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~組織が腐敗していく仕組み~

 皆さんは「馴れ合い」はスキですか? それとも、キライですか? スキだろうとキライだろうと、大した理由はないと言ってもいいくらいのものだとボクは解釈しています。 そもそも馴れ合いとはどういう意味でしょうか。 早速検索してみよう。 馴れ合いとは、「ひそかに通じ合い、ぐるになって事を運ぶこと。(コトバンクより)」の意。 うん、印象としては悪い。 でも、世の中の人たちはなぜかこれを好む、というよりは、保身の気持ちから馴れ合いの関係から抜け出せずにいる、と言ったほうが正しいかもしれない。

 この意味からすると、悪意が前提にあるように見えるが、馴れ合いはもう一つ、「互いの関係性を保つために、物事に白黒付けづに曖昧にして済ます」という意味も含まれている、と捉えることができる。 例え悪意がなくても事をうやむやにしてしまう、言うなれば「安易な関係」ということがほとんどの場合の馴れ合いではないだろうか。 そしてこれは、自分が属している集団組織の種類によってその悪質性を変化させると言える。 その代表例が【企業内部不正】だ。

  不正の多くは、不正を不正と認識している場合がほとんどであり、業務上の指示や命令はそれを良しとして成されている。 無自覚に不正を働くケース、つまり、過失に因るものではないということ。不正の重大性に対する危機感を希薄なものにしてしまうのが「馴れ合い」である。 また、不正とは言えないまでも、企業間の取引において見栄えばかり取り繕って、あたかも「問題は一つもございません」というやり取りをしてしまうのも、企業間のこれまでの関係にキズを付けないため、もしくは、自社の立場を悪い状態にしないための馴れ合いである。 それは片方のみがそのことに必死になっている場合もあれば、互いに馴れ合いの上に作られた関係を保とうとしている場合もある。

 毎年のように国内企業の不正発覚に関するニュースを見聞きする度に、「どこでもやってることだ」という固定観念すら多くの人が抱くようになっている。 そんなニュースが続けば続くほど、企業の内部不正はあっても仕方がないのだという、それが世の常のような思い込みをさせてしまっている。 コンプライアンス(法令遵守)が社会的に重要視されるようになった今でもなお、長年続けてきた小さな不正の積み重ねが重大な不正と化して世間に明るみになる。 同じ会社に属していた人間が退社したあとに、内部不正に関する情報を揃えてメディアに売り捌きに行くという行為もまた、そうした社会が生じさせる愚行であるとも言える。

「これくらい良いよな?」(不本意な妥協)

「メンドくさいからこれでいいよ。」(勝手な判断)

「バレなきゃ問題ないっしょ!」(根拠のない楽観視)

「本当はダメなんだけどね?」(不正の認識あり)

「クソ真面目にやってたら仕事が片付かない!」(言い訳)

「相手先には言えないから何とか誤魔化そう!」(隠ぺい)

「今回は仕方がないから腹を括ろう!」(根本的な解決には至らない)

 現時点でこれらがまかり通っている会社は、10年後には存続している可能性が極めて低いとボクは考えている。 企業100年存続の時代は一昔前までの話だ。 栄枯盛衰、いつまでも安泰な企業などどこにもない。 唯一、生き残れる企業というのは、情熱と誠実さを日々の業務に反映させることのできる人材がどれだけいるか、これに尽きる。 機密管理下の取り組みとして、全社員の本音を第三者組織が集めたら一体どうなることやら。 その取り組みに応える人たちに対して一律の手当が出ようものなら、きっと全員が参加するに違いない。 でもこれは、裏切りでも何でもない。 会社に溜まりに溜まっている膿を吐き出すためには、これくらいのことをしないと浄化はできないのではないか。

