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noteを書く

明らかに眠くて、書くことも思いつかないし、寝た方がいいなと思った。

4時間くらいしか寝てないんだから当たり前なんだけど、30分くらい座りながら目を閉じたら眠気だけは少しましになった。

働く前のニートのときに、昼夜逆転をなおすために買った。
布団にダイブする前に机でうつぶせになる中間択を作ってくれる。
過去の自分がこれをふと買っていなければ、22時にはもう寝ていて毎日更新が止まっていただろう。


書きたいことがなければ、書きたくない理由を考えればよいと気付いた。
毎日更新だけを続けたいなら、うんことだけ書いた記事を投稿すればよい。

自分がどんな欲求を持っているのかに丁寧に耳を傾けることは、自分に優しくすることと同じだ。
「どうしてそう思ったの?」
「どうしたいんだと思う?」
そうやって一つずつ自問自答することで、気持ちを整理することができる。
つまり「どしたん。話きこか?」と語りかけることが大事なんだけど、
頭の中に全身〇部の画像がだんだん浮かび上がってくるから最悪だ。

自分のことを客観的に見るのは得意な方だけど、セルフカウンセリングに持ち込む癖をつけるのはなかなか難しい。
「やばい、気持ちがしんどいかも」と思ったときは自分の気持ちをないがしろにしてることが多いので、『そのままのしんどい自分の気持ち』と『困っている人の力になりたい自分』の2つに心を分けて対話をしている。

今日はむしろセルフカウンセリングとかより前にそもそも眠気で思考が寝たいの一色だったので、30分の仮眠で解決した。



……
書きたいことがなければ、書きたくない理由を考えればよいと気付いたときに思い出したことがもう一つあります。
それは『綴り方教育』という小学生のクラス作りの手法の一つで、
作文や感想文など、自分の感じたことを文字に書いて発表することを通じて自分を受け入れてくれる環境をお互いに作っていくというものです。
もし、研究室に所属して、教育実習もこなしてと順調にいっていれば卒業論文はこれについて書きたいと思っていました。

大学1回生のときにこれの授業を受けたときに感銘を受けて、その先生の著書もいくつか読んだの覚えています。

その中に、書くことができない子どもの「○○が面白かった。」の1行感想文に対して、「○○のどこがおもしろかったの?」「○○はなんでおもしろかったんだろう。」「それはいつ誰とやったの?」と対話として子どもが口に出した答えをそのまま文字にすれば文章に厚みが出て「ほら、書けるでしょ」というやりとりがあります。

今日は僕の、今日はnoteもういいかな。という気持ちに口をはさむことでなんとかここまで書くことが出来ました。

小学2年生のころ。1年生と一緒に小学校を回って紹介するイベントがあったのだけど、僕より大きな1年生がヤンチャですぐにどこかに行ってしまって辛かった。
僕はそのイベントの感想文のタイトルを『イヤだったよ』としたのだけど、当時の担任の先生にそんな感想文はやめろと言われて『楽しかった学校しょうかい』のような感想文を書いたことがある。

あの頃の自分に「どうしてイヤだったのかな」と語りかける人がいれば、『正解を書く』感想文からもう少し離れて気ままな自己表現ができたろうになぁと切ない気持ちになります。

こういった反面教師をもう先生として活かすことが出来ないのだなぁと落ち込んだ時期もありましたが、その相手は、自分でもよかったのです。



今日も読んでくださってありがとうございます。
おかげでゆっくりと眠れそうです。

また読んでもらえれば幸いです。



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