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2021/05/24 「あらためて教養とは」を読む

村上陽一郎 先生の本です。
日本でもリベラルアーツが重要なんだ、と言われて久しいですが、
よくよく考えてみれば日本には昔から「教養」という美しい言葉がありました。
あらためて、その「教養」について考えることができる本です。

本書の前半では、海外におけるリベラルアーツの歴史を学ぶことができ、
後半で日本における教養について学ぶことが出来ます。
海外におけるリベラルアーツは今回は触れないことにして、
日本における「教養」について触れていこうと思います。

本書は、日本における振る舞いの変化について、明治〜大正時代から解説されるところから始まります。
そもそも戦前まで、食欲も、性欲も、睡眠欲も、こういった欲望について、
恣意的に他人の前に開放することに対する慎みがありましたが、
戦後、欲望は開放されるべきであり、抑制されることは個人の侵害であるという戦後教育が行われたのだ、といいます。
そしてさらに、戦後から現代に至るにつれて、今度は知的刺激を求めない人が増えた、と言います。その代表例として「本が読まれなくなった」と言われますが、村上先生が学生だった頃というのは、「読んでいないと恥ずかしい」という意識が強くあり、カント、ニーチェ、ドストエフスキー、夏目漱石 等々、読んでいないことそのものが恥ずかしかった、と言います。
(今だと、カントなんてコスパ悪い、とか言われてしまいそうです。)

このような時代にあって、教養ある人間になるためには、
自分に規矩を持つべきだと村上先生は指摘します。
自分に規矩があれば、他人の目に託した自分の目に映る自分の姿が恥ずかしくなるはずで、教養ある振る舞いができるようになるのだと言います。
(「隣の人と比べて自分のもらった魚が小さい」ときにどう振る舞うべきか、の例は面白かったです)
そして、そういった規矩を持った上で、現代社会に生きるためには、
専門性がある上に、専門以外の知識にも通暁している必要があるのだと、
かなり厳しい指摘もされています。

では、なぜこういった教養が重視されなくなったのかというと、
そうした感覚を「保守」という言葉で切り捨て、議論してこなかったからだと言います。
(このあたりの議論は「菊と刀」にも通じるところがあると思います。
村上先生は恥の文化を保守的に守りながら、規矩を柱に据えて、
日本人としての教養を作り上げていくべきだと仰っているのだと思います。
また、日本における規矩の拒絶は、欧米における宗教の拒絶に通じるものがあるのだと考えます。)
このあたりの思想をよく表した言葉が、本文中に現れる
人間というのは優越感と劣等感で育っていく』という言葉です。
恥の文化でなければ、こういった言葉はうまれないでしょう。


本書の最後には『教養のためのしてはならない百箇条』と題して、
「美味しいもの」とそうでないものとをはっきり区別はするが、食物についてとやかく言わない、書かない。
といったものがずらーっと書いてあります。
村上先生の考える教養ある人というのがよくわかる百箇条となっています。


リベラルアーツも重要だと思いますが、修辞学などは日本人にはなかなか馴染みがありません。
まずは教養から嗜むのも良いのではないでしょうか。

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