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インド 瞑想を巡る旅 7

最愛の人は私

念願のケーララ・リトリート

 2017年9月、ネパールから無事にケーララに戻った私は、月末に開催するジョシーとの「ヨガと瞑想のリトリート」の準備をはじめた。私にとってそれは、ここ数年のジョシーとの関わりの「まとめ」のような仕事だった。
 30年以上日本に住んでヨガを教えていたジョシーがインドに戻って約5年、ビザの関係等々で日本に戻れなくなってから、もう一度日本の生徒たちにヨガを教える機会を作ることは、私の念願だった。しかし、機会はなかなか訪れなかった。
 しかしチャンスは、くしくも彼の健康状態がかなり悪化して、もう私にできることはないのかな...と手放した時にやってきた。
 何故か今年に入って、彼の昔のお弟子さんがケーララに尋ねて来るようになった。ジョシーが呼び寄せたのかもしれない。皮切りは10年ほど前に彼の生徒だったという女優の鶴田真由さん。写真展の撮影のために、写真家の小林紀晴さんとともにケーララを訪れるので、是非ジョシーにも会って写真を撮りたいという。ちょうど右肩を脱臼したばかりだったし、真由さんは事故後はじめてジョシーに会うという。果たしてどうなることかとドキドキしたが、真由さん御一行が到着すると、急にスイッチが入ってシャキーンと元気になるジョシーを見て驚いた。突然ヨガのレッスンもハプンしたりして、素敵なミーティングになった。
(この時のことは、お二人の写真集である「Silence of India」に写真と共に綴られている。)

 次に長年ジョシーの生徒で、現在はヨガ講師をされているMさんがやって来た。どうしてもジョシーに会いたいと言う彼女のお弟子さんを連れて。その時もそばにいる人のエネルギーに合わせて彼の扉が開かれ、必要なことが手渡されていくのを目の当たりにした。ジョシーはもはやアーサナを実際に行って指導すると言うことはできないが、彼から発せられている存在の強さと広がりで、今その人に必要なことを告げていた。その言葉を超えた伝授を受け取れる素直さがあれば、それは誰にでも開かれていたのだった。
 Mさんとリトリートを企画してみようかという話が持ち上がった。やってみようか、できるんじゃない?多分ジョシー自身にとってもそれが何よりも彼を元気にさせることに違いない。
 正直今の彼の健康状態でリトリートを行うのは無謀な賭けでもあった。もともと元気な頃から、普通じゃないヨガレッスンを行なっていたので、その時何が起こるか全く予想がつかない、わざわざ日本からお金をかけてケーララまで来てくれる人に満足してもらう内容しなければならない。ということで話し合いを重ね、メインのヨガと瞑想の基本的なレッスンはMさんが行い、そこにジョシーをゲストとして迎えるという形にした。その日の彼の動きによって、それに呼応しながらMさんがサポートしたりファシリテートしたりするという即興レッスン。日中にはテーマを決めて質疑応答とシェアリングをするサットサンの時間も作った。自由に参加者がジョシーと交流して、起こることが起こっていくスペースを作りつつ、コンテンツも充実させる。

会場はアメリカで医者として成功したジョシーの従兄妹が経営している「アヒムサガーデンリトリート」という素晴らしい場所があった。そこはもともと彼女の母方の土地だったが、売却されゴム園になっていた。ゴム園はお金になるが、森林を伐採し大量の水を必要とするので、土地を枯らしてしまう。彼女はその土地を買い戻して、代わりにアーユルヴェーダの薬草類を植えた。そこから運ばれる風は吸うだけで多くのヒーリング効果がある。お金にはならないが、訪れる人と周りに住む人の心身を癒すことができるのだ、と彼女は言う。いかにも医者らしい発想だ。
 屋上のヨガスタジオは360度森に囲まれ、そこから見える朝日は素晴らしかった。食事もできるだけ庭で採れたオーガニックな野菜や果物がテーブルに乗る。もちろん、ジョシーの親戚がオーナーでしかも医者だから彼の健康状態も理解してくれ、何かと融通が効く。こんな好条件は他にない。
 そんな風にして条件を整え、会場もブッキングし、あとは参加者が集まってくれれば...という時にまたしても思いがけないアクシデント!
 なんと再びジョシーが転倒して右肘を骨折するという知らせ...さすがにこれには私もがっくり来てしまった。(詳しくは インド瞑想を巡る旅 4 を)

