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インド瞑想を巡る旅 2

この一年の瞑想を巡る旅路をまとめています。専門的な話も少し入ります。できるだけわかりやすく説明するよう心がけましたが、間違いなどありましたらご容赦ください。

2 カナダの賢者と出会う


世界は二つではない

 ティルバンナーマライは、近年多くの人の関心を集めている哲学、アドヴァイダ・ヴェーダンタの本拠地とも言う場所で、シーズン中には、国内外から沢山の先生がやってきてサットサンを開く。シヴァ神のダイナミックなエナジーと沈黙の聖者と呼ばれたラマナ・マハリシの存在がなお残るアシュラム、さらに様々なグルやマスターの講話やそのエネルギーに直に触れられる(しかもドネーションで!)となれば、ハイ・シーズンの12月から2月は宿を見つけるのも難しいほどの混雑となる。
 
 アドヴァイダ・ヴェーダンタは8世紀に南インドの哲人シャンカラチャリアが説いた教え。最近は現代的に英語でノン・デュアリティと呼ばれることが多い。アドヴァイダは二つではないという意味。ちなみにラマナ・ハマリシ自身はアドヴァイダの特定の師について学んだことはなく、彼自身の直接体験から得たものを、のちに古典を参照しながら教えを説いていったと言う。
 ノン・デュアリティは日本では悟り系とも呼ばれていて、様々な書籍も出版されている。それはものすごく乱暴を承知で言えば、私たちはすでに完全な存在であり、特別な何かになる必要も、何かを探す必要もない。ただ自分自身の本来の姿、それは個を超えた、不変で永遠の、名前で固定することも、掴み取ることもできない「それ」であることに目覚めればいいだけ。
 基本的にほとんどの伝統的なスピリチュアルな教えは、何らかの厳しい修行を必要とする。俗世を捨てて山にこもったり、瞑想したり、マントラを唱えたり、断食をしたり、等々。そこには私たちはそのままでは不完全な状態であり、何か修行を「する」ことによって、完成された状態に近づいていく、という考えがベースになっている。Aという不完全な存在がBというより良き存在に移行していく。つまりここで存在がAとBに分割され「二つ」になる。
 私たちの日常の生活も、その考えを前提をして成り立っている。私があってあなたがいる。私があってその外側に世界が広がっている。その私の外側の世界には様々な人間や木や動物やいろんな物質がそれぞれ個々に、儚い寿命の中で生きながらえている、といった感じに。その全ては個々にバラバラだという考えが、苦しみを生み出していく。
 
 私は独立した個人だから、自分を愛してくれる別の存在がいないと、孤独でひとりぼっち。世界と私は別々だから、世界に自分の存在を認めてもらうために、あれこれ努力する必要がある。私が死ぬ時は世界から私という個人が消滅し、世界はそのまま続いていく、私という存在がこの世にいたことを覚えていてもらいたいから、子孫や功績を残したいと願う。だから私たちはいつも自分の外側を見て、外側の誰かや社会に自分の存在を認めてもらうために飽くなきアプローチをする。もし世界の誰にも、何にも承認されなかったら、自分という存在はあまりに頼りなく、いないも同然だと感じている。
 
 けれど実は、そのバラバラな世界や限りある命といった考えはあなたの勘違いだったらどうする? そもそも独立した個人と考えている、この「私」って一体誰?
「Who am I?」私とは誰か?ラマナ・マハリシが説いた、この自分自身への問いかけが、ノン・デュアリティの旅の始まり。いや、ノン・デュアリティの考えからいえば、旅なんて初めから必要ないのだ。世界はバラバラでなくひとつなのだから、到達すべき別の場所などそもそも存在しない。むしろ何処かへ行こうとする行為が、私たちを根源から引き離してしまう。
 ここから先は私が語れる話ではないので、ぜひ専門書を紐解いてほしい。ともかく今までの私たちの世界へのまなざしを、がつんと根底からひっくり返す過激な教えでもある。だからこそ今多くの人々の注目を集めているのだろう。