 監査や取引先幹部の視察があると、とにかく悪い印象を与えたくないがために、総動員でそのためだけに対策を練るなんていう光景はよく見られる。 時が経ってまた同じ機会が訪れると、再度同じことをするという繰り返しで、何ら根本的な改善は成されない。 それに、改善活動として取り組むことは非常に大切なことではあるが、現状において最も改善すべき問題には誰も着手したがらない。 会社って組織としては腰抜けだなとつくづく思う。 やるなら徹底的にやればいいのに、会社の面子を気にして、どんな確認作業も改善活動もやったという既成事実を優先して取り繕うことばかり続けて、大して変化が見られないどころかむしろ悪化してしまっている、一体この茶番を誰が阻止するのだろうかと思えてならない。

 本当にやらなければならないことを断行する、それを決意すべき人間が組織のトップにいるならば、不正に近いようなことが発覚した時点で、不正化しないように阻止するだけの力を行使するかもしれない。 しかしながら、いくら経営トップにそれだけの力があっても、起きたことや現場の状況、製品の質・性能や管理体制、または売上やコストを示す数字などといったあらゆる情報や事実が歪曲された形で報告として上がってくると、その全てに対して適正化を図ろうとすれば一朝一夕では成し得ない。 むしろ、経営者を始めとする役員幹部たちは、どんな情報が上がって来ようとも、本来は信じたいはずである。 すべてが真実であると。

 ところが、組織の規模が大きければ大きいほど、それら全ての情報が微塵にも歪曲することなくトップまで情報が届くことに期待はできない。 なぜなら、全国や世界に事業所や工場が点在する企業においては、それぞれに多くの問題を抱えているだろうし、例え事実だとしてもそれをありのまま報告しない管理者が部署長だったり所長だったりが存在するからである。 馴れ合いは文化だと言わんばかりに、馴れ合うことが当たり前になってしまっている職場では、報告・連絡・相談のうちどれもが濁ってしまいやすい。 この3つは社会人の基本だ!なんて指導を受けたものだが、現実はどうだろうか。 甚だ矛盾しているなと感じてならない。

 20代・30代の従業員にとっては、この先数十年を生きていくためには、今働いている会社がどんな会社なのかという基本的な部分が誰にとっても肝心なはずである。 しかしながら、縦社会の日本において、一般社員はリーダー、チーフ、課長、部長、所長などといった上長からの指示・命令は絶対であり、容易に逆らえるものではないという現実がある。 これに屈しつつ、耐え忍びながら働いている人たちがどれだけいるのだろうか。 また、上長の職権濫用によるパワーハラスメントにより、不正とわかっていても命令に従った挙句、責任を背負わされた人が一体どれほどいるのだろうか。 いくら生活のためとはいえ、そこまでして「そんな会社で働く」ということが本当に幸福に繋がるのだろうか。 これには疑問で仕方がない。 

 困った時の社内ヘルプラインも、本当に頼って良いものなのかどうかは疑問。 多くの人が、余計な波風を立てまいと、ひっそりと日々の業務をこなすに留まっているに違いない。 でも、そんな調子では会社のあらゆる問題の是正は到底不可能に近い。 例え従業員として特別な肩書がなくとも、公正公平な働き方を阻害するような職場のわけのわからないルールや取り組みはどんどん排除していかなければならない。 決して会社組織が一人の従業員の人生を狂わせるようなことがあってはならない。 感情のコントロールができない人間や、適性を欠く発言や指示・命令をするような人間は、人の上に立ってはいけない。 組織は上から腐ると言われるその所以は、最悪の場合、部下にケガをさせたり、精神的に追い込んだりして人離れを引き起こし、特に人手不足の現代社会においては会社そのものの存続にも影響しかねないからである。

 ダメなことはダメ、ムダなことはムダ、ということをハッキリ言える従業員があなたの周りに何人いるだろうか。 それが言える人というのは、当然「なぜダメなのか」「なぜムダなのか」ということが提言できるし、それによって浴びる批判を怖いとは考えていない。 それだけではなく、「ダメ」に代わる新たなアイデア、「ムダ」に代わる効率的な提案を発言できる。 あなたの職場では、毎朝「ラジオ体操」をしているだろうか。 ボクはこのラジオ体操を無駄だと認識している。 なぜボクがそのように認識しているか、もしかしたら言い当てられる人がいるかもしれないが、その答えをここに示す。

