【短編小説】刹那の夜【創己祭2021】

 あー、あー。
 入ってるかな、えーっと、二〇四〇年八月二十二日、記録。


 かの学者は昔、おれたちの星がいつか生活することができないような環境——例えば大規模な人口爆発や温暖化による環境劣化、生態系バランスの崩壊などだ——に陥ってしまった時のために、他の星へ生活拠点を移すことを第一に考えたという。その移住案における地球視察部隊がおれたちだ。先祖代々、おれの家系は地球この星で生活している。それがいつまでなのかは、おれたちの知るところではない。地球の中でも比較的平和で、良い意味でも悪い意味でも平凡である日本この国にご先祖さまが移り住んでから、もう二〇〇年になる。
 五歳のとき、おれは未来で迷子になってしまったことがあった。おれたちは、他の惑星でも生きられるように、生存本能が進化して、特に若いうちは時間旅行のような形で未来を覗くことができる危機管理能力を持っている。それは一種のデジャヴで、時空移動をしている本人にも現在と未来の境はわからない。これは、おれが無意識のうちに二〇四〇年へ飛んでしまっていた時の話だ。

 その日は初めてネコに姿を変えてみた日だった。柔らかい身体を自由自在に動かすことができる楽しさに、おれは大興奮だった。近くの空き地を満足するまで走り回ってみたり、普段は入れないような狭い路地裏を探索してみたりしていた。まるで小さな冒険家にでもなったような気分で、もふもふの毛が汚れることなんて一切気にせず、そこらじゅうを這いずり回った。途中で出会った大人猫さんはいつも自分が見ている何倍も大きくて流石にびっくりしたが、みゃあと挨拶してみると、そろそろ日が暮れるからおうちにお帰り、とまだ子猫のおれを心配してくれていたようだった。
 ウチまで急ごう、と走り疲れた脚で通りへ出た。大人猫さんが言うように、もう夕日は地平線に溶けていくところだった。大通りからは外れた道で、少ないが地球人も何人か歩いている。
 彼に出会ったのはそのときだ。今でも鮮明に覚えている。色のわからない種族が「鮮明に」というのもおかしな話だが、まあ聞いてほしい。

 はあ。何かを諦めるような、憐れむような、そんなため息。声の主があまりにも苦しそうで、寂しそうで。おれは放っておけなくて、そのデニム生地の脚に駆け寄った。大丈夫だよ、おれがいるから、寂しくないよ。
 散々走り回った身体は泥や煤で薄汚れていて、その証拠に、デニムの、おれが擦り寄ったところはまるく汚れてしまっていた。それがよっぽど嫌だったのか、青年はひょいとおれを抱え上げると、夕日を背に駆け出した。向かい風。額の毛が頭の後ろへ引っ張られる。遊園地のコースターにでも乗ったような、ドキドキする感覚に駆られた。コースターなんて、ホンモノは知らないけれど。
 青年コースターはあっという間に終点へ着いた。ガチャガチャと大急ぎで鍵を開けた青年は、後ろ手に勢いよく扉を閉めた。その重い音が大きくて、びっくりして、声が出た。
 じい、とおれを見つめる青年の瞳は透っていてまんまるで、じっと見つめ返してみれば忽ち吸い込まれてしまいそうだった。
 そうしていたのも束の間、青年はまたバタバタと靴を脱ぎ捨てて、狭い浴室の床へそっとおれを下ろした。ぱちゃぱちゃとぬるま湯を汚れた身体にかけられて、少し怖くて、みみがぺたんと音を遮断する。おかしいな。いつもはお風呂が楽しくて何時間だって入れちゃうのに。これも猫の特性ってやつなのかもしれない。
 ふわふわのタオルで体を拭われる。タオルが汚れていくのが、おれにもわかる。優しく肌を撫でられるのが気持ちよくて、少し微睡んだ。
 弱くドライヤーを当ててもらうと、さらに眠くなってしまう。おれの瞼がとろんと落ちてきそうだったその時、パチンと音がして、急にあたりが暗くなった。おれはまた、びっくりして声が出た。どうやら青年ももうおねむらしい。枕元に畳んだタオルの上におれを転がすと、青年はもぞもぞと布団へ潜った。
 さて、どうしたものか。このまま眠ってしまいそうだが、日が沈む前に家へ帰るようにという言いつけを無視して朝まで帰らずにいれば、どれだけ怒られるかわからない。おれは怒られるのがお勉強するよりも嫌いなんだ。青年が寝息を立て始めたのを確認してから、おれは小さな小さな蟻の姿になって、ドアの隙間から青年の家を出た。外に出てまた猫の姿に戻る。目の前には知らない風景が広がっていた。当たり前だ。彼に連れられておれはここまでやってきたのだから。これは困ったぞ、おうちへの帰り方がわからない。わずかに残る記憶を頼りに道を歩いてみるが、どこまで行ってもおうちへは辿り着きそうになかった。
 あっという間に朝が来た。早く家族に会いたくて、寂しくて、悲しくて、おれはもう自分がどんな姿をしているのかさえもわからなかった。そこから先のことは、実はあまり覚えていない。彼に元の場所まで案内してもらおうと思ったが、途中で疲れて寝てしまって、気付いたらまた彼の家。彼がまた苦しそうに眉間に皺を寄せるから、おれはくぅんと鳴いて、その頬に擦り寄った。鳥になって空から家を探そうとしたが、飛ぶ気力も体力も途中で尽きて、おれは見覚えのあるベランダへ落ちるように迷い込んだ。助けを求めてそうしたのか、寂しそうな彼を元気付けるためにそうしたのかは、もう覚えていない。
 何がきっかけで現代へ戻ってこられたのかは結局分からず終いだ。どうやら近所の道端で倒れていたおれをたまたま両親が見つけてくれたらしいが、当時三日の長旅で疲弊していたおれはその時のことを全く覚えていない。加えてその時は、ただおれが家出をしたということになっていて、おれ自身も未来と現代の境が分かっていなかった。今になってようやくデジャヴとして認識できたのだから、無理もない。
 そういえば、だいぶ前にも未来旅行のデジャヴを感じたことがある。未来旅行をしたのは家出事件の数年後、あのときは恐らく、日中だけ旅行していたんだろう。全く不可思議な能力だ。

