見出し画像

ケロケロ・アイスクリーム

 歩行者信号の青が点滅していても、ワタシは走るどころか、早歩きさえしなかった。間に合わず赤になって立ち止まった時、彼からのLINEに4日ぶりに既読をつけた。

〈エリカさ、
 オレと付き合ってて楽しい?
 オレは、分かんない。楽しくないのかもしれない〉

 ワタシは彼のことが今も好きで、弁解しないとならない。それでも、何も打ち込めないでいると信号が青に変わる。
 酔った男女が互いを支えにしながら歩いてくる。横断歩道の向こうにはコンビニが見える。歩行者信号が点滅し再び赤に変わる。雨が降り出す。こうなったのはすべてワタシの怠惰のせいだった。

 翌日、大学から帰ってきて、シャワーを浴び終えたワタシは冷凍庫からアイスクリームを取り出した。素麺を食べる気になれないくせに、胡坐をかいて業務用のを抱える。
 親指で押し上げながら蓋を開けて、鈍く光る銀色のスプーンを表面に刺した。硬くてなかなか掬い出せず苛ついて、先端をぐいぐいと押し込むと少し斜めに突き刺さったまま、スプーンは線香のように直立した。
 ああ、ご愁傷さまだ。
 なんて思っていると、マスカラが滲みだす。
 スプーンを抜き取ると乳白色のエメラルドブルーが僅かに液状化し、表面についていた。冷えたスプーンの先端を食むとバニラの甘さがワタシの舌にじわりと広がり、ミントの清涼感が鼻を抜ける。もう一口食むと表面には土のようなものがこびりついていた。
 チョコミントはワタシの大好きな味で、今では彼も大好きな味だった。

 音楽ホールのように広い講義会場にいたのが彼で、ワタシは隣で居眠りをしていた。
 ラク単だから参加した講義のため、内容には興味が湧かず、窓から差し込む陽の光に机が照らされ、頬をつけるとほんのり温かく、そうなれば抗うのは最早、愚策だ。
 講義が終わりにやっと目覚めたワタシにリアクションペーパーなんて書けるはずもなく、狼狽えていると彼が声をかけてくれた。
 返礼として講義後にワタシは彼と居酒屋へ行き、お互い何となく息が合いそうだとわかり、気付けばワタシ達は夜の公園にいた。ブランコに揺れながらワタシはどれだけチョコミント味が好きかを熱を込めて喋っていた。彼はうんうんと、相槌を打ちながらくだらない演説を聞いてくれ、やさしい人だなと思った。

 ワタシは中学の頃、体重が75㎏あった。
 両親はおいしそうに食べるワタシを溺愛し、ワタシもパパとママの笑顔が好きで、なにより好きなものを食べている瞬間や自分を愛していた。
 でも、中学2年の時ワタシはワタシを愛せなくなった。カラダは醜い肉塊のようにしか思えず、やがて食べても味がほとんどしなくなった。それでも唯一はっきりと味を感じられるのがチョコミントのアイスだった。
 それはバニラの甘さやミントの清涼感を味蕾が感じ取り、脳に美味しさを与えているというよりかは、なにも気にせずチョコミントのアイスを頬張れた時の記憶をもとに疑似的に創造した味を脳内で再現していたんだと思っている。
 ワタシは、それでも縋るしかなかった。
 学校ではどこにいても食事ができず、団欒時は不必要に頬張った。ママとパパは笑った。嬉しかった。その時だけが幸せだった。だから精一杯演じた。実際は何を食べても味なんてわかんなくて、二人が寝静まるとすべて便器に吐き出した。それから薄暗い部屋でドアを閉め切ってワタシはチョコミントのアイスクリームを頬張った。
 過食症のおかげで、大学に入ると男子がワタシを見る目が変わっていることに気づいた。声を掛けられることが増え、同性の友達もできた。笑えることが多くなり、指の付け根の瘡蓋はゆっくりと消えていった。そしてワタシに人生で二人目のボーイフレンドができた。
 一人目は高校卒業直前に付き合い始めて大学に入る前、別れ話をすることもなく消滅した。それは本当に下らない理由だった。
 当時付き合っていた彼はアイスの蓋を開けた時に裏側を舐めとる癖があった。
 どうしてと思った。
 疑念が生まれるとかっこよかった横顔が急に醜く見え、甲高い笑い声や、キスをするときに当たるぼそぼその唇がやけに気になった。そしてワタシは嫌悪感を抱えきれなくなってしまった。

 でも、人生で二人目のボーイフレンドはやさしい人だった。あと少しだけパパに顔が似ていた。デートをして、手を繋いで、キスをした。唇は程よく濡れていた。
 でも、ペットボトルの麦茶を飲むとき、彼は飲み口を全部咥える人だった。
 それがどうしても幼稚に感じてしまった。
 最初に会った時、本当に同じ歳かと疑うほど彼は落ち着いていて、穏やかな人だった。だから恋人になりたいと思った。
 でも、飲み方赤ちゃんじゃん。
 どうして。
 あんなにやさしくて、趣味も合って、抱きしめられると幸せなのに、ワタシはどうしようもなく彼を許せないんだろう。
 抱えているうちにアイスは溶け、掘削が捗った。液状化した表面にはいくつかのクレーターができ、それ同士がくっつき、一つの大きな窪みとなる。
 勿論、いつもそう思っているわけではない。チョコミント味のアイスがいらない日だってある。
 だからくびれがあるし、フローリングに座り続けていればお尻の骨が痛くなる。大丈夫、ワタシは醜くない。もうウシガエルなんて言わせない。おいしくてスプーンがとまらない。悲しくて涙も止まらない。音叉を鳴らした程度の頭痛はアイスを口に頬張るスピードによって、シューゲイザーみたいな轟音になっていく。

〈ワタシは楽しいよ。
 好きだよリョウくん。誰よりも大好きだよ〉

 すぐに既読がつき、返事がくる。

〈そっか。
 ならよかった!
 あのさ、今、電話できる?〉

 スプーンを口の中に突っ込んだまま、身体の動きがとまる。
 唇の右端から濁ったエメラルドブルーが垂れる。
 落ちる。
 うわ、汚い。もったいない。

「ああ、またダメなのかな」

 もう朝の5時だった。
 ちゃんと愛したいのに、部屋はうっすらと明るく、ワタシはトイレに駆け込んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?