賢者とのミーティング

 ティルバンナーマライで最初に出会った先生は、ジョン・デ・ライターというカナダ人であった。彼は数年前から、毎年1月末に2週間のセミナーをティルバンナーマライで行なっている。(彼はあえて伝統的なサットサンという言葉を使わず、こうした場をセミナーやミーティングと呼んでいる。)
 彼のことを知ったのは偶然で、3年前にまだジョシーが旅できた頃、一緒にセミナーの会場になっているアナンタ・ニケタンというアシュラムに宿泊したのがきっかけ。ちょうどジョンのセミナーが終わったばかりで、カナダからの参加者が何人か残っていたのだ。彼らが口を揃えて言うには、ジョンのエネルギーは素晴らしく、完全にエンライトしているとべた褒めする。
 完全に悟った人間って、どんな感じなんだろう?それまで私は、生きている聖者、いわゆる悟りを開いた人に会ったことがなかった。そういう人たちが、普通の人間とどんな風に違うのか、単純に興味をそそられた私は、翌年ケーララに向かう前にジョンのセミナーに参加してみることにしたのだった。
 
 ジョンは大柄で、ぱりっとアイロンのかかった白いシャツにネイヴィーブルーのジーンズという、学校の体育の先生のような清潔感あふれるいでたち。スピリチュアル臭さは微塵もない。しかし、ほとんど動かず、言葉も少なく、じっと参加者の目を見つめたまま、話し始めてもささやくような声で、ほとんど英語が聞き取れないし、質疑応答でマイクを持った質問者は、ジョンに見つめられると、感極まって凍りついたようになってしまう。最初はなんだか狐につままれたような気分だった。
 しかしそこには、瞑想生活何十年といった強者たちが集まってきていて、何人かの日本人とも知り合いになった。そして彼らの多くは、アジズと共にワークを行なっていたフーマンの弟子たちであった。聞くところによると、フーマンは自分が亡くなる前、死期を悟ってか弟子たちにジョンの元へ行ってみるようにと勧めたという。
 その中の一人、エドモントンのジョンのコミュニティに長く住んでいる女性は、戸惑っている私にこうアドヴァイスしてくれた。「わからなくてもいいのよ、ただ彼のエネルギーの中にいるだけで十分受け取れるから。できるだけ近くに座るといいわよ。」
 そこでできるだけ近くに座って、彼の話を聞くことにした。コミュニティの習わしなのか、初めてセミナーに参加する人は優先的に前の方に座らせてくれた。ジョンの英語表現は独特でネイティブでも分かりにくい所があるらしい。私には3~4割聞き取れてるかどうかだ。それでも朝から晩までひたすら座って聞き続ける。
 なんだかちょうど十数年前、インド古典音楽を聞くためにインドに通ってたこところを思い出した。最初の頃は北インド古典も南インド古典の違いも楽器の特徴もわからず、それでもこの音楽を聴き続けたいという妙な情熱に駆られて、1日5、6時間コンサート会場に座り続けていた。そのうち、だんだん全体の構成や味わいの妙などもわかって来て、どこが聴きどころか、楽器が奏でる音色の違いにも敏感になってきた。マスターのエネルギーを感受し続けることも、それと似たようなものなのかも。
 
 最初の頃はジョンのそばに座り、彼の目を見つめながらそのエネルギーの中に居続けると、猛烈に眠くなり、倒れこみそうになるときもあった。数日するとエネルギー酔いしたように頭が重くなってきた。そしてある日、その頭にとどまっていたエネルギーが、一気に身体から足裏に抜けていった。頭はスッキリしているけど、足の裏が地面から離れない。ものすごい重力で地球の中心に引っ張られているようだ。一体これは何なのだ?
 そしてある時は、たまたま私の隣に座っていた人が質問をした。ジョンが彼に目を向けると、エネルギーの強烈な爆風がどかーんと隣の私にまで吹き付けてきた。その時、なぜ質問者が感極まって動きが止まってしまうかが分かった。蛇に睨まれたカエル、じゃないけど完全に射抜かれてしまうのだ。
 ともかく、悟ったと言われる人のそばにいる経験は私には初めてなので、何が何だかわからないが、何だかすごいと言うことだけは感じる。
 