 齢九つ。家での勉強に飽きたおれは、よく街へ出て冒険まがいのことをしている。最近は、街の外れにひっそりと佇む喫茶店がお気に入り。ここに入り浸るようになってもう二週間。すっかりここの看板インコだ。もちろん夜になれば家族の待つ家に帰るのだが、日の出ている時間は、鮮やかな鳥の姿になってマスターの隣で歌を歌う。日課のようなものだ。両親からは、面倒が起きてからでは遅いから通うのはよしなさいと言われたが、マスターの自家製シフォンケーキが堪らなく美味いのだから、仕方がない。
 喫茶店は小綺麗な老父がひとりで切り盛りしていて、その雰囲気の良さから、若いカップルの間でデートスポットの一つとして話題のようだった。店に訪れるのは、落ち着いた雰囲気が似合う大人びた男女が多い。おれは、マスターの淹れる香ばしい珈琲の香りを肺いっぱいに吸い込みながら、この間教わった地球人の異性愛について思い出していた。そもそもレンアイというものもまだよく分かっていないおれに、セクシャルの話をされてもなぁ、なんて思ったが、先生——地球人の学校に通うにはまだ順応力が足りないからと、おれは、片親のきょうだいにあたる同じ星の血筋を持つ先生から勉強を教えてもらっている——は地球で生きていく上で大切なことなのですよと言って、難しいことまでおれに教えた。先生は親よりも口うるさくて、少し苦手だ。前に勉強をほったらかして逃げ出したときは、夕飯を食べさせてもらえなかった上に、三時間もお説教をされた。おかげでおれの大切なベッドタイムが短くなってしまった。次の日は寝不足で何をしても楽しくないし、もう最悪だ。
 静かな店内は、そんなおれにとって至福の場所だった。ここまでは先生も追ってこない。なんでかはよく知らないが、おれたち異星人は大人になると自由に姿を変えることが出来なくなるらしい。出来て別の地球人程度。魚類や鳥類はもってのほか、地球人にんげん以外の哺乳類にはなれないようだ。生物の時間に習った成長ホルモンだかなんだかが関係しているみたいだが、難しいことはよく分からない。静かな店内に訪れるのは、静かな人たちばかりだった。ここにはたくさんの出会いがある。お仕事の契約が成立する人、恋人ができる人、昔馴染みと数十年来のお茶をする人。同じ数だけ、別れもある。今日もまた、一組のカップルがお別れをしたようだった。チリンと鳴るドアベルが、その虚しさを助長しているような気がした。テーブル席にひとり残された男は、出て行った女性を気にも留めずただスマートフォンを眺めるだけだった。おれはそんな彼の様子を見て薄情な男だと真っ先に思ったが、彼のどこか物悲しげな表情を見てもなお、そう思うことはできなかった。