 ラジオ体操の音が流れているあの数分で、真面目にやれば朝の軽い運動くらいにはなる。 しかし、周りを見渡せば、キッチリと真面目にやっている人なんて一人もいない。 反対に、真面目にやったからどうということもない。 「全員で同じことをやる」という意味で、あんなにも統一感のないバラついた時間なんか無くしてしまったほうがいい、とボクは言っているのである。 だからボクはそのラジオ体操の時間で、自分がやりたいようにストレッチをしている(笑) これは事実だ。 しかし未だにボクに対して「なぜみんなと一緒にラジオ体操をしないの?」などと聞かれたことは一度もない。 それもそのはず、大して興味がないからである(笑) ちゃんとやろうがやるまいが、その場にいる人間全員に一体感が見られないのなら、そんな取り組みはすべて排除してしまえばいい。 そのほうがまだ健全性を保てる。 

 集団の中で一人だけ特別扱いされるようなヒイキを、普通の人なら誰でも嫌うはずだ。 たとえそれが、本人の努力に因ってヒイキされることになったとしてもだ。 人間の汚い部分である。 あの世界トップのフィギュアスケーター羽生選手でさえも、「調子に乗るなよ!」といじめられたほどである。 ほとんどの人が言いづらいことをズバッと発言した場合にも、同じ現象が起こる。 そんな時には生意気だ何だとブツクサ文句を言う輩は必ずいる。 しかも「馴れ合い」の中で。 彼らは直接言ってくる度胸はないのである。 その証が、仕事における正当な物言いをしたがらないこと。 保身の気持ち、会社の面子、馴れ合いの関係を維持したい、そんなところだ。 ボクから言わせれば、そんなものは価値として金額換算しても1円の利益にすらならない。

 高学歴であることそのものが社会的に何の効力も持たなくなったことを如実に示しているとボクは思う。 組織の一員として馴れ合いを好んだり、不正を見逃したり、無駄な取り組みを辞めようという一言すら言えない人間が人の上に立つと、組織はどんどん腐っていく。 抜本的な改革なんて夢のまた夢で、そんな彼らはそうした理想を描くことすらすでに放棄しているに等しい。 そういう自分本位な人間が上に立つ職場で毎日ストレスを感じているなら、転職という一大決心をして全く別の空間で同じお金を稼ぐほうが、自分にとってより快適な生活に繫がると言える。

 内部不正を暴こうと思ったら、見たこと聞いたことを訴えてももみ消されるのがオチ。 やるなら徹底的にやらないと、返って自分が深手を負うことになるからだ。 しかしそれも、暴いた結果、自分が何らかの利益を得られるのならば、という条件付き。 安易に下手なマネはしてはいけない。 だからと言って黙って従うこともない。 絶大な効果を発揮するものは、「詳細な記録」。 文書に限らず、画像、映像、音声、記録し得るもの全てを長期に亘って残していくこと。 そしてそれは、自分一人ではなく、協力者が多ければ多いほど、その効力は何倍にも膨れ上がり、不正を暴かれた企業サイドは「返す言葉がございません」しか言えないくらいになる。 あとは、法に則って行動すること。 証拠資料と言えるほどの情報さえ揃えば、あとは弁護士が処理してくれる。

 どうせ働くなら、健全性が高く、楽しい職場が良いに決まっている。 でも、それを腐らせる要因が会社組織にはたくさん潜在している。 完全にこれを払拭するのは不可能に近い。 社会問題に発展しそうなほど腐り切っているのなら、戦う決心をしてもいいかもしれない。 職場において注意しなければならない人物の最大の特徴としては、これだ。

 これほど厄介なバカはいない。 しかもこれが、40代50代ともなると、手の施しようがないくらいに、職場を搔き乱す。 まさに老害。 こういう人にはどんなに正当性を振りかざしても、キズ一つ与えることすら適わない。 なぜなら、こちらの言い分が正当であることをわかっているからである。 その上で、それを突っぱねてでも我を通そうとする。 たとえそれによって誰かの負担が増したり、残業を強いられたりしても、老害ジジイの脳ミソは不動、山の如し。 一番は、元よりそういう人間であることを認めること。 そうすれば、いくらか扱い方も見えてくる。