 一時は取りやめようかとも思ったが、動き出したからにはやってみようというMさんの励ましもあって、計画を進めた。通常のヨガのリトリートとは全く違った形式で、ジョシーの健康状態も予想がつかない。さすがにおおっぴらにできず、ごく内輪だけにひっそりと告知した。
 それでも、6人の参加者が集まった。ジョシーの古くからのお弟子さんではなく、みんな彼に初めて会う人たちばかりだ。そして、リトリート開催の直前になって、ジョシーの昔からのお弟子さん達が、同時期にヨガの集いをすると知らせを受けた。そして思いがけず真由さん達の写真展の開催時期もそれと重なった。たくさんの人々のエネルギーが彼へを注がれていた。インドでジョシーが大変だった時期を見て来ているだけになんだかしみじみと感無量だった。
 リトリートの数日前にジョシーが会場にやってくるまで、私はずっとハラハラし通しだった。右腕の怪我は回復し体調はだいぶ落ち着いきたらしいが、また転倒したら大変だ。しかし、起こるべき時に起こるべき事が起こる、全てを手放して天の流れにお任せするだけだ。

ヨガはマットを超えて

 結果的にはジョシーから学んだヨガのエッセンスを改めて感じる、素晴らしい機会になった。
 1日のスケジュールは早朝夕方にヨガと瞑想があり、夕方にダンス・ワークの時間、
午後にジョシー交えてのサットサング。ダンスの時間を入れたのは、ジョシーもかねてよりダンスもヨガの一つだと言っていたし、自分の内側から湧き上がってくる自由な体の動きを通して、心身のより深い場を開いて行く、そんな機会を作りたかった。  
 さらに自分の中で起こったこと感じたことをシェアしあって、しっかり落とし込んで行く。その辺はヨガ講師だけでなくセラピストとしての経験も長いMさんがいたので、心強かった。
  毎朝、目覚めるとジョシーは自分の身体のペースでゆっくり支度をする。ヨガホールは4階にあって、彼の足で登るのはかなりの労力だ。一歩一歩踏みしめるようにヨガホールに向かう姿は、ヨガを行う前の大切な儀式のようだった。
 すでに講師のMさんがクラスをはじめていて、ちょうどジョシーがホールにやって来る頃には、窓から見えるジャングルから太陽が昇ってきたばかり。澄んだプラーナが辺りに満ちている。私にとってもこうした公の場でジョシーのレッスンを受けるのは本当に久しぶりのことだった。
 
 ジョシーは自分の状態を取り繕うこともしないし、無理にポーズを取ろうともしなかった。すでに彼はまっすぐ腰を立てて座ることも困難になっていて、床に座ったり立ち上がる時も介助が必要だ。そんな状態で一体どんなヨガが教えられるのか、そこにあるのはヨガを通して培われた身体と心のあり方としか言いようがなかった。
 ただ彼は座り、その日できる事をやった。脚を開く、立ち上がる、パドマアーサナにトライする、といった本当にシンプルな事。静かに身体を調整しながら動かして、できなければその日は無理をしない。それをみんなの前で根気よく黙々と行う。時には立ち上がって、みんなのアジャストをしながら、自分の身体も整えて行く。そして常に呼吸はゆるやかで自然なままだ。
 私たちはそれを見守りながら、彼の身体が徐々に変化して行くのを目の当たりにしていた。日に日に、階段を上がる足取りがしっかりして行く、脚を開く時に膝がまっすぐになり、座る時も腰がしっかり入るようになる。それは、私たちが自分の体とどう向き合って行くか、それを直に学ぶ貴重な時間だった。
 
自分の体のありのままと真摯に、徹底的に正直に向き合うということは、それほど簡単じゃない。私たちはいつも身体に無理をさせてしまいがちだ。身体の状態を無視して、前と同じようなアーサナがしたいと無理したり、綺麗に見せることに走ってしまったり。思い通りにならないときはつい冷たく暴力的にすらなってしまう。私たちは自分自身にもアヒムサ(非暴力)でなければならない。しかし同時にコンフォート・ゾーンを超えなければ体は変化しないのも事実。エゴのためのアーサナはしない、でも今自分ができる最大限を表現して行く。
 その微妙なさじ加減の中とバランスに気づき続けていけたら、どんな体であっても年齢であってもヨガは一生終わらない学びになっていくのだろう。
「私も60年ヨガをやってきたけど、今も始まったばかりだよ。」とジョシーは皆の前で笑いながら言った。
 
