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歪んだ死生観の話/日記(※暗い)

  卸したてのミニチュアみたいな、丸ごと漂白されたような街。ごみ1つないホームレス1人いない綺麗な街。全く生が感じられなくて、軽い気がする。

   I am lost, bye good bye you, this world.
 ネット配信しながら自殺した大学生が、死の間際メッセージを遺して逝った。この言葉から感じる感情は、たとえ私がTwitterで同じ言葉を発しても感じることはできないと思う。 「人の価値も体も、死んだら重くなるんですね。」なんて書いた小説のタイトルはなんだったか。 死んだら重くなる。なるほど。死んだら重くなるのか。   人は、社会は、宗教は、学問は、世界は、生きることの尊さを説いているけれど、じゃあどうして生きている者は蔑ろにされて、死者は丁重に扱われるんだろう。進化の過程で、人類は死生観について、なにか酷い勘違いをしてしまったんじゃないか。致命的な欠点を抱えているんじゃないか。 生←     →死の図があるとして、生に近いほど人生はつらく苦悩に満ちて、死に近いほど楽に開放的になっていく。なんだかひどく歪んでいる。

 希死念慮が酷い。今はましになったけれど、一時期は本当に酷かった。理由はあったりなかったりする。希死念慮に押し潰されると、何も出来ない。何をするにもするどい透明な棘が刺さって、というか自分自身で刺して、何も出来なくなってしまう。痛みだけ。あとは0になる。実体も全部なくなる。傷付いて消えてなくなって、亡霊みたいに夜を彷徨った日がどれほどあったろう。
 たとえば文字を書こうとして、こんなどうしようもない私がどうして書くんだろう、何の為に書くんだろう、が死にたい、に変わる。あるいは理由もなく突然死にたくなる。漠然とした希死念慮と焦燥感と不安に苛まれる。行動する前から酷く傷ついて、どうしようもなくなって、アルコールをあおったりする。

本気で自殺に誘われた話

 希死念慮がひどくて、ただ弱音を吐く垢を作った。その垢は私そのもの、ありのままの自分が可視化されている。
ある日いつも通りに「死にたい」と呟いたら、そのリプライは突然来た。
「一緒に死にませんか」
 リプライで話してみると、相手は本気で一緒に死のうとしていることが分かった。悩んだ。悩んで色々考えて、出した結論は やっぱり悲しむ人を遺して死ねない、死ぬのは怖い、だった。やんわりと誘いを断る内容のメッセージを送ったら、相手から叱責を受けた。
「あなたと私の死にたいは、なんだか違う気がする。あなたはまだ希望を捨てていない。なら生きなさい」
このメッセージを送った直後、相手は垢を消した。もしかしたら自殺したかもしれない。なんだか虚しくなった。
 毎日苦しいのに、所詮死への恐怖や死後のことを考える余裕がある程度の「死にたい」だった。惨めだ。0にも100にも振りきれない自分が情けなく思えて、恥じた。元々0か100の思考回路で、やるならとことんやるし、やらないなら全くやらない。だから、死にたいけど死ぬ勇気が〜なんて、どっちつかずの自分がどうしようもなく弱く感じた。      不透明な自分がいやだ。死ねないだけで、死にたい気持ちは本当だった。そんな気持ちを濃く薄く抱きながら今日も生きている。 (この0と100の思考回路は幸福中毒と繋がっていて、希死念慮と仲がいい気がする。文字に起こす余裕があったらいつかnoteに書いてみたい。)
 アングラに身を委ねる人々。たとえばトー横界隈。ああいう人達は、自己破壊衝動と救われたい気持ちとともに生きているんじゃないか。あれこそ0と100だと思う。あれくらい振りきれたら、少なくとも自己嫌悪に陥ることはなるなるんじゃないか、なんて思う。 
 閑話休題。
 エッセイは人を救う。同じ境遇の人、全く違う世界に住んでいる人、そして自分自身。エッセイを書く理由は人それぞれだ。警鐘を鳴らして誰かを救いたいのかもしれないし、自分自身を救いたいのかもしれない。
 私は実体験を書く=自分を救う派で、書くことで あの時逃げられなかった自分、助けを求めたかった自分、そんな「あの日の自分」たちを救おうとしている。    ……いや、本当はそんな大義名分はどうでも良くて、ただ単純に何かしらを書き残したいだけかもしれない。 泣きながら救いを求めるように電話をかけて「暇電〜笑」なんて誤魔化すのが日常茶飯事だった。本当に辛い時こそ誰とも話せないし頼れない。だから、書くことは少なからず救いになる。

………………

 なんて色々考えるうちにも、アウトサイダーたちは何処に追いやられたのか、なんて考えが止まらない。洗濯しそこねた街の澱は今 何処にあるんだろう。

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