2022.08.10エッセイ「スナック楡の木」
短歌の賞をとったことがなく、SNSでバズったこともない。ぶっちゃけ、わたしの短歌をわたしの顔や名前を元々知らない人が読んでくれる機会は少ない。そんななか、引用歌は「死の短歌bot」さんを通じて全然知らない人たちに届いてるようで嬉しい。人に知られることで、愛着がわいた歌だったと思う。
歌と関係あるようで関係ない思い出をひとつ書き残しておきたい。この歌に登場する猫は実在していて、まりん、という名前でした。わたしにとって初めて飼った猫です。小学二年生の頃、近所で倒木にはさまってうごけなくなっているところを近所の兄妹と拾いました。
まりんは、白地に灰色の縞模様がはいった、いわゆるサバトラ白の猫でした。地元は漁師町だから元々野良猫が多いのだけど、いちばん多いのは白黒柄、二番目にありふれたキジトラ柄が多数を占めている。まりんは、そのころ街に現れ始めたちょっと珍しくてエキゾチックで気品あふれる、黄色い眼のサバトラ一族でした。
まりんに似ていると特に我が家でとくに言及されたのが、「ゆう子」です。ゆう子は、スナック「楡の木」で面倒を見られているという噂の、きれいな雌でした。線がほそくてしなやかで、バズる猫のような演出された媚びとは無縁です。雌猫のように気高いという比喩が今浮かんだけれど、これはわたしがゆう子という雌猫を見たからそう思うのです、おそらく。
でもわたしがゆう子を見かけたのは一度きり。ピアノ教室に行こうとした道中、スナックの置き看板をすり抜けて路地裏のごちゃごちゃした闇に消えるゆう子の姿が最初で最後です。
ゆう子は妊娠していました。
こちらを一瞥し、膨らんだ腹をアスファルトの地面に擦るようにしてゆう子は去りました。
▽▽▽
いつの間にかゆう子の話を聞かなくなり、私が小学校高学年のときにはまりんが家からいなくなりました。外飼いで喧嘩を繰り返し、生傷の絶えない猫だったので、たぶん、致命傷を負ってどこか人のいない場所へ消えてしまったのです。
そのうち、サバトラ一族を町で見かけることはなくなりました。ゆう子のおなかにたぷたぷ詰まっていた子猫も含め、一族は淘汰されてしまったのでしょう。
高校生のときには屋内飼いで雌のキジトラ猫「かりん」を迎えました。この猫はたぶん、認知症を患っていた祖父がどこかへ連れて行って放してしまいました。母と夜通し探したけれど、間違えて別の猫を捕まえて、結局見つからずじまいでした(この話もいつかnoteに書きます)。岡山で暮らしていた大学二年のとき、いまも飼っている雄のキジトラ猫「まる」が実家にやってきました。
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冒頭歌の夢を見たのは、その大学二年くらいのときです。
わたしはなにかの木の根が生えている森の地面をみていました。本体の幹は視界からフレームアウトしているのに、わたしはそれが楡の根だと知っていました。
地表にところどころ露出した細い楡の根。見ているうちに、これはまりんなんだとわかりました。疑惑は確信になって気持ちがあふれ、なのに、夢のわたしは「ゆう子ゆう子」と根にすがり始めました。わんわん泣きました。手のひらや頬で撫でていると、根がときどき脈を打っているのがわかります。すこしずつ地表にあらわれたり潜ったりしながら、まりんは根を広げていきました。
覚えているのはここまでです。自歌自註でしかないけれど、書いてみたかったので書きました。noteは薄目で読んで、どうか歌自体は自由に解釈してくださるとうれしいです。