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【職場改善note有料マガジン】No.0017・・・例えば差別的思考に支配されている者ほど「自分は〇〇だから~」という屁理屈を主義に主張したがる、というのはどうだ?

 自分という人間を「こういう性格だから」「こういう立場だから」と口先で主張したがる人いるでしょ? なんだそれは(笑) 他者に対して自分がどういう人間であるかを口先で理解させようとする人間は、ある種それは、「差別的思考」と捉えることが出来る。 一般的に他者を罵倒する言い回しとして、「〇〇のくせに~」という良い方をする場合、それもまた差別的思考と捉えることが出来る。 「違いを認める」ということができない人は、そういう偏った思考でしか物事を考えられない自分自身に問題があることを気付いていなかったり、気付いていてもその範囲を超える思考回路を持っていなかったりする。

 得てして思考範囲が狭かったり、言葉に対する認識が浅かったりする人は、「自分の価値観を疑う」ということを考えたことすらない。 おまけに、他者から自分の価値観を少しでも否定されると、簡単に感情を表出させる。 これは、バカであるかバカではないか、という短絡的なものではなく、目に映る映像、耳に入ってくる情報、手で触る感触、自分が感じる全てのことに対して少しも疑問に思わない平凡な感性か、それとも、必ず複数の観点から物事を捉え、自分の感じ取った物事を疑うことのできる非凡な感性か、という大別の仕方をすべきだとボクは考えている。

 一応ね、これでも大学時代に社会学をかじった経緯があり、世の中を俯瞰して見ることの重要性を尊重している。 しかもそれは、日本社会と他国、主にアメリカ社会との比較を中心としたものであり、それぞれの特徴を知る学びとなった。 「人種のるつぼ」と言われるアメリカ社会では、未だにスキンカラーの差別が根強く残っている。 日本では、かつては「学歴」が重視されてきた社会も、今となってはそれが仕事において人材の評価基準にはならないのだという新常識へと移り変わった。 

 さらに、先日発表された経済団体連合会(経団連)の話によると、終身雇用制を守り続けることが今後困難になることが明白であるということで、6月を目途に議論を重ね、今後の雇用制度の方針を改めて発表するとのことだった。 一つの会社で定年まで勤め続けることは、かつては賞賛されるべきものとして勤続年数に応じて退職金が支払われてきたわけだが、ズバリ経団連が懸念するのはこの「退職金」の在り方である。 

 現代社会においては、まだまだ正社員と派遣社員との間には大きな待遇格差があり、どんなに派遣社員が正社員と同等かもしくはそれ以上の能力高い仕事ができるとしても、どう頑張っても待遇は正社員のそれには到底及ぶことがない。 大方、面倒な仕事は派遣社員に押し付ければいいという解釈で仕事の割り振りがされているのは、どこの企業でも見られる傾向であり、「派遣社員」という肩書だけで、それぞれの派遣社員の能力そのものを低評価するだけでなく、それ以上の機会を与えまいとする現実がある。

 このことに対して不満を抱く派遣社員も少なくはないのかもしれないが、ボクからすれば、「変化を迎えるのはこれからだ」ということがほとんど分かっているため、今現在そうだからといって不満を漏らす意味はないと考えている。 できれば早めに変化を迎えてほしいものだとは思っているが、訪れた機会は全力で活かす。 それまでは、自分の思考を柔軟なものにするために、こうして発信活動を続けるとともに、本を読み、多角的な視点をもって物事を考えられるようにしていこうと思う。

 男のくせに!女のくせに!正社員のくせに!派遣社員のくせに!上司のくせに!部下のくせに! どんどん出てくる。 係長のくせに!部長のくせに!国会議員のくせに!公務員のくせに!警察官のくせに!医者のくせに!ガキのくせに!年上のくせに!年下のくせに! かつてはこんなことをボヤいていても国は回ってきたし、多くの問題が見過ごされてきても処分されるのはほんの一部の人間たちだけで、まだまだ目に見えていない隠された問題はたくさん潜在している。