こんなほとんどポーズを取らないヨガレッスンを、参加者の方々がどこまで受け入れてくれるか不安だったが、ジョシーの身体の変化と共に向かいながら、それぞれの中でも変容が起こっているのも感じることができた。改めて感心したのは、ジョシーがちゃんと一人一人にコミットし、出会い、必要な事を伝えていったことだ。
 もちろんヨガを続けていけば健康になれる。けれど、この世界に不変なものはない。大切なのはむしろ私たちが健康でない時も、どうヨガの中にあり続けていくかということなのかもしれない。
 ヨガはマットを超えたずっとずっと先まで続く、生きることそのもの、ただそこにあることそのものがヨガになっていく。
 それは、どんどん不自由になっていくジョシーの身体を見ながら、私がずっと問いかけてきたことの答えでもあった。
「なんの為にヨガをするのだろう?ヨガの目指すところは何なのだろう?」
 私たちがこの身体で最後の一呼吸を終えるまで、ヨガは続く。ヨガに終わりはないのだと。

本物になりなさい

 リトリートの間、私はジョシーと参加者のアテンドで、ほとんど息つく暇もなかった。ジョシーがやってくると、今まで自分の内面に向けられていたエネルギーは全て彼の方に流れて行った。会場は結構無駄な段差(インドの建築にバリアフリーという言葉はない)が多く、うっかり転ばない様に、いつも注意を払う必要があった。トイレの介助も必要なので、その頃合いにも気を配る。
 そんな中、私はこの後の予定を決めかねていた。アナディのリトリートへ行くのか、ダラムサラへ再び向かうのか。そろそろフライトの予約もしなければならない。
 ある日、私はジョシーに尋ねてみた。「ケーララの後にどこに行こうか迷ってるんです。瞑想のリトリートに参加しようと思ってるんだけど、候補が二つあって決められない。」
「決められない時は、決める必要がないよ。自然に決まるから。」
「確かに、そうですね。じゃあそのままにしておきます。」

 その夜寝入りばなに、WEBサイトに掲載されているアナディの写真が、脳裏にぽんっと浮かんで来た。
「来なさい」
 写真の彼は、にっこり微笑んでこう言った様に思えた。
 我に返って、そしてようやく心が決まった。「そうか、今回はこっちへ行けということね。」
 翌日早速、アナディのWEBサイト経由で参加申し込みのメールを送った。すぐに返事が来て、リトリートの参加者はまず、自己紹介のメールを彼に送り、スカイプセッションを受ける様にとのことだった。彼と個人的なコンタクトが必要であることに少し驚いた。私は彼は有名な先生だから、大勢の参加者の一人として、ただリトリートに参加するのだと思っていたのだ。
 私はアナディに簡単な自己紹介メールを出した。日本語に翻訳されている本を読んでとても、とても感動したこと。また翻訳をされている萩原さんと偶然知り合いになって、このリトリートのことを聞いたこと、以前アドヴァイダ系の本を読んでいる時に、「ステート・オブ・プレゼンス」に類似した意識の場を偶然体験したが、その先どうしていいか全くわからずにいたこと。
 するとすぐに返事が帰ってきた。日本語の本はもう古いから、スカイプセッションまでに新しい本を読んでおきなさい。とだけ書かれていた。少なくとも今の基本的なティーチングの用語だけは理解しておくように、と用語集が送られてきた。
 それを見て、私は目を白黒させた。全く理解不能の用語がずらっと並んでいた。
「Consiousness(意識)」「Pure Me(純粋な私) 」「Pure Me of Consiousness (意識の純粋な私)」「Pure Attension(純粋な注意) 」「Consious Me(意識的な私)」「 Fundamental Me(根本的な私)」...
うわーどうしよう、全然分からない。こんなのついていけるだろうか....