 その暗愁を映した男の名前は、伊野並いのなみたつき
 おれの親友だ。

 当時の時間旅行に気付かないまま、十二を迎えて家族から離れたおれは、近くの公立中学校に通うことになった。初めてのひとり暮らし。初めての、地球人としての、地球暮らしの研究のための生活。おれたちが授かった、姿を変える能力を簡単に使うことができない日常。正直なところ、おれはそんな堅苦しい生活が嫌で、もっと自由に生きたくて、最初の頃は学校をサボる日もよくあった。
 休んでばかりのおれの家に、溜まった配布物を届けに来た同級生がいた。彼は、席替えをしてから二ヶ月続けて席順がおれの後ろで、いつの間にかおれの分のプリントを管理する係になってしまったという。それは申し訳ないなと口先で謝ると、なんで謝るんだと彼は不思議そうに聞いた。
「なんでって、おれが学校に行ってないせいで君に迷惑がかかってるから……」
「迷惑? 迷惑なんかじゃないよ、僕が好きでやってるだけだ。誰かに言われたからとか、そうしないと他人ひとの目が痛いからとか、そんなんじゃない」
 不登校のやつにかける、当たり障りのない会話。
 それがおれと樹の最初の会話で、俺がコイツになりたいと思った最初の出来事だった。

 樹とは中学そのころからの付き合いで、今じゃ授業の出席を肩代わりし合うくらいの仲だ。昔から変わったやつで、勉強にも飯にも運動にも、放課後のカラオケにも無頓着だった。顔面だけは整っていて、よく女から声をかけられていたのを覚えている。彼女ができても、放課後はほぼ毎日おれと帰っていたし、週末にわざわざ彼女のために出かけるようなやつでもないから、すぐに愛想尽かされていた……が、次の月には違う女から呼び出されて。宝の持ち腐れとはこのことだと、思春期のおれは大層羨ましがっていた。
 地球人ヒトの心を持たないおれの前で、自分には人間ひとの心がないんだと自虐を軽々しく口にする樹が、おれは変わらず羨ましかった。樹と出会った当初は気にしていなかった過去の時間旅行が、高校大学と時を共にしていく中で段々と形になっていった。そして今日、樹の小春ちゃんとの別れ話を聞いて、確信した。
 あのとき、俺に世話を焼いてくれたのは。
 あのとき、悲しそうに空を見つめていたのは。
 温くなった炭酸が、じわりと喉を潤した。
 おれは、樹のように強く生きたかった。種の存続だとか、研究だとか、自分の枷にいつまでも悩み続けていないで、樹のように自由に生きたかった。あの日、初めて樹と話した日、コイツは縛られない生き方をしているんだなと思った。何事にも縛られない、自由な生き方を。

 味のしないクリームソーダ二つ分のお金を払って、樹と別れた。ああ、そういえば、来週から研究記録のためにしばらく大学を休まなくちゃいけないんだった。すぐにスマホで樹に連絡を入れようとして、やめた。
 必要性を感じなくなってしまったから。地球人にんげんでないおれが樹と一緒にいることの必要性。おれのエゴで樹を縛り付けているだけのような気がしてならなかった。
 それから二週間強、研究記録として家族や親戚の学者と話す度に、おれがにいることの意味を考えた。答えは「研究」以外に何も出なかった。それから、自虐癖のある親友のことを考えた。
 樹は、自分の人生を生きている。
 人生じんせいの主人公は自分自身だとはよく言ったものだが、樹は、樹が主人公の人生ものがたりを生きている。
 羨ましかった。
 おれには自分のジンセイというものがないから。他人の機嫌を損ねないようにテキトーに笑って生きるようになってしまったのは、俺が地球人にんげんに生まれなかったからだろうか。
 種に縛られて生まれてきたおれは、種の存続のために、お偉いさんのご機嫌伺いスキルを持って生まれてきてしまったのかもしれない。

