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【SS】風呂の湯がたまらない【つめすい】

(約1800字)

 風呂の湯が溜まらない。もう三十分は湯を出し続けているのに水位はまだ三センチくらいなんだ。いや、栓はしているんだよ? そりゃ俺だって何度も確認したさ。トラブルが起こったらまず自分のほうに原因が無いか疑えって一緒に暮らしてた犬から常々教えられてきたからな。
 え? お前は水泳部だったから浴槽がスクールプールくらいの大きさなんだろ、だって? そんなわけないだろうが。俺の収入でそんなどでかい浴槽を自宅に設置出来たら、まずどんだけ安い土地に生息しているんだって話だよ。 
 え? 今住んでいる場所の土地の価格? 知らないよ、そんなの。俺は土地の価格も知らないし、固定資産税を納めたこともない。俺は今、賃貸に住んでいるんだ。そうだ、賃貸だ。だから、湯が溜まらないって言っているのは二十二世帯賃貸の一階角部屋の浴槽の話だ。スクールプールサイズなわけが無いだろう? 何だって? 流石にスクールプールは冗談だった、って? 良かった。

 なあ、信じてくれ。栓は完璧に出来ているんだ。一緒に暮らしてた犬に誓ってもう一度言うよ。栓は完璧なんだ!!! 
 でも、浴槽の壁に吸い込まれているのか何なのか、とにかく溜まらないんだよ。どれだけ流し込んでも、いつまでも足りないんだ。業者に相談? したさ! 何度もしたさ! あらゆる風呂・水道業者に電話しまくって相談した。けど、業者も不動産会社も大家さんも相手にしてくれないんだ。あとさ、俺水泳部だったことは一度もないんだ。本当に辛かったよ、俺がこんなに必死で「いつまでも溜まらない」って訴えかけているのに、みんな口を揃えてこう言うんだ。そうですか、溜まりませんか、しかし我々は忙しいのです、って。
 なあ、俺は早く温かい湯に入りたいんだよ。温まりたいんだよ。それと、俺はとにかく風呂上がりのショートケーキが好きなんだ。それがもう、たまらなく美味いんだよ。俺はこのまま風呂場から離れられないから、ひとまずショートケーキを買ってきてくれないか?

 おい、聞いてるか? まさか俺の声は届いていないのか? 一つも届いていないのか? なあ?

 黒いミシュランマンが我が家の風呂、と言っても三年前に内風呂の浴槽は穴が空いてしまったので庭に置いた代用ドラム缶風呂だが、とにかく、排気ガスを吸い過ぎて暗黒面に落ちたようなミシュランマンが風呂の下にうずくまって何かをしている。最初は覗きかと思った。しかし、こんな四方八方何もない場所とはいえ、覗きをするのであればもう少しいい場所があるだろう。とすると、強引に襲うつもりか。還暦を過ぎたとはいえ、毎日歩いているのだ。簡単にはこの身体許さんぞ。

 さあ、来るなら来いと風呂の中でブルブル震えていると、いや、これは武者震いであって恐怖している訳では決してない。この和彦六十一歳、政財界のドン、こんな薄手のダウンコート野郎に負けてたまるか。とはいえ、やけに寒い。いや、これ寒さで震えてるんだ。なんで? 俺、風呂に入ってるのに。

 見るとこの黒ダウン男、事もあろうに俺の風呂の脇に穴を開けている。針の穴ほどとはいえ、そこから湯はどんどん抜けていく。
「おんどりゃ、何してくれとる!」
 俺は思いっきり叫んだが、男は無反応。その代わりに「堪らない、堪らない」とブツブツ言っている。

 俺の浸かった湯に興奮しておる。こりゃぁド変態だぞ。握り拳で男の頭をぶん殴ろうとした。
 しかし、「今住んでいる土地の価格は?」いきなりこんなことを言うもんだから手が止まった。

 まさかこのダウン男……ここの所有者か? いや、俺が勝手にこの野っ原で風呂を焚いているのを咎めに?
 びっくりして立ち上がった。ずっとうつむいていた男が顔を上げたので目があった。
「あっ……」
 一糸まとわぬ姿を見られて声が出てしまう。

「水泳部だった……」
 えっ? 俺が中学時代、水泳部だったことを身体を見ただけで? ド変態の可能性も消えていないぞ。
「線は完璧……」
「イヤッ!」
 急にこんな風に褒めてくるもんだから、恥ずかしくなって俺は残り半分ほどになっている湯船に身を沈めた。

 もういい、もういい、もういい。地主だろうが、ド変態だろうが、もう関わり合いになるのはやめよう。
 早いとこ切り上げてショートケーキを買って食おう。この間の転売ヤーの並びのバイトで貰ったお金がまだある。昔から風呂上がりのショートケーキが好きなんだ。犬のペスが生きていた時は一緒に一つのケーキを舐め合ったっけ。何だか急に恋しくなってきちゃったな。

*****

 爪毛さんとショートショート作りました。自分は社交的でも積極的でもないので、本来なら(精神的な意味でなく実働という意味で)人と共同で何かを作るってあまり得意じゃなくて、どちらかというとマイペースで一人でもくもくとやるほうが好きなので、まさかこんな日が来るとは思っていませんでした。こうなったのは、爪毛さんの不思議な魅力ゆえのことだと思います。社交的じゃない自分のなかに、この方と共同で何か作れたらいいな、という感情が生まれてきて、それが強くなっていって、そしてありがたいことに実現して、こうしてともに一つの作品を作っていただきました。
 爪毛さんとは二年半くらい関わりを持たせていただいてますが、常々刺激や気付きをもらったり、ときには心を助けられて、今回もとても良い経験をさせてもらいました。爪毛さんが生み出す「力入ってなくて気取らない感じなのにハマると抜け出せない世界」が好きです。
(こちらの文章は爪毛さんのご了承を得て載せさせていただきました。)

※特にテーマを決めずに前半・後半で担当を分け、前者の前編を受けて後者が続きを書く形にしました。「黒いミシュランマン…」からが爪毛さん担当、それ以前がSuiTo.担当です。

とても嬉しいです。ありがとうございます!!