映画「ある男」を観て
今日は映画を観て考えたことを書いてみようかと思います。
私は武蔵美を出ているのですが、学生時代は自主制作映画を撮ったりすることもあったくらい映画が好きでした。
授業をサボって、学内で映画をみることができるブースに入り浸っていることも度々。。
一時期、映画ノートをつけていたのですが、今日は久々にそのノートをつける感じで、書いてみたいと思います。
そして、算命学的な視点も入れてみようと思います。
ネタバレ含みますので、観てない方、観てからお読みください。
「ある男」
原作:平野啓一郎
監督:石川慶
自分の人生を丸ごと誰かと取り替えたいと思ったことはあるでしょうか。
そう思う方はきっと、人生の早い段階でそう思う場合が多いのだろうと思います。
「ある男」は、子供の頃に父親が人を殺してしまった現場を目にします。
そこから、自分を傷つけることでその償いをしようとします。
いつその自覚が芽生えたのでしょうか。
そんなことをしても意味がないこともおそらくわかっているでしょう。
彼の人生はそんなに長いものでもなかったのです。
最後は木の下敷きになって亡くなります。
亡くなってから、「ある男」が自分で名乗っていた人物とは別人であることが判明。
たまたま出会えた女性と、一緒になり、娘が生まれ、家族となった最後の3年9ヶ月。その時間はきっと、彼にとってはかけがえのないものであっただろうと想像できます。
そのことが多分、この映画の中での救いなのだろうと思うのですが、本当のところは誰にもわかりません。
戸籍の売買が実際にある犯罪であることは知られていますが、それを求める人間がいるから成り立つビジネスなわけです。
算命学の世界には、善悪の判断がありません。
皆、自分が持って生まれた宿命と、運命の中で、もがいて足掻いて、ただ生きていきます。
そのあり方に誰が良し悪しをつけられるでしょうか。
どんなふうに生きて、どんなふうに死ぬのか。
そこにこだわる人もいますし、どうでもいいと考える人もいるでしょう。
例えばこの「ある男」のように、親ガチャにハズレたように見える人生。
可哀想だと思うでしょうか。
私は大学生の時に、インドでひとり、1ヶ月半ほど過ごしました。
二つ理由がありました。
①人が思わず身を投げてしまいたくなる衝動に駆られると言われるガンジス河をこの目で見てみたいと思ったこと。自分がどう感じるのか知りたかった。
②日本とは全然違う文化、経済状態の国へ行って、そこで暮らす人たちの生活を実際に見てみたかった。そこで暮らす人たちがどんな想いでいるのか知りたかった。
なぜなら、日本で時々催されていた難民や戦争を切り取った写真展で、綺麗に着飾った人々が、貧しい状況の人々の写真をみて「かわいそう」だとか「ひどいわね」だとかと口にしているのを見ていて、虫唾が走ったからです。
本当にそうだろうか?
彼らは可哀想なのだろうか?
だから直接行って、彼らと話して、その生活のあり方を見てみたいと思ったのです。
結果、私の感想は、可哀想ではなかったです。
どんなに過酷な環境であっても、そこで生きる人間には喜怒哀楽があり、命の輝きがあります。
なぜなら、その日常が彼らの当たり前だからです。
私はそこで暮らす人たちの仕事を手伝い、子供達とクリケットをやって遊び、大人たちの仕事の状況や家族の話を聞きました。
人間はどんな環境にもそれなりに適応して生きています。
結局その環境は人間が作り出したものでもあるのです。
(大自然の中で一人で生きている人間には当てはまりませんが。。)
何かや誰かと比較したときに、初めて、可哀想なのかもしれないと思うだけです。
だけど、そう思っているその人自身だって、可哀想でないと、誰が言えるでしょうか。
一見自分よりもひどい環境や境遇にいるように見えるからといって、その人が可哀想とは限りません。
可哀想かどうかは、本人が決めることだと私は思います。
自分が可哀想だと思うなら、その人は可哀想な人です。
いつでも選択肢は自分自身の手の中にあります。
算命学には、後天的な流れを見るものの中に、大運(たいうん)というものがあります。
これは、人ぞれぞれ全然違います。
年運や月運、日運というのは、同じ干支の組み合わせが万人に回ってきます。カレンダーがそれです。
しかしこの大運は違います。
自分自身の命式から導き出されるもので、私は、これを、自分が自分に用意した人生の計画書のようなものだと考えています。
そこに見えてくる流れは、人として生まれ、生きていく上での本人の意図のようなものを感じるのです。
自分の戸籍を変えることは、自分の出生を変えるということです。
これは、一体どういう影響を及ぼすのだろう。
と、そこにとても興味が湧きました。
別の人間となって生きるということを長く続けるなら、そこになんらかしかの影響が出ないとも言い切れないような気がします。
もちろん、外側だけ入れ替えたって、自分自身の意識を入れ替えることができないように、元の宿命を変えることはできないのではないかと思います。
しかし、この大運というのは想念の世界を表していて、算命学におけるこの現実世界は、想念が先にあり、後から実存の世界で実際の物事として立ち上がってくると考えられているので、もし少しでも意識に変化が起こるのであれば、それは影響を受けることになるのではとも考えました。
戸籍を変えることで、意識に大きな変革が起きることは間違いないです。
人間というのは、本当にいろんなことを考える生き物だなぁと改めて思います。
家系というものの根強いしがらみについても、この映画は示しています。
人種。歴史。家系。
人は人として生まれる限り、自分が今ここに存在するために命を繋いでくれた先祖たちを無視することはできません。
その人たちが、どんな人物であったとしても。
算命学を学んでいくと、命式上、その家系のしがらみは避けて通れないことがわかります。
親ガチャとか簡単に言いますが、その親も結局、家系の流れの中で何某かの役割を果たしている存在なのです。
誰が悪いわけでもないのです。
それがわかっているから、こういう映画を見ると、時々深い感慨を覚えることができます。
どんな環境、状況でも、たとえ最後には自ら命を断つと決めた人であっても、命を煌めかせようと足掻くのが人間です。
結論。いい映画でした。
日本映画の真面目なヒューマンドラマって、私が日本人だからかもしれませんが、ちょっと重いところがあって、やや見るのに覚悟がいるのですが、この映画は抉りすぎてなくてよかったように思います。
全体的に押し殺した感情表現が、好みでした。
だって、誰のせいでもないですからね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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