 すでに10年以上ジョンのリトリートに参加し続けているというUさん曰く、「僕は若い頃から、悟りというものに興味があって、仕事もしないで瞑想し続けていて、悟っているという人に会い続けてきた。多分20人以上は会ってると思うけど、今生きている人の中でもっともパワフルな3人は、ジョンとアンマとサイマーだと思う。でも、その中でもジョンはダントツ。たいてい聖者と呼ばれる人のそばにいると気持ち良くなるものだけど、その場だけってことが多い。でも、ジョンのエネルギーはそのあともずっと作用していくんだよ。ここに来ている人たちは、スピリチュアルな道を探求して20年、30年って人たちがざら。一瞥体験なんて珍しくもない。でも、悟りにはいくつものレベルがあって、ジョンの悟りのレベルはとても深いんだ。有名なスピリチュアル・ティーチャーでもみんながそこまで深く悟っている訳じゃないんだよ。」とのこと。
それが私が生きている「マスター」と呼ばれている人に始めて出会った経験で、その道を何年も真摯に探求し続けている人たちと知り合ったのも始めてのことだった。
 そして翌年も私はジョンのセミナーに足を運んだ。2回目の参加で、以前よりは話が飲み込めたし、ただエネルギー的にすごいというだけでなく、彼の言葉の繊細さに胸を打たれた。
 厳密にはジョンはアドヴァイダ・ベーダンタの人ではない。プロフィールによれば、17歳の時に大きな覚醒体験をして、その後完全にそれを失い、再び取り戻すという体験を経て、独自の教えを伝えるようになったらしい。彼が自分の経験から導き出した教えは根っこはアドヴァイダに近いが、もっと繊細で層が深く、表現も現代的なアプローチをする。むしろ彼は伝統的な「悟り」や「スピリチュアル」についての価値観から私たちを解放しようとしているという印象を持つ。

ジョンへの質問

  彼のティーチングを説明するのはとても難しい。「ヴェールを脱いだ実存」というタイトルで書籍が日本語訳されているが、彼の独特の表現に慣れていないと、何をいてるのか非常に分かりにくい。私もどこまで理解しているかかなり怪しいが、簡単に説明すると、
 私たちは、自分が無意識的にアイデンティファイしている個人としての「self(自己)」ではない。もっと深い「being (存在)」「What you really are (本来のあなたであるもの)」である。ハートを開き、柔らかく(Softness )、内なる微かな大丈夫さ(OKness)と繊細に共にあること。それが個人として凝り固まった自己を開き、その「Being」を「Self」の領域まで流れさせてゆく、個人でありながらBeingを生きること、それが身体を持って生まれてきた私たちの目的である。
 
 と書いてしまえば、シンプルだが、それが実際どんなものか、どうやって、どんなふうにbeing を生きるのか。セミナーでは様々な人々が様々な質問を投げかけてくる。探求生活数十年のツワモノもいれば、たまたまふらりと寄ってみただけの人も。自分の体験を消化しきれない人もいれば、インド人の若い娘が「子供が欲しいのにできない」と悩みを相談したりもする。丸一日様々な質問に答えながら、非常に繊細なレベルにまで説明が及ぶ。全く言葉を介さず、沈黙だけの答えが帰ってくることも多い。
 彼は伝統的なスピリチュアル・プラクティス、修行と呼ばれるものを勧めない。瞑想も必要ないと言う。それは、結果的に体験に固執させ、セルフを強化させてしまうから。ティーチングの中にも、悟りとか、解脱とか、カルマとか、チャクラとかクンダリーニとか、そういう神秘的な言葉も表現も一切でてこない。その代わりにOkness とか Sfteness , Openness, といった独特の表現をささやくような声で繰り返す。頭で理解させるのではなく、言葉の囁き、その質感を通して、直感的に伝えようとしているのかもしれない。 
 その方法はダイレクト・トランスミッションとも呼ばれていて、彼とともにいる事で言葉を超えたものを、エネルギーごと手渡して行く。難しそうだけど、例えば笑うということがどういうことか知らない人がいて、それを言葉でどうこう説明するよりも、実際に笑って見せるのが一番早いわけで。そして笑っている人がそばにいると、周りの人も自然に笑みがこぼれてくる。「これが笑うってことなんだよ。」「ああ、なるほど!」みたいな感じ。
 だから質問者が自分の体験を特別で神秘的な解釈で語ろうとすると、逆にばっさり切り捨ててしまう。ある時はそういう伝統的な修行で神経がやられてしまった人が、どうしたら良いかと尋ねてきた。その時の答えはこんな風だった。
 「あなたは今、自分の中の「大丈夫でないもの」に対しセンシティブになっています。それがあなたを機能不全にさせているのです。優しく、静かに、ただ大丈夫でいてください、暖かな大丈夫さの中に。本来のあなたであるものの中に。
 少しづつで良いのです、大丈夫さの中にアクセスしていきなさい。ほんの少しづつ、たとえ大丈夫でなくとも、ちょっとづつ大丈夫にアクセスしていくのです。
 もしもあなたの体が良い状態でなかったとしても、暖かく大丈夫でいなさい。愛とは、少しづつ少しづつ、そしてほんのささやかなものです。
 小さいほんの小さなことに大丈夫でいなさい。大きなことを気にしすぎないでください、大きなところに行きすぎてしまうと、パターンを作ってしまうのです。小さなことはパターンを作りません。」
 
