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一人ぼっちの、いっちゃん

1番上の子、いっちゃんと久しぶりに二人で出かけた。下の二人の子育てに手がかかるので、いっちゃんと二人になる時間は、意識しないと作ることができない。

近場だったので自転車で行くことにした。さあ出かけよう、とすると、いっちゃんのタイヤに空気が全然入っていない。「いつから入れてないの!?」「覚えてない…」「この前パンク修理したとき、1ヶ月に一回は入れないとパンクしやすくなるよって言ったよね?」「うーん…」

荷物入れのカゴも、金具がとれてグラグラになっている。走ると搖れて、前輪の泥除けカバーにガンガン当たる。「いつからこんななの?」「いつの間にって言うかー…」

その日は予定を変更して、自転車の修理に行った。幸いパンクもしておらず、グラグラのカゴも余った金具で無料で修理してくれた。

「何かあったら言ってね、おかあさん、そんなに気が回らないから」「うん、わかった」

自転車のカゴがガンガン当たって、ぺしゃんこのタイヤで走っていた、いっちゃん。私はその姿を見て、いっちゃんは本当に一人ぼっちなんだと思った。

いっちゃんは友達が少ない。学校では仲の良い友だちもいて、楽しく過ごしているようだけれど、放課後に約束して遊ぶことはあまりない。自分のペースでテレビを見たりゲームをする方が気楽なようで、友達を連れてくることはめったになかった。

友達は欲しいけど、自分のペースは乱したくない。そういう性格なのだから仕方ない、と私も本人の好きにさせていたけれど、いっちゃんはこのままずっと一人なのかな、と不安に思うところもある。

一人でいると、当たり前のことに気付かない。友達に「なんだよ、その自転車」とからかわれれば、さすがにどうかと思うところが、ずっと一人でいるから、少しずつ 抜けていく空気に気が付かない。

親としては不憫に思うし、群れることが苦手ならば、親がもっと見てやらなければとも思うけれど、そこがきょうだいのいる難しいところで、しっかりものであればあるほど、一人でスイスイとこなしてしまう長子に親が頼りきってしまう。

習い事も、一人で自転車で出掛けて一人で帰ってくる。とても助かるけれど、果たしてこのまま大人になって良いのだろうか。罪悪感もあるし、過保護かとも思うし、私のこの気持ちはどこに持っていったらいいのだろう。

いっちゃんが一人ぼっちだ、と思うのは、友達が少ないから、という理由だけではない。私は下の二人にかかりきりで、周りが全然見えていない。夫も同様だし、私以上に気が回らない。下の二人は幼すぎて話が通じない。家族の中で、いっちゃんだけが冷静でまともなんじゃないかと思うのだ。

小学生なのに。

2番目のニンタの病名がわかってから、しばらくして「きょうだい児」という言葉を知った。それはまさにいっちゃんの事だと思ったし、いっちゃんを「きょうだい児」の環境から遠ざけたいと思った。でも、その後私はどんどん勝手に追い詰められていき、おそらく、いっちゃんは、家族全員の心配をしていると思う。

その日は、いっちゃんが習っている水泳の進級テストもあった。テストと言っても名ばかりで、規定通り泳げば必ず進級する。それでも親達は見学に付添い、我が子の勇姿をビデオカメラにおさめる。

いっちゃんは、その進級テストも何度か一人で受けていた。或いは夫が付き添った。私は本当に久しぶりで、いっちゃんがバッサバッサとバタフライで泳ぐ姿に驚かされた。いっちゃんは、一人で勝手に大きくなっている。

本当は、1番上の子は、一番手間も愛情もかけて育てている。初めてだから不安だし、初めてだから時間に余裕もある。3番目のミコがいっちゃんと同じ年齢になったとき、もっともっとほったらかしにされている可能性は高い。

それでも、きっとミコはそんなこと気にしないだろう。いっちゃんはその時、更に自立の歩を進めている。ミコはその後ろ姿を見て育つから、自分がほったらかしであることに気が付かない可能性が高い。

(とはいえ、その時障害のあるニンタにどれだけ手がかかるかはまだ未知数。自分より年上のニンタが、自分より手をかけられていたら、ミコも「きょうだい児の悩み」を抱えていくんだろうな、とも思う。)

私自身のことを思えば、こども時代は一人で好き勝手にやっていたように思う。そういう時代だったし、どこの家もそんな感じだった。でもある程度友達がいたし、きょうだいに助けてもらうこともあったし、一人ぼっちだと思ったことはなかった。

誰もが満たされた環境で育つわけではない。一番上の子には、どの時代にも共通した大変さがあるだろうし、それを完璧に取り除いてやるのは不可能だ。

でも。やっぱり親としては、できることをやりたい。本当は友達がほしいと思っているいっちゃん、まだまだ親とも遊びたいいっちゃん。

きっと、いっちゃんが親の助けを必要とするのもあと数年だ。すぐに親の手から離れていく。あと数年の貴重な時間、私はいっちゃんと共に居よう。

長男長女は、親が手をかけた時間を正確にそのまま愛情として受け止められない宿命にある。いっちゃん誕生→からニンタが産まれるまで、二人きりで過ごした濃密な四年間は、もういっちゃんの記憶の中には、ほとんどない。こぼれ落ちてしまった愛情がもったいないと思う私はさもしい。こぼれてもこぼれても、それでもまだ余るくらい、愛情を出し惜しみするなよ、と自分に喝をいれる。

一人ぼっちなのは気のせいではないし、それは親である私の責任だけれど、今、私がいっちゃんのことを一番に気にかけていることが、どうか伝わりますように。

自転車のこと、気づくの遅くてごめんね。次の水泳の進級テストも、おかあさんが行くからね。

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