マハラジ

私という深き問いかけ〜ニサルガダッタ・マハラジ「意識に先立って」

私についての科学

 前回ラメッシ・バルセカールの「誰がかまうもんか?!」について書いたが、ニサルガダッタ・マハラジは彼の偉大なグルである。

 マハラジの代表作である「アイ・アム・ザット」は随分前から持っていたけど、ものすごく分厚い本で読みにくく、マハラジの突き放したような物言いが、取りつくシマもない感じがして、なかなか読み切ることができず、ずっと苦手意識を持っていた。

 しかし「誰がかまうもんか?!」を読んでからは、マハラジが言わんとしているポイントがぐっと掴みやすくなり、割とするする読める様になった。ようやく、数年がかりでほどんどの部分に目を通せたので、今は晩年の講話集「意識に先立って」を読んでいる。
 「意識に先立って」はマハラジの最晩年、喉頭癌の痛みに耐えながら行った講話を収めており、所々にはっきりと死を見据えた発言や、身体的な苦痛を訴える言葉が散見される。
 「アイ・アム・ザット」の頃は、探求初期にある弟子の身近な質問にも丁寧に答えていたが、もうそんな余裕はなく、死ぬ前に大切なことだけ伝えておく、理解できない人は帰りなさい。という気迫に満ちていて、それが胸を打つ。

 一般には「アイ・アム・ザット」より抽象度が上がっているので、難解と言われているのだが、余計な部分がそぎ落とされてエッセンスが凝縮されており、分量も少ないので、私にはこちらの方がすっと本の中へ入っていけた。
 何より、死を直前にして「これだけは伝えたい」という熱量が行間からあふれ出ており、読んでる方も逃すまいと、つい真剣になる。

 本のあとがきの中で訳者の高木悠鼓氏が書かれているが、このニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハルシ、ラメッシ・バルセカール、プンジャジなどに代表されるインドの非二元系の教えは、便宜上宗教とかスピリチュアルに分類はされるが、実は非常に厳密な科学的なアプローチである。
 探求、調査、研究される対象は「私」と「世界」のかかわり。
「私とは一体何者なのか?」ということを徹底的に問いかけていく。

 私とは一体何か?私はどこからやって来て、どこへ去っていくのか?
 ものすごくシンプルで根源的な問いかけなのだ。

ある日探求が起こる

 小さな頃、誰もが一度くらいは、そんな素朴な問いを投げかけたことがあるのではないだろうか。私は一体どこからやってきたのか?死ぬとはどういうことなのか?私は何故、何のために生きているのか?

 親や学校の先生は、彼らが生きている社会や宗教の常識や規範に従って、私たちにそれを教えてきた。
 精子と卵子が受胎して胎児になって母親の子宮から生まれたという解説もできるし、人間はダーウィンの進化論に沿って進化してきたと説明もできるかもしれないし、インドならカルマや前世の考えがあり、キリスト教なら罪や天国や神の考えからその答えを子供に言うかもしれない。
 何のために生きているという問いには、社会で成功するため、家庭を持って繁栄させるため、人の役に立っため、幸せになるため、今なら自分の好きなことをするためとか、いずれにせよそれは、時代や地域性に限定されている。

 そうした言葉を心に刻みつけて子供は大きくなり、それに従って生きていく。それで上手くいくなら、しばらくは何の問題もなくそのまま人生は送られていくだろう。
 しかしある時、人はふと立ち止まる。
「それって何か違う気がする。本当のことが知りたい。」と

 ラメッシ・バルセカールならそこに探求者の自由意思はなく、探求が自然に起こると言うだろう。探求が始まるのに理由はいらない。もちろん人それぞれに色々な理由があるだろうけれど、結局それは突然起こり、これぞれ固有の運命に従って展開していくだけだ。
 探求は色々な形で起こる、ヨガや瞑想に熱中したり、マントラや祈りを唱えたり、座禅を組んだり、スピリチュアルなセッションを受けたり、グルを探す旅に出たり、アシュラムに入ったり。
 そこで神秘的な体験が起こったり、至福に酔ってもう大丈夫だと思ったり、そして再び惨めさに転げ落ち、「さらにもっと何かがあるはず」と探求を続ける。

虚空の向こう側

 この本を読みながら、ふと感じたのは、私は物事を複雑に難解にしていたけれど、探すべき場所は拍子抜けするくらいの足元、子供の頃に時折感じていた不思議な虚空の、あの彼方なのではないかと。

 目が覚めた瞬間のあの空白の時間。
 よく知った風景をじっと凝視していると、急に見知らぬ風景に見えて、目を凝らした驚き。
 かくれんぼをしていて、押入れの中の暗闇で息を潜めていた時の深い静けさ。
 森の中を散歩する時に感じた、全てが溶け合ったような穏やかな至福。

 そこにいたのは誰だったのか?
 名前なく年齢もなく国籍も性別もなく、私が体だという意識もなく、自分が美人だとか醜いとか、頭が悪いとか賢いとかいう認識もない。

 けれど、確かに自分はいる、と言う感覚
 その私は何者なのか?

 その誰でもなかった私は、いつのまにか体や名前、性別や国籍を自分を同一化して、「これは良いけどあれは悪い」「私はこう言う人間だから、こうしなければいけない」「あれをしてはいけない」「幸せとはこういうもの」と色々と余計なものを後付けしていっただけなのだ。
 自分自身を「あれです、これです」と概念で分割する前、私とは一体誰だったのか?様々な概念で無数に分割される前は、私は制限のない自由な存在だったのではないか?それらの後付けを全て取り去った時、残るのは何か?
 探すべきはその場所、その一点のみだ。

「ここであなたが得る唯一の知識は真我の知識だ。それはこの世で生計を立てるのには役立たないことだろう。自分の本質は何かという観念をあなたはもっていないのだろうか?あなたは自分が何でないかを理解したのだから、自分でないものについて関心をもつべきではない。そのことは明確だろうか?」ニサルガダッタ・マハラジ「意識に先立って」)

 私とは本当は何なのか?そんなことを問いかけ続けたって本当に飯のタネにも何もなりはしない。子供が親にそんな質問をしたら、「バカなことを考えていないで、宿題でもしなさい!」と叱られてしまいそうだ。そんな命題を人生をかけて探求し、人々に説き続けてきたインドの賢人達ってやっぱり度が過ぎてるなあと思うのだ。

 けれどまさに「私」という存在こそ世界と向き合う基盤そのもの。だから私を掘り下げることは世界全体を掘り下げることに繋がっていくのだと思う。

死という神秘

 本文の口絵に、最晩年のマハラジの写真が掲載されており、私はその強烈な眼差しから目が離せなくなってしまった。その写真とともにマハラジの言葉を追っていると、彼がやがて移行するだろうその虚空へ引き込まれていく。もちろん厳密には彼はどこかに行くわけではないが...
 その虚空は私たちがやってきた場所であり、今もまたそうであり、未だかつて一度も離れたことのない場所。
 来ては去っていくのは身体で、そのスペースは決して変化することはない。死とはなんて驚くべき神秘なのだろう。

 「あらゆる人が死ななければならない。だったら、自分の本質として死になさい。なぜ肉体として死ぬのか?自分の本質を決して忘れないようにしなさい。そのことは多くの人たちには受け入れられないかもしれないが、それが事実だ。
 もしあなたが野心をもたなければならないとしたら、最高の野心をもちなさい。そうすれば、少なくとも死ぬ最中に、あなたは絶対になることだろう。今、断固として信念を持って決意しなさい。」ニサルガダッタ・マハラジ「意識に先立って」)

 
 思い起こせば私の探求が突然始まったのは、2011年の震災の後だった、多くの死を目の当たりにした時に、理由もなくそれは起こり、背中を押され続けて、気がついたら今日まで来ていた。
 そして今、世の中はあの時と似た重い死の空気に包まれている。こういう時、人の存在は揺り動かされ、裂け目が生じ、幾割合かの人々が探求に駆り立てられていくのだろうと感じたりしている。

「私」とは、そして生きることと死ぬことは何かを探しに。

「他人の概念を通じて、あなたは自分のまわりにあまりに多くの物事を築きあげてきたので、道に迷っている。「あなた」は他人の概念によって装飾され、粉飾されている。外からのうわさを受け取る以前に、自分についての情報を何か持っていた人がいるだろうか?
 サットグル(内なるグル)の目的は、他人からのこういったあらゆる概念を築きあげる以前のあなたがどんなものかを教えることだ。あなたの現在の霊的倉庫は他人の言葉でいっぱいだ。そういった概念を破壊しなさい。サットグルとは決して変わらない永遠の状態ーあるがままのあなたーを意味している。あなたはその不変で変わらない絶対だ。サットグルはあなたに、他人のうわさと概念によってあなたのまわりに築きあげられた、こういった壁を取り除きなさいと言っているのだ。」(ニサルガダッタ・マハラジ「意識に先立って」)

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