 ある日、私は思い切ってジョンに質問を投げかけてみた。それは身体とスピリチュアリティについての素朴な疑問だった。私はジョシーのことを思い出し、身体の機能が衰えていく彼を、周りが彼自身の精神性やヨギとしての存在までもが、失われたように捉えていることへの疑問だった。健全な体に健全な精神が宿ると言われてはいるが、身体とスピリチュアルな状態はどんな風にリンクしているのか、そして人間にとって身体とは一体何なのか?

「私たちは赤ちゃんのようにピュアな状態で、世界を見るために生まれてきたのです。大抵の人の身体というのは、閉じたアコーディオンのようにフイゴの部分が閉まっていて開くことができないのです。そしてその身体が開いているかどうかは、自分が開いていないと分かりません。それは身体が健康であるかどうかには全く関係がないのです。身体にはいくつもの層があり、それがひとつ開くごとにより深く、開いた状態がわかるようになってきます。あなたは、この私の体の深さ、広がりをどこまで感じることができますか?」
 と、ジョンは唐突に自分の身体を指して尋ねた。いきなりそんなふうに聞かれて、かなり面食らってしまった。私の印象ではジョンの身体には、どこにも防御もテンションもなかった。誰かからどう見られているかとか、こうふるまおうとかそういうところから全く無縁の、それは逆に人間臭さがなくて、彼の背後に広がる石や木々と同じ感じがした。すっとただ、そこにあるだけ、シンプルに存在している身体。
「この存在(Being)に開いて行くためには、あなたが眠る前、眠りに落ちる前のわずかな時間を捉えてください。」
「それは、夢のような様々なイメージが頭に流れ込んでくる瞬間ですか?」
「いえ、それよりもっと先です。あなたはそれをキープする必要はありません。そのわずかなポイントに触れたら、あとは眠りに落ちていいのです。その時、あなたはホームに帰り着き、感情も起こったことも、パーソナリティも全てなくなります。
それが私たちの本来の姿なのです。」
「それはあなたが学んでいる、伝統的な方法や、いかなるプラクティスでも教えることはできないし、習得することもできません。その眠りに落ちる前の瞬間を捉えなさい。そこでは私たちには違いはありません。そしてそこでは、私たちは身体を超えた存在です。全ての人たちにとって本当の姿がここにあるのです。」
 
 ジョンはこの眠りに落ちる一瞬を捉えなさい、ということをよく口にしている。え、これだけですか?と思うもののやってみると難しいのだ。私は未だに出来たことがない。眠りに落ちる、一瞬前の多分意識が完全に空白になった状態。
 私は彼にヨガや瞑想をしていることは一言も言わなかったが、そのくらいお見通しなんだろう。そしてその一瞬は彼が言うようにどんな深い瞑想の境地でも得られないものなのか。 眠る前にやろうと思い出しても、気がつくと眠り込んでいる。単純に言うけれど、そのわずかな隙間を捉えるのは簡単ではなさそうだった。

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