 一般社員だろうとリーダーだろうと部長だろうと役員だろうと、はたまた社長だろうと、自分のことしか考えられなくなったら、チームワークは愚か、組織全体にとって害悪でしかなくなる。 それでも、今の社会というのは、そういう人間であっても社会的な問題を起こさない限りはキープされる。 それに、本人が上層部と仲が良かったりすると、そこでも有耶無耶になって、本来受けるべき罰を受けずにのうのうと仕事を続けられるという、他者からすれば到底納得できるものではない扱いを受けている気持ち悪いヒイキなんてのも見聞きすることがある。

 そう、世の中の理不尽は、あって当然なのである。 それが人間社会。 そうでも思ってないとやってられないという意味で、ボクはそう思うことにしている。 仕事においては、やりたくないこともやらなければならなかったり、本来自分の仕事ではないこともやらざるを得なかったりして、そのことで失敗すれば咎められる始末。 そんな時にはやっぱり「やらなきゃよかった」と後悔をするのである。 これほど激しい自己矛盾があるだろうか(笑) 確かに、仕事に対して「できません」は雇われの身としては言ってはいけないことかもしれない。 できる範囲内で、できる限りやるというのが理想の在り方なのだとすれば、できない場合においても「できません」と言うのではなく、その事情を説明する必要がある。

 仮にもそれが「不正の片棒を担ぐ」ような類の指示・命令である場合は、毅然とした態度で「お断りします」と声を大きくハッキリと言うべきだ。 保身の気持ちが先に立ってしまえば、黙って従うことになる。 そうなる自分を嫌だと思えるかどうか。 その気持ちの強さ次第なのではないか。 だから、もし相手が「頭の良いバカ」だとしても、決して屈してはならない。 一度屈したら、同罪扱いされて立場は一気に闇に堕ちる。 そうなってから「やらなければよかった」「断ればよかった」などと後悔しても後の祭りなのである。

 毎日、ただ目先の業務を片付けることだけ考えて仕事をするのではなく、いま自分が勤めている会社がどんな会社か、そして、そこで働いている人たちの中にはどんな人間がいるのか一緒に仕事をする時にどういう話をするのか、またはどんな指導をするのか、 そうしたことにも逐一意識を向けてみるといいかもしれない。 その積み重ねが、いつしか、このままこの会社で働き続けていていいのだろうかと思い立った時の判断材料になる。

 そして、最も重要なのは、「後工程はお客様」と言われるように、自分が携わる如何なる作業も、必ず誰かのためになっている、ということ。 それを前提に仕事をすることができるならば、正義の心は適度に機能する。 適度に、でいいのだ。 何も敢えて自らキズを負ってまで正義を貫き通す必要はない。 うまくやるのだ、お客様のために

 身から出た錆という言葉の通り、人は自らの行いによって陥る惨事に対して誰を責めることもできない。 鉄は防錆加工を施さずに放置していれば、数日で錆が生じる。 これは鉄だけではなく、人も同じなのではないかとボクは考えている。 人と人が関わりを持つ時に、片方の人物に錆が生じている場合は、関わるもう一人の人も錆が生じる。 馴れ合いの恐ろしいところがそれだ。 組織の腐敗を感じたら逃げろ! それが最良の決断。 降りかかる火の粉をはねのけてでもその会社にいたいのなら、少しでも職場が抱える問題に対して考え、提案し、行動を起こせるようであると、数年先は今よりも良い会社になっているかもしれない。

 自分一人がイキリ立って頑張っても、簡単に会社の問題は解決には至らない。 うまくやるんだ。 どうすればいいかを深く広く考えるんだ。 今が限界ではない。 そう自分に言い聞かせて、また来週から仕事を頑張っていけるなら、まだ望みはある。

 最後までお付き合いくださり、誠に感謝致します。 次回は#010という節目なので、またジックリと執筆に励みたいと思います♬

(・∀・)ノありがとうございました!

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