 ジョシーのリトリートが無事終わり、ジョシーとMさんとそのお弟子さんの一人と四人で、ジョシーを労うためにティルバンナーマライまで4日間の駆け足旅行にでかけた。彼の健康状態を鑑みて、行きは寝台列車にトライしたが、帰りはタクシーをチャーターすることにした。結構な弾丸スケジュールだが、私はどうしてもジョシーを彼が大好きなアルナーチャラ山に連れていきたかったのだ。私一人ではもはや無理だし、これが最後のチャンスかもしれないと思ったのだった。
 楽しく思い出に残る旅だったが、私はジョシーのお守りでラマナ・アシュラムでゆっくり瞑想する暇もなく、若干不完全燃焼であったし、彼を連れての夜間の移動は相当大変だった。私もヘトヘトだったが、ジョシーにも思いの外体の負担をかけたかもしれない。
 まだ彼が元気だった3年前、一緒にラマナ・アシュラムへ出かけたあと「もう来ても来なくても、どっちでいいと言われたよ。」とジョシーが私に言ったのを思い出した。ジョシーにアルナーチャラを見せたいと無理して出かけた旅だったが、彼と一緒にアルナーチャラに行きたかったのは私で、彼はもうわざわざここに来る理由はなかったのかもしれないと思った。
 何かがひとつの節目をゆっくり迎えて行く感覚があった。

 ティルバンナーマライから戻り、ジョシーと久々に二人きりになって、アヒムサ・ガーデンリトリートで過ごした。ジョシーの弟が数日後にカンニャクマリまで連れ帰るために迎えにくるはずだったが、何のかんのと何かが起こってそれは延期された。弟も私がいる間は、介護から解放されてのんびり羽伸ばしできるだろう、それもよかろう。
 少しづつ、脳機能障害が進んで来ているジョシーの会話は、現実的なことに関しては、かなり謎のことも多かったのだが、会話が時空を超えたレベル、つまりスピリチュアルな側面に及ぶと、とたんに鋭さを増した。左脳的な理論的な部分が壊れてきているぶん、右脳的に直感的に世界を感受し続けているのだろう。彼から言われたことは、その時は理解できなくても、後でなるほど!と思うことが多いので、なるべくメモを心がけていた。
 ある日彼はおもむろに私に言った。
「あなたはいらないものを被って歩いている、やろうと思ったらすぐにできる。
でも、あなたはだいぶ上手くなったよ。だから周りにいる人たちが変わってきている。
 あなたは、本物になりたいと思っている。でもこれを間違えて、他の人は本物じゃないと言う。それは、気にしないで。
 本物になったかは、本物になったらすぐ分かる。
 どうやったら本物になるか?ただやってください。
 毎日の生活が偽物じゃないと考えたら、本物になる。
 ミラーを磨いてください。
 偽物を本物だと信じたら、あなた死んじゃうよ。」

 いよいよジョシーがカンニャクマリへ立ち去る前、私はいつものように尋ねた。
「次に会う時まで、何をプラクティスしたらいいですか?」
すると彼は一言、「瞑想」と答えた。
 私はずっとジョシーに瞑想を教えてくれと頼んでいたが、彼はいつも私に必要はない、瞑想は「ただ、自分自身であること」で、テクニックじゃないと言うばかりだった。5年の月日の中で彼が私に「瞑想しなさい」と言ったのは初めてだった。
 私はジョシーにアナディのリトリートに参加することは、きちんと告げてはいなかったが、直感的に何か分かるのだろう。彼に準備ができましたと言われたようで、私はうれしかった。

新しい先生

 アナディの教えはとても難解だ。私もまだまだ学びの途中にあり、それをきちんと説明することはできそうもない。彼のティーチングはアジズ時代から随分と変化しており、アジズ時代の教えに詳しくない私には、昔とどこがどう変わっているのかも、明確にはできない。
 私の今の理解が正しいのかどうかも甚だ怪しいし、ここはできるだけ私が教わったこと、そして実際に自分に何が起こったか、それを中心に書いてみたい。しかしそれでも、彼の独特の用語について少しは解説しないと、どうにもこうにも話を始められないので、頑張ってトライしてみようと思う。間違ってたらごめんなさい!

 アジズとフーマンの教えで最も知られているのは「ステート・オブ・プレゼンス」という考え方だというのは前回書いた。さらに「Me」と「I am 」という独特の用語がある。これは乱暴に言えば、インド哲学でのアートマンとブラーマンの関係に近いかもしれない。「Me(私)」は個人としての私の最も純粋な存在、それを「魂」とも彼は述べている。そして「I am (私はある)」個という境界を超えたユニヴァーサルな意識。
 通常の伝統的スピリチュアルな教えは、「私」を落とし、個を超えていくことを目的としているが、彼らは本当の「Me(私)」に目覚め、深く開かれていくことこそ、人間として生まれた私たちの魂が持つ熱望であり、スピリチュアルな道を歩む上で、欠くべからざることとして教えている。

「私」は人間であることの核となるエッセンスだ。実際の「私」は、本当にミステリアスだ。というのもそれは状態ではないからだ。そのダイナミックな性質のために「私」をピンポイントで指し示したり、マインドで把握することができない。白い光から発行した虹のように「私」は宇宙の「I am」の顕現なのだ。「私」は 「I am」ではないその子供なのだ。(「エンライトメント」)

 アナディになってからの教えも、基底となるエッセンスは変わっていない。しかしより「Me(私)」への探求に重きが置かれ、「ステート・オブ・プレゼンス」という言葉は使わなくなり、「私」という純粋な主体における様々なエネルギーポイントを微細に分割し、それらを観照する知性や、注意の方向、その質の違いにまで言及し、ともかく全体的にパズルのように複雑になっている。

 ドキドキしながらスカイプミーティングに望む。指定の時間にアクセスすると、アナディの顔が現れる。思ったより、気さくな感じ、見た目は普通の気のいいおじさん(失礼!)だった。
「まず後頭部の「Pure Me(純粋な私)」に意識を向けなさい。ちょうど額からまっすぐ後方に意識をもっていく、前の方は思考のエリアだが、後頭部はもっとリラックスしたエリアだ、ちょうど眠る前に枕を頭に埋めるような感じだ。ふわっとリラックスして、花が開くようにね。目を開けている時は、水平方向にサレンダーし、瞑想中は垂直に下ろしていく、しかしあくまでも「Pure Me」そのものにまかせなさい。
「Pure Me」へのアテンションを常に保つようにしなさい。365日それがなくならない状態にする。それが最初のステップだ。」
「ステート・オブ・プレゼンス」時代から、最初の大切なプラクティスとして、それに注意を向け続け、常に無くさず、結晶化させるのが大きな関門だと聞かされていた。その箇所が「Pure Me」に変わったということだ。(しかしそれは深遠なる「Me」の世界のほんの入り口にすぎないのだが。)
ようするにそれが出来るようにならないと先には進めない、というわけ。
 この自分自身に垂直に注意を向けるやり方は、20世紀最大の神秘家グルジェフが提唱した「自己起想」に近い。それはマインドフルネスなどの瞑想とは注意の方向が逆で、自分が感受している何かではなく、感受している自分自身に注意を保ち続ける。

「ところで、今インドにいるんだろう?」
「はい」
「こっちにはいつ来れるの?」
「あ、リトリートの前日に着こうと思ってました。」
「インドにいるなら、出来るだけ早くアルモラに来なさい、リトリートの前に練習するといいし、時間があれば個人セッションもできるから。」その時、私ははじめてアルモラという地名を聞いた。
「え〜と、アルモラってどこにあるんでしょう?」
「デリーから列車で6時間かけて終点のカタゴッダムで降りて、そこからタクシーで3時間ほどだよ。」
「すでに10月31日のフライトは取ってしまったのです。デリーで何日か過ごそうと思ってたんですが...考えてみます。」
スカイプを切ったあと、すぐアナディからメールがきた。「可能であれば早めにアルモラに来なさい。リトリート直前は忙しいから、来るなら1週間から10日くらい前には着いているように。」
 すぐにアルモラという場所について調べてみた。それはウッタラカンド州にあり、ヨガの聖地で有名なリシュケシュより山間に入った、ネパール国境の近くに位置している。デリーから朝6時の特急にのればお昼すぎには終点のカタゴッダムに着く。どうやらリトリートはコルベット国立公園というカダゴッタム駅から割合近い場所で行われるが、アナディはアルモラに住んでおり、リトリート会場からアルモラは車で数時間ほど離れているようだった。31日のエアチケットはあるので、10日からのリトリートの1週間前に着くとしたら、デリーで過ごす時間は全くない。当時はまだデリーでTシャツなど作って日本で売るとか、ヨガの先生をするとか、そんなプランがあったので、リサーチのために1週間ほど滞在しようかと考えていたのだった。しかし、アナディに来いと言われたら、行くしかないだろう。1日考えて、私は11月2日の列車に乗ってアルモラへ向かうことにした。
 その旨を連絡すると、アナディからタクシーと宿泊先のアレンジはしておくと返事がきた。

探していたのは

 スカイプ・ミーティングの後から私は彼から教わった方法で瞑想をはじめ、そして最近の著作である「私の聖なる道(Divine Path of Me)」を読み始めた。すぐに引き込まれた。

「私」が何かを知ることは、あなたが自分自身になる必要がある。あなたは自分の存在全体とともに「私」のために仕えなければならない。あなたはこの世界の何よりも「私」を愛さなければならない。そうやってあなたは、それが何なのか知ることができる。

 どのようにあなたは自分自身を感じるのだろう?あなたは自分自身の中へ、あなたの存在と個人としての感覚の中心へ入っていかなければならない。あなたの「私」のなかへ。まずはじめに、あなたは自分の存在の本性へ戻りたいと熱望することを明確にしなければ。もしその熱望がなければ、そこにはインスピレーションは何もなく、そのプラクティスはドライで無意味なものになってしまう。その熱望は真実で偽りのないものでなければならない。「私の聖なる道(Divine Path of Me)」

 後頭部の「Pure Me」に注意を向けて瞑想すると、今までと全く違った感覚に包まれた。それは、ずっと自分を越えていこうとしたエネルギーを自分の中に注ぎ込むという感覚だった。そこに今まで注意を向けていなかった、私という空っぽの器があった。
 エネルギーが下腹に向かって流れ込み、大地に引っ張られるようにグラウンディングする。それは、ちょうど初めてジョンのリトリートで起こった時と似た感覚だった。体がどんどん重くなり、どんどん重力に引っ張らていく。自分の中心がエネルギーに満たされ、私が私であるという確かな感覚が起こった。それはほとんどエクスタティックだった。バラバラだった私の存在の断片が少しづつ近づき合って、ひとつに重なり合って行くようだった。あまりにも突然に強烈な変化が起こったことに驚いた。すでにアナディのエネルギーが流れ込んできているのかもしれない。

 それまで私は常に「私」のいない場所を探し続けてきた。

 非二元の知覚のエッセンスは、源泉と創造の全体性と自己同一化するための「私」の願望だ。悟りであるワンネスへの目覚めにおいて「私」はまさに自分自身の存在を否定したいと願うかもしれない。「私」は存在の海の中に、そのアイデンティティを消滅させたいと思う。個人は非個人、宇宙になりたいと思う。
 そこで疑問が生まれる。「私」は本当に自分自身の存在を否定できるのか?「ホールネス」の体験の中で、それはシンプルに消えることができるのか?
 (中略)しかし、ひとつだけはっきりと確かなことがある。「私はそれだ」といういかなる宣言も、それが起こるためには、個人的な「私」がそれを宣言するためにそこにいなければならない。ある特定の存在がなくて、一体どうやって宇宙は表現されるというのか?「私」は全ての境地の体験者であり、「私」が存在することを止めることはできない。「私」が消え去る時、人は意識以前にある根源の状態へ戻っていく。(「エンライトメント」)

 この一文に書かれているように、インドで出会った多くの先生たちから「私はいない」と繰り返し聞かされてきた。「本来のわたしたちは大海そのものであって、波ではない」と。まさに私は「存在の海の中に、そのアイデンティティを消滅させたい」と願っていた。しかしいつまでも私はそこにいるのだった。先生たちは言った。「恩寵を待ちなさい」と。仏教のティーチングでも「私」を落とすことは大前提だった。
 だから「私はいてもいい」と知ることは、意識の転換の大いなる一撃だった。
 まさにこの、ずっと消し去ろう、追い出そうとしていた相手こそ、最も愛すべき相手だったとしたら?

探していたのは私だった
ひとつになりかたっかのは私だった
愛しているのは私だった
あなたは私のずっとそばにいたのいうのに

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