 そうして、狭く浅い思考で線引きして言い訳すれば理解してもらえると思っているし、仲間内では通じるために一向にその考え方を改めようとしない、そういう人間はたくさんいる。 この世に悪が存在するのはなぜか。 これは非常に興味深い疑問だとボクは思っている。 悪を悪と認識していながらその手を染めてしまうのは、犯罪心理から見えてくるものがある。 バレなければいい、うまくいけば何の問題もない、前提にその思考があるから試したくなる。 しかし、事が発覚した後の事というのはそれほど深刻には考えてなくて、バレてしまったら諦めるしかないなんていう浅い考え方しかもっていなかったり、それでも逃げ切れるか試せばいいとしか思ってなかったりする。

 差別的思考が強い人間は、自分の立場を悪くしないために責任転嫁したり、自分は無関係だと言い張ったりして、とにかく立場上の保身に走る。 おまけに、手柄にこだわって評価されたがる。 満足いく金を手に入れた人間は、その次に名誉が欲しくなる。 しかしそれは、金を追うことが目的でしかなかった人間の欲求であって、全ての人間がそうであるわけではない。 なぜなら、99%の人間は、毎月いくらかの給料をもらわなければ生活ができず、生涯名誉なんてものを欲するに至らないからだ。 それでも、多くの人たちがお金のために仕事をしている。 背負っているものは人それぞれ違って当然ではあるが、家庭を持つ人は家族のために仕事をしていると言いたがるだろう。

 しかしそれ自体は、「何のために仕事をしているか」という問いに対する本質的なエゴでしかないとボクは思っている。 なぜなら、家族ある人間でも、保身に走り、会社を裏切り、家族を裏切る人間もいるからだ。 毎月給料をもらうために会社にしがみついている人は、おそらく、貰っている給料以上の仕事を生み出すことは考えないのかもしれない。 無駄な事ばかり指示する人間も、それにただ付き従う人間も、日々の業務が無駄の上塗りになってしまっていたとしても、何の疑問にも思わない。 だってそれが今までやってきたことだから当然それが当たり前だと思っても不思議はないからね。

 だからね、もし、組織の力を使うんだったら、訳の分からん言い訳をさせないように行使するべきだと思うんだよね。 でも、権力や権威というものは、それを持つ者が自分のために行使するようになっている。 それも、もう意味を持たなくなる。 そういう社会がやってくる。 ただ、一度悪化した組織を浄化するためには、1本の木を育てるほど年月がかかる。 およそ平均122日の休日以外を仕事の日として、243日は毎日のように問題解決と創造を続けなければ浄化はできない。 黙ってたって問題は次々生じるんだから、それを止めることはできない。 それにもかかわらず、ちょっと会社の待遇が悪化すると仕事の精度を下げて言い訳をするようでは、腐るところまで腐る。

 会社組織はミカン箱と一緒で、特に上の人間が腐っていると腐敗は末端の人間にまで進んでいく。 立場を重視するのであれば相応の動きを見せなければ話にならない。 でも、立場や肩書を一切排除した上で議論の場を持とうとするほどの謙虚な姿勢であるならば、意外と人は動いてくれる気がする。 その時初めて、感謝して仕事ができるようになると思う。 簡易的なものではダメだ。 上っ面の議論では腐った根っこを掘り起こすことはできない。 形ばかり取り繕うようなことを続けてたら、本当に会社が潰れる。

 ボクが今働いている派遣先企業も、このままではもってあと5年だと経営トップが発言したそうだが、現状を見て言っているのではなく、5年以上先が見えなくなってしまったことがそう言わざるを得なくなった理由だろうと思う。 個人にとってのみ都合の良い解釈というのは、結局組織を腐敗に追い込むことになるということを、まず正しく認識すべきだと思うんだよね、そうなる前に。 借金だって、返さずに放置し続けれは年利何%で雪だるま式に増えていくでしょ。 利息は、問題を放置することにも発生するものだと考えておいたほうがいい。 状況はただ悪化するのではなく、加速的に、だ。

