕のよくないところだ。
結局は自分語りのお節介になってしまうような気がして、話をするのは憚られるが、今夜はなにか違った。しばらく会えていない親友と、出会った頃の話。無為に生きた中学時代の話。生産性のない高校時代の話。何に対しても本気になれない自分の話。自分しかいない自分の人生の話を、誰かにしたのは初めてだった。それから、自分の理想像の話も。素敵な生き方をする親友の話は少し照れ臭かった。今まで誰にも明かしてこなかった胸の内も、なぜだか、彼になら見せられると思った。いつの間にか少年もすこし笑うようになっていた。それから互いに見えないこれからのことを話したり、相談紛いの議論をしたり。気付けば時計はとうに零を回っていた。それを見た少年は、徐に口を開く。
「もうこんな時間か……あの日もこうやって君とおしゃべりできたらよかったなぁ」
「……あの日?」
「おれにとっては、もう十五年も前のハナシ」
ぶわっ。
部屋の空気が一気に巻き上がる。
瞬間、そこに少年の姿はなかった。
代わりにいたのは、小さな毛玉。
「この前きみが拾った白猫も、雑種犬も、鳥の雛も、ぜんぶオレだったんだよ」
*
それから、夏の晴れた日の夜に幾度となく来客が訪れるようになった。
夏の夜空はどこまでも深い闇で、それが怖くて、けれどどこか、心地よかった。
「お兄さん、今日も寂しそうだねぇ」
その日は、すっかり夜が更けた頃。昼間より幾分か涼しいベランダで慣れない晩酌をしていると、どこからともなく声をかけられた。
今日は、中学生くらいの黒髪の少女。
月空に浮かぶコイツの名を、僕はまだ知らない。
本人が言うには、コイツは最近地球へやってきた異星人で、生命あるものなら何にでも姿を変えられるという。どういうわけで僕とこうやって話をしているのか、聞いても答えてくれなかった。もしかしたら目的なんてそもそもないのかもしれない。
成瀬が顔を見せなくなってから一ヶ月。
元から無味乾燥だった日々を、よりつまらなく感じるようになった。
僕にも人の心があったということなのか。別れ際に告げられたあの言葉を思い返す。それを感じ取ったかのように、少女はまたくつくつと笑った。
「人間の心ってなんなんだろうねぇ」
雲が白く煌めく月を隠して、少女の影だけが揺れた。
ふわりとワンピースの裾を翻すと、今度は長身の男のシルエットが目に映る。今度の声はどこか落ち着いていて、目を瞑ると寝入ってしまいそうでもあった。
「一匹で寂しそうにしてた子猫を拾ってくれた、小さな子犬にミルクをくれた、弱った雛に餌をくれた。いなくなった友達が心配で、おうちやバイト先に行ってあげた。いつ戻ってきてもいいように、自分が取ってない授業のノートもつけてあげた。それから、オレとお話ししてくれる。君はナルセって人が人間らしい生き方してるって何度も話してくれるけど、オレは君の方が十分人間らしいと思うし……それに、他人の生き方に執着しなくてもいいんじゃないかな」
「……執着?」
「少なくともオレは、君のおかげで、オレらしく生きることができる。だから今度は、君が君らしく生きる番だ。君の人生は君のものだ。他の誰のものでもない。それだけだよ」
雲が引くと、アイツはもういなくなっていて、代わりにどこかでコオロギがリィンと鳴いた。
このときはじめて、喉の奥で甘いチューハイの味がした。
缶の残りを呷る。
「……温いな」
*
「それでは、次のニュースです」
薄いテレビの中で、紺色のスーツを纏った男性キャスターがペラリと原稿をめくる。
僕ひとりの部屋に、刺激のないニュースが小さく響く。狐色のトーストを一口齧って、甘酸っぱい真紅のいちごジャムを少し塗りつける。
あの日から、全てが変わったような、変わっていないような、そんな感覚。
あれ以来、アイツが夜に訪ねてくることはなくなって、成瀬は翌週にケロッと、中途半端なところから集中講義へ顔を出してきた。
夜が途端に静かになって、夏が、パタリと途切れてしまったような気がした。
その分昼がうるさくなったのは言うまでもない。
机の上で、マナーモードのスマートフォンが震えた。
「……時間、まだだよな」
「え? ああ、上映開始はまだ全然だよ。樹起きてるかなと思ってかけてみただけ!」
「ご心配どうも。僕はお前が遅刻しないかの方が心配だったけど」
「失礼だなぁ、おれだって親友との約束をすっぽかすようなにんげんじゃないよ」
「どうだか。まあ、ちょっとくらい抜けてる方がお前らしいって気もするよ」
「だから遅れないってば!」
アイツのおかげで、少しは生きるのが楽しくなった。
日々が彩られた。
それでも相変わらず、群れる人間の心理は理解し難いし、他人に時間を費やすことの意義は分からない。でも、そういう僕らしさも、まぁ、嫌いじゃないと思うようになった。好きになるにはもう少し時間が要りそうだけれど。
僕の人生は、僕のものだ。他の誰のものでもない。
自分が主人公の物語。
どう綴るかは、自分次第。
今の自分の生き方を肯定していこうと思えるようになったのは、アイツが側にいたからかもしれない。
僕は僕らしく。
これが僕の、青春記録。
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