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私のかみさま

区役所で提出書類のコピーをとろうと、10円玉を入れようと思ったら、コピー機がもう入金済みの表示になっていた。前の人がお釣りを忘れたに違いない。

私は少しためらった後、お金をいれずにコピーをした。できた。もしかして故障の可能性も、と思ったけど、やっぱりお金が入っている。

釣り銭受け取りのボタンを押す。460円も出てきた。私は財布の中から10円玉を取り出して、自分が使ってしまった10円を加えて470円に戻し、区役所受付に事情を話して預かってもらった。

「黙って盗んでしまおうか」という気持ちが一瞬でもかすめた自分が情けない。470円で私の何が助かるわけでもないのに、「お金」というだけで反射的に欲しくなってしまう、それがどんなに隠しても自分自身で、私はそういう自分と一生付き合っていくしかない。

後からゆっくり考えると、盗んだお金でコーヒーを買ってもちっともおいしくない、ということなのだけれど、魔が差したその瞬間、私を止めたのは「かみさまに試されている」という考えだった。

私は信仰する宗教を持っていない。家には仏壇があるし、お正月は神社で初詣をするし、クリスマスはケーキを食べる、なんというか、一周回って、真っ当な日本人だ。

そしてなぜか、私は宗教の勧誘によく巻き込まれる。見た目がちょろいんだろうな、と思う。喫茶店で何時間も説得されて帰してもらえなかったり、玄関口で一度パンフレットをもらっただけなのに、毎日のように訪問されて疲弊したり、それはもう数えきれない。10代のころからそういう経験をしてきたこと、そして宗教に名を借りた大きな事件も起こり、私はすっかり「宗教」そのものが嫌いになってしまった。

そんな私が、470円を盗んでしまおうかと思った時に「かみさまに試されている」と思うのは、本当に滑稽だと思う。そして、私のかみさまは、私の行為をきちんと止めたのだ。

生きていく上で、どうしても避けられない困難や、やり場のない気持ちを、どうやって取り扱っていくのか。宗教は、長い歴史をかけてその問いへの答えを探してきたはずだ。心理学や哲学の本であれば抵抗なく読むのに、聖書は読むことができない。何が違うんだよ、と自分でも思うのだけれど、宗教は自分の頭を誰かに預けてしまうような気がして、どうしても抵抗感がある。

若い時は「強く信仰する宗教がある」という人とは、ちょっと距離を置きたい気持ちがしていたけれど、今は「私を勧誘しなければ良し」に基準が変わった。人が何かを信じたいということまでは、一応理解できるようになったからだ。

でも、そこまで。やはり私の生活の中に、宗教を受け入れることができない。これは、今までの私の環境や時代背景からして、仕方のないことだと思っている。

日本人は宗教に対して節操がないと言われるけれど、私の親戚には、毎日仏壇に熱心にお経をあげるのに、お友達とのおしゃべりが楽しみで、毎週教会に通っていた人がいる。私もちゃんと節操のない日本人なのだから、そのくらい気軽に宗教とつきあっていけたら良かったのにな、と思う。思うけれど、仕方ない。

私が頼ることができるのは、私の中のかみさま。人生に迷った時、いいことがあって誰かに感謝したい時、ふっと現れて何かを与えたり受け取ったりして去っていく。このかみさまは、実はただの中年女性なので、本当は頼りにはならないのだけれど、でも誰よりも私のことを知っている。

かみさまに、恥ずかしくない生き方をしなさい。何の拠り所もない私が、唯一心を開いている、私のかみさま。何かの見よう見まねなのは間違いないし、本当は正体も知っている。でもあえて「かみさま」と言うことで、ちょっと背筋が伸びる。

かみさま、かみさま、明日もどうぞ無事に過ごせますように。





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