 これから20年30年と生きていかなければならない現職の従業員たちが数千人もいるというのに、会社という箱が消え去るだけでみんなが路頭に迷うことになる。 いや、同系業種なら求人はあるのだろうから、それほど深刻ではないのかもしれない?! ボクはね、「専門的な知識や資格」というものにドップリと身体を預けてもいいものなのだろうかという考え方がある。 そうでなければ幸せになれないとか、資格があれば食いっ逸れないとか、そういう考え方がいつまでも通用するとは思えないんだよね。

 狭い世界の中で生きることを望むのも、それは一つの生き方なのかもしれないし、過去そういう人たちがいたからこそ社会は保たれたということは真実と言える。 反対に、極端な話、労働人口のうち過半数の人たちが会社に属さずに生計を立てて生きるようになれば、国家は亡ぶとも言える。 おそらく、これまでの学校教育は企業存続のためのものだったのかもしれない。 いい大学を卒業すれば、一流企業に就職できる。 資格を持っていれば食いっ逸れることはない。 そういう概念が戦後70年の日本に通用したのかもしれない。

 しかし、フタを開けてみれば、現代社会においては東大卒のニートが現実に存在し、会社勤めすることを嫌い、親のスネをかじり、遊んで暮らそうと考えている者たちがいる。 そんなバカ息子の両親はさぞ悲しんでいるに違いない。 下を見ればキリがないのは確かだが、そんな彼らに比べれば、どんな形であれ今を働いて生きている人たちのほうがよほど立派だと思えてくる。 アルバイトだろうとパートだろうと派遣社員だろうと、どんな仕事であれ。 ただ、働いているからといってただそれに満足するのも変な話で、どうせ働くなら、金を気にしない、給料以上の仕事をしたいものだ。

 「働く」という概念が向こう20年は存在し続けるかもしれないが、いずれ人工知能の発達による自動化社会が確立される頃には、人々は働かずとも生活していけるようになるし、国政もおよそそれを後押しする形で変化していくものと考えられる。 ベーシックインカム制度は現実のものとなると仮定すれば、今からそれまでの過渡期、働くということが最後の経験になるかもしれないわけだ。 働かざるもの食うべからず、という諺も「過去にはそんなふうに言われてたらしいよ?」と言われるようになるのかもしれないね?

 それでも、今を生きるボクたちにとってはまだまだ先の話で、どうせ今後何年も働いて生きるのだから、仕事上、面倒で生産性のない無価値な作業はどんどん排除して、やり甲斐を感じられる仕事を自分たちで生み出すことに重点を置いて、楽しまなきゃ損じゃないかって思うんだ。 既存の概念が本当に正しいとは思ってないはずなのに、自分で勝手に制限して思い込んで、無理だと言ったりできない理由とかやりたくない理由を並べ立てて動かないのは「逃げ」でしかない。 大体ね、挑戦意欲のある人は失敗したって言い訳なんかせずに思考を次の挑戦にシフトしてすでに動き始めてるんだよ。 その他大勢の人たちが愚痴や文句を言っている間にね。

 挑戦しないまでも、次なる挑戦のために勉強して時間とお金を自己投資してると思う。 現状に満足して生きることが決して悪いとは言わないけれども、それじゃ会社は良くならないでしょ。 自分が経営者だとして、自分の会社で働いている従業員たちが現状に満足して挑戦意欲に欠けている様を目の当たりにしても黙って見過ごせる? ボクだったら、別に激怒なんかしない。 そういう職場にしてしまったという責任をおそらく感じるかもしれない。 言わば、経営者として失敗しているのだと自覚する。 そしてその失敗に対してどんなふうにアプローチしていくかを考え、挑戦したいと思うかもしれない。