 そうぐるぐると考えてしまうと、もうダメだった。
 今の自分の生き方が、これでいいのか、わからなくなってしまった。
 種のために身を削り、ジンセイを捧げることが、果たしておれがおれであるために必要なことなのだろうか。

 自分を見失ってしまいそうで怖い。
 誰かに自分を肯定してもらわなきゃ、生きていられない気がした。
 今にでも、死んでしまうような気がした。

 真っ先に頭に浮かんだのは、自由に強く生きる男の顔だった。
 ああ、お前のように生きるには、どうすればいい。

 考えるが先か、身体が動くが先か。
 気付いた時にはもう、彼の元へ、駆け出していた。

 成瀬なるせ四乃よつのとして話そうかとも思ったが、普段ヘラヘラと接してしまっていることもあって、自分の悩みを打ち明けるのにそれはなんだか小っ恥ずかしかったから、久しぶりに姿を変えて行くことにした。もう成長期も終わってしまった身体だから難しいかとも思ったが、年少の地球人にならまだ余裕で変われるようで、少し安心した。
 ピンポン、とチャイムを鳴らしてから気付く。
 あ、七月のこの時期、小学生はもう夏休みなんだっけ。
 やっぱり、大人になってからの変身はうまくいかないらしい。いや、おれの頭が足りなかっただけか。

 樹は、取って付けただけの言い訳を怪しみながらも、おれの話を聞いてくれた。そして、おれの知らなかった樹の話をたくさん話してくれた。無為に生きた中学時代の話。生産性のない高校時代の話。何に対しても本気になれない彼自身の話。彼しかいない彼の人生の話。ときどきおれの話もしてくれた。話の中で、樹は、おれのようになりたいんだと言った。

 昔から、他人に興味が持てない人間だった。自分の人生を他人に口出しされるのが嫌で、大勢でいるのとか、集団生活とか、日本的な……人間的な生き方が好きじゃなくて。
 でも、同時に、そんな冷めた自分も好きじゃなかった。他人と関わることが嫌いな自分が嫌いだったんだ。だって、人間らしくないだろ、そんなの……。はっ、この間別れた恋人にも言われたんだ。僕には人間の心がないんだって。でも、ホントにそうなんだよね。わかってる。
 もっと他人を尊重してやれるような人間になろうとも思ったんだ。もっと、人間らしく生きなきゃ、人間として、こうやって生きてる意味がないと思って……。人間っていうのは、他人に興味を持つべきだし、他人を愛するべきだ。一人じゃ生きていけないっていうけど、そういうこと。他人に興味を持てないような人間は……他人を愛せないような人間は、人間として生きていけない。
 僕の友達に、人間らしく生きるのが上手な奴がいるんだ。こんな言い方、変かもしれないけど。
 そいつは、他人とちゃんと向き合って、受け止めて、それから先のことを考えるのが上手いんだ。……成瀬って言うんだけど、他者の意見をそれぞれ尊重して、でも自分の意思はしっかりと持ってる。僕も成瀬みたいな生き方がしたいと思った。
 他人に愛情を向けることが下手くそで、人間関係も長続きしたことないような僕の正反対の人なんだ、成瀬は。
 あいつみたいに変わりたいと思ってる。もっと人間らしい、素敵な生き方がしたいって、思ってる。
 あー……はは、どう生きたいかなんて、他人に話したことなかったから…………なんか、カッコ悪いな。ごめん、忘れていいよ。

 忘れることなんてできない。
 おれの物語を、そうやって評価してくれているなんて、思わなかった。
 おれが、縛られずに生きる樹に焦がれたのと同じように、樹がおれに焦がれているのが、なぜだかとても、嬉しかった。
 自分はなんのために生きているのか。
 その問いの答えは見付からず終いだが、それでいいと思えた。
 樹のおかげで、おれのテキトーな生き方は、意味を持った。
 自分の生き方を認めることができた。
 これが、おれの人生。
 おれがおれらしく生きることに、理由なんていらない。


 報告は以上です。
 あ、そうだ。今宵は満月だそうですよ。地球から視える月が、白い綺麗な円をしている。
 地球から見る星空は本当に綺麗だ。
 特にわたしは夏の星空がいっとう好きなんです。
 星雲が藤色に輝いていて、ところどころ金赤や梔子の色をした大きな星が見える。

 ああ、僕の夏が、彩られた。

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