 下っ端だから何? 上司だから何? 部下だから何? 組織全体のモチベーションが下がっていても何もアクションを起こさずに立場を主張しても何の説得力もない。 いい加減そんな中身の無い主張をするのを辞めたらどうなんだろうと思うよ、正直ね。 責任の擦り付け合いも辞めろ。 見苦しいだけだ。 トップダウンの指示系統だけで会社がうまく回るとは言えないことは、今どこの会社で働いている人たちでも普段から実感していることじゃないかね? 従業員たちは、経営者の言葉をキレイゴトだなんだと揶揄することはしても、ボトムアップで上に向けて発信することを避けてるでしょ? ビビりじゃん、そんなの。 保身の気持ちが強いからこそ裏でしかブツクサ言えないんでしょ?

 「組織に留まろうと思うなら大人しくしておくことだ」 これが世渡り上手の秘訣だと御託を並べる人がいるけど、本当にそうかい?? そういう考え方の人間がゴマ擦ってコネ遣って組織の上にいくから組織が腐るんじゃないかね? 本物の実力者が機会を奪われたり左遷されたりして、都合の良い会社運営が当たり前になってしまうから、不正も見てみぬフリをしていざとなれば部下に責任を擦り付ける。 日本の時代を象徴するドラマを、働く人たちはどう捉えているんだろうね? 白い巨塔、半沢直樹、SP、リーガルハイ、最近YouTubeで観たドラマでは、共通してこのことを主張する場面がある。 日本人は場の空気に支配されたら、例え真実が捻じ曲げられても反論することを懼れる。 反論すれば除外される。 現代だけの話ではない。 もう何十年も続いてきていることじゃないかね?

 それが若年層にまで浸透し、いじめが悪質化したのだということを、真に理解しようとしないのが今の大人じゃないかね? だからちょっとしたことでもハラスメントだとがれるようになったんじゃないかね? 過去のツケが現在に帰ってきたんだと思う。 セクハラも、昔からそういう体質にある企業が今も存続しているために次々と訴訟問題に発展している。 会社という場所が実際の業務とは全く関係のないところであらゆる問題に足を引っ張られるようだと、業績は悪化するし、メディアからは叩かれるしで、歯止めが効かなくなる。

 人を悪く言うだけの人間に「自分を見つめ直せ」なんて言っても聞かないでしょ? だったら、そんなふうに悪い意味で他者に意識と囚われない人間が集結して、純粋に会社を立て直そう良くしていこうと動くしかないんじゃないかな。 でもこれは、人を悪く言うだけの人間たちを疎外するという意味ではなく、最終的に彼らさえも巻き込んでいく流れを作っていくという意味だ。 結局、従業員がいるからこそ会社は存続できるわけだからね。 巻き込むことで教育の浸透性を高めていくんだ。 やる気のない人間を見限るだけなら簡単だよね。 失敗というリスクにビビって挑戦しようとしない人たちを教育することに成功すれば、必ず彼らが会社の利益のために動いてくれるようになる。

 やる気のある人間だけに全てを任せれば必ず潰れる。 やる気がないのは自分のせいではないなんて言わせない評価体制を整えることができれば、本人の意思で動き始めるようになるとボクは思っている。 損得で物事を考える人間たちにとっては、自分の頑張りを等価評価されない限りはモチベーションが上がらない。 でも、その頑張りが彼らの思っている通りの評価をされない場合は、頑張りが足りないということになるわけだけれども、低評価をされた際には何がどう足りなかったのかを、評価する側の人間が説明し指導教育する義務がある。

 社員教育には根気が要るということを知っているからこそ手を抜く上司もいるだろう。 そういう上司はその器ではないということを自覚していても、上司を辞めることはできない。 ならば今度は、会社がその上司への教育を強化しなければならない。 部下を育成させることのできる力を持たせてやらなければならない。 でもね、社内研修にも限界がある。 限られた時間で数回の研修を実施したところで、それをきっかけに成長する人間はそうそう居るものではない。 結局、普段から自己投資をしている人間ではない限り、研修もただの受け身のものでしかなく、右から左になりやすい。

 では、自己投資をするように導いてやればいいことになる。 自己投資の重要性を身に沁みて感じる瞬間というのは、ボクの場合だと読書だ。 本を買って読み、理解に努めることをライフワークにしていると、如何に自分に不足があるかがよくわかる。 学生時代に勉強不足だったことが直接的に関係しているのではなく、普段から学ぶ姿勢が足りていないまま年月を過ごしてきたのだということを気付かされるのだ。 学ぶ姿勢を保つ人間は、悪い意味で他者に意識を囚われたりしない。 愚痴や文句や悪口も一切言わない。 そんなことよりも自己投資するほうが大いに価値があることを知っているからね。

 芸能人がどうのこうのとかいう話には本当に興味がない。 名声ある人間だからといって普段の会話で話すほどのことでもないからね。 あと、テレビ番組がどうのこうのという話も同じく、ボクにとっては全く興味がない。 それでも、たまに目を惹かれるドラマは観て学びとするようにしている。 池井戸潤さんや山崎豊子さん原作のドラマは基本的に好きだというのもある。 工場関係のドラマでは「下町ロケット3部作」が面白い。 シリーズ1作目のロケットバルブ、2作目の心臓バルブ、3作目の農業トラクター、ドラマでは心臓バルブ編までしか観ていないけれども、全て小説を購入した。

 20代後半まで、自分は工場では働くことはないと思っていたけれども、人生とはわからないもので、逆方向に転がるのかもしれないと思わされる。 製造業の会社の工場で仕事をするようになって、一層自分が読みたい本も工場関連に傾いてきた。 理想と現実とのギャップをうまく表現している作品は、それを手にした本人の置かれている状況を重ねながら読むことができる。

 「一度は自分の価値観を疑う必要性」を訴える理由は、自分の価値観は自分が生きてきた人生において必ず誰かの影響を受けて形作られたものであるし、自分の経験から構成されたものでもあるわけだけど、一人の人間の世界観や価値観というのは限界があるからである。 生活環境も同じ場所から動かない人は本当に動かないし、関わる人の数や種類も少ない人は本当に少ない。 確かに、情報化社会はインターネットを介してその世界観を押し広げてくれる役割をになっているわけだけど、それも個人の意識によって大きく異なる。

 スマホでゲームばかりやっていたり、アニメばかり観て過ごしたりしている人が多いからといって自分までそれに染まる必要はない。 ボクはね、ネガティブに「自分は〇〇だから~しない」なんていう狭い思考で生きていくのは本当に損な生き方だと思う。 世の中には頭の良い人達が多くの知を残してくれている。 それを学ぼうとしないのは損だ。 学ぶ環境は昔に比べれば本当に便利になった。 自分が学びたいことはネット一つ取っても膨大な情報量が存在する。

 情報ってつまりは「言葉」だったり「思考」だったり「数字」だったりするわけで、これらを磨いて行こうと思えば、自己投資のために費やす時間も油断するとあっという間に流れていってしまう。 他者がどうかは関係ない。 自分がどう在りたいか、そして、自分を自分がどう評価するか、それを突き詰めていけばいい。 それをしようと思ったら読書は必然の自己投資だとボクは思う。 どんなに忙しい人でもわずかな時間を読書に充てている。 どんなに成功した経営者でも読書を辞めないのは、人間が知り得る「知」にも、その「理解」にも限度があるからではないだろうか。

 人間の知能をいずれ、人工知能が簡単に超えていく。 シンギュラリティが起きた時に、人工知能に操られて生きるか、自分の意思で生きていくか、そのどちらかを選択することになると思うけれども、人工知能の影響を完全に避けて生きていくことはもはや不可能であり、それに頼りっきりになろうと思えばできなくはないのかもしれないけれど、自分の思考を活かす機会をしっかりとキャッチできる人は、こうして自ら文章を作成することを辞めたりはしないだろう。

 結局のところ自分次第。 線引きしたり勝手に限界決めたり思い込んだりすれば、自分は納得できるかもしれないけれど、思い通りには生きられないとボクは思う。 所詮、人間は思い通りになんか生きられないのだからね。 それよりも、起きた問題を自分の意思で解決していく力を身に付けるほうが断然意義がある。 誰が作ったかもわからない変な常識や周りの目に支配された思考では、真っ直ぐに問題と向き合うことなど不可能だと思う。

 自分の時間を自己投資に充てようとして本を読む人間の邪魔をするような人とは関わりたくないね、正直。 基本的にはそういう考え方があるから、機会を逸してしまっている部分はあるんだろうけれど、ボク自身、差別的思考の持ち主なのかもしれない。 昔、小4の時の女性の担任「シマムラ」という先生に言われたことがある。 「あんたこのままだとずっと独りだよ」って。 そう言われた時、ボクはその言葉に対して反発心は一切なかったんだよね(笑) それでも構わないと思っていたから。

 結局さ、自分という人間と関われる人間というのは似通った価値観を持っている人たちであって、共通点も接点もなく価値観が全く異なれば、完全な他人ということであって、仮にそれが同じ職場の人間であっても特別な感情を抱くことは決してないのだとボクは思うんだよね。 だから、無理に相手に合わせたりしない。 仲良くさせてもらいたいと思わないのであれば不愛想でもいいと思う。 大体そう思う相手ならば、相手も自分に対してはそういうふうに思っているものだからね。

 それに、会社は友達作る場所ではないからね。 でも、どこかこう、公私混同している人間がいるんだよね。 ボクからしたらハエみたいなもの。 ハエだよ、うん。 愚痴や文句を言いたいだけなら他の人間にしてくれって感じ。 職場の人は職場の人。 反対に、制服を脱いで一歩会社の外に出ればただの人。 出会いを求めるなと言いたいね。 同じ会社の人たちの関わりに留まっているようではあまりに狭い。 それが全てだと言いたげな人を見ると、それはそれでいいから一緒にしないでくれって言いたい。 何が家族だ。 そうやって言えば馴れ合えるとでも思ってるんだろうか。

 ボクからしたらそれこそ屁理屈でしかないと思う。 自分が関わる人間は自分で決める。 近場で簡単に手に入るような人間関係で満足できるならそれはそれで構わないんじゃないか? それはそういう人の人生観なんだろうから。 ボクは真面目な話が出来る人と関わりたい(笑) ワガママかな?(笑) もっと言えば、本をよく読む人と関わりたい。

 そういえば、先週、派遣会社の人事に読書の重要性を広めたいという意味のコメントを会社専用アプリでドドッと送ったんだけど、何も返事ないな(笑) 頭のおかしいヤツがなんか言ってるくらいに思われてしまったんだろうか・・・(笑) ま、いっか(笑) 発信活動はそれを受け取った人がどう思おうと自由だからね。 それによって何か変化を生み出すことができたならば、それは過程における小さな成功であって、その続きが重要になってくるから、とにかく続けるよ。

 ほんで、今回何が言いたいのかわからなくなってきたから、とりあえず今回はこの辺で終了ということにするね(笑) すまん。 読み返してみたらかなり支離滅裂のような気がしてきた(笑) あ、強いて言うならば、人は人を選ぶべき、ということかな。 人間社会において差別は当たり前。 差別のない世界はあり得ないということをボクは素直に受け止めたい。 差別はあって当然で、それでも互いが一部でも理解し合えるように働きかけていくことが大事だということね。 巻き込む力のある人間が世界を動かすんだろうからね。 そしてそれは、会社組織でも同じことが言える。 嫌いな上司、嫌いな部下、嫌いな取引先、嫌いな人が居たって巻き込んだ者の勝ち。 ま、